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北九州市埋蔵文化財センター
2006.10.9 北九州市小倉区
<北九州市> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
●人口(平成18年3月1日現在)総数99万2,332人(対前年同月増減数 2,892人減)男性 46万6,239人 女性 52万6,093人
●行政区 北九州市は以下の7つの行政区で構成される。 若松区 戸畑区 小倉北区 門司区 八幡西区 八幡東区 小倉南区
●行政区人口 門司区 10万8,304人 小倉北区 18万3,254人 小倉南区 21万4,836人 若松区 8万7,334人
八幡東区 7万5,233人 八幡西区 25万9,794人 戸畑区 6万3,577人
●面積 486.81km2
●隣接自治体 福岡県:中間市、直方市、行橋市、芦屋町、水巻町、鞍手町、香春町、福智町、苅田町、みやこ町
山口県(海上で隣接):下関市
●市の木 いちいがし 市の花 ツツジ、ヒマワリ
●北九州市役所 所在地 〒803-8501 福岡県北九州市小倉北区城内1番1号 電話番号 093-582-2236(広報課)
●ちなみに、現在(2006.12.1.)の日本の政令指定都市は 札幌 | 仙台 | さいたま | 千葉 | 横浜 | 川崎 | 静岡 |名古屋 |
京都 | 大阪 | 堺 | 神戸 | 広島 | 北九州 | 福岡 である。
北九州市は福岡県の北東端に位置し、関門海峡を挟んで山口県下関市と対峙している。市の北側は響灘に面し、東側は周防灘に
面しており、山地が多く、市域の山間部一帯は北九州国定公園に指定されている。カルスト台地で有名な平尾台や「100億ド
ルの夜景」で知られる皿倉山などが含まれる。1963年の、門司市・小倉市・戸畑市・八幡市・若松市の5市による対等合併
により誕生した九州初の政令指定都市で、北九州工業地帯としてよく知られている。三大都市圏以外で最初に政令指定都市に指
定された。下関市と北九州市は、関門海峡を挟んで対岸同士に位置しているため、5市合併よりも前から交流が盛んである。
関門海峡は、古代においての藤原広嗣の乱や壇ノ浦に至る源平の諸合戦、近世では戊辰戦争の舞台になるなどその地理的重要性
故に、数多くの戦乱にも巻き込まれてきた。
令制国においては、現在の門司区、小倉北区、小倉南区、八幡東区の東半分は豊前国(企救郡)に属し;戸畑区、八幡東区の西
半分、八幡西区、若松区は筑前国(遠賀郡、鞍手郡)に属しており、別の国であった。この豊前国と筑前国とも、山口市に拠点
を置く西日本最大の大名であった大内氏の時代には、この大内氏により守護されており、文化圏の枠組みでは、九州よりも本州
や瀬戸内海岸の文化に影響が強い。
1889年の市町村制施行により、それぞれが町制を敷き、大正時代に門司市、小倉市、戸畑市、八幡市、若松市が完成した。
当時より五市(場合によっては下関市を含めた六市)の合併が提起されていたが、1963年2月10日にこの5市が対等合併、
4月1日に政令指定都市となった。五市合併の際、合併後の新市名を住民公募した結果、「北九州市」という名称は2位だった
(1位は「西京市」だったが、「西京」の異名を持つ山口市が抗議した為、現在の市名に落ち着いた経緯がある)。
ちなみに「北九州」という名称は、この地域を走っていた西鉄の路面電車(2000年11月までに全線廃止)の、路線の総称として
「北九州市」誕生前から用いられていた。また市内にある北九州市立大学も1950年以来「北九州」を冠していた。
北九州市は、昔から交通の要所でもあり、重化学工業で栄えた都市である。古くから筑豊地方、京築地域、遠賀地方、福岡市周
辺はもとより、県外の山口県(下関・宇部)、大分県(中津・宇佐)などの地域との関係は歴史的・文化的に密接である。特に
山口県とは歴史的に非常に強い関係があり、文化面・経済面での影響を強く受けている。市内で使われる北九州弁も周辺地域の
影響を濃く受けており、市内でも西部と東部で差異が見られる。
速報展
旧石器時代
旧石器人は狩猟と採集で食料を得ていた。採集は森や野原で行っていたが、2万年前頃の北九州は針葉樹の森だった。それ以前
は落葉広葉樹が優勢だった。旧石器時代と新石器時代の区分は、前者が打製石器の時代に対し、後者は打製石器と磨製石器の併
存する時代と言うことができる。旧石器時代は石器の形により、前期・中期・後期・晩期に分けることができ、八幡西区馬場山
丘陵の洪積台地の辻田遺跡では8〜9万年前の堆積層より石器が出土している。若松区蜑住(あますみ)の椎木山遺跡からは旧
石器時代後期の竪穴住居跡が発掘されている。他にも後段で列記するような遺跡が北九州には存在する。新石器時代になると、
世界でも一番古い土器である「縄文土器」が出現し、今日では新石器時代は縄文時代とほぼ同義である。
縄文時代
縄文時代は今から約1万3千年くらい前に始まる。地質年代では新生代・第4完新世(沖積世)に当たり、石器時代としては
「新石器時代」と呼ばれる。旧石器時代との相違点は土器の使用である。土器の表面を縄で模様をつけた縄文土器が作られた。
縄文時代は紀元前4〜3世紀までで、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に区分される。氷河時代が終わって気候は温暖化
し、4500年くらい前までは海水面は現在より上昇していた。その後、気候は落ち着き、海水面も現在とほぼ同じになる。
この現象を(縄文)海進・海退と言う。北九州で見ると紫川下流域は湾となっていた。河口部は狭く、奥の深い湾になっていた
とされる。板櫃川河口も湾入していた。しかし、二つの川の下流域に湾があった小倉の縄文時代の遺跡には貝塚はない。貝塚は
縄文時代人のゴミ捨て場で、貝を食べた後の貝殻や魚・獣の骨、壊れた石器・骨角器・土器を捨て、時には死んだ人や家畜(主
に犬)を葬ることもあった。貝殻はカルシウムが主成分で、捨てられた骨なども残り、貝塚は縄文時代を研究する遺跡として大
きな役割を果たしている。
遠賀川流域と洞海湾岸の遺跡にも貝塚がある。海進時、遠賀川流域は海面の上昇により深い入海となり、東の洞海湾と通じ、岬
や小島が散在し、複雑な海岸線になっていた。このような遠賀川流域の状態を古遠賀湾、洞海湾も平野部が入海になっていて、
古洞海湾と呼ぶ。古遠賀湾口は広く開いており、それは砂の堆積、季節風や隆起によって砂丘が発達して、その発達によって湾
口をせき止め、山から運ばれて土砂が内海を埋め、干潟となり、湿地帯となり、現在の地形となっていった。この古遠賀湾岸の
10m程度の等高線上に貝塚群がある。響灘に面した山鹿貝塚(芦屋町)、その反対に内海深くにある楠橋貝塚(八幡西区)・新
延貝塚(鞍手町)・天神橋貝塚(直方市)、古洞海湾岸にある黒崎貝塚・永犬丸貝塚(八幡西区)がある。
北九州市・旧石器/縄文遺跡データベース(出典:各種出版物、公刊物、各種internetHP)
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遺跡名 () 旧石器
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●上横代遺跡 カミヨコシロ イセキ 福岡県北九州市小倉南区大字上横代
調査原因 横代75号線改築工事に伴う発掘調査
調査開始日 1997-04-01
調査終了日 1997-04-01
調査面積 10083
報告書 上横代遺跡 / 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室 [編]. -- 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室, 2000.3.
-- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ; 第249集 . 横代75号線建設工事に伴う埋蔵文化財の調査報告 ; 1).
主な時代 旧石器
主な遺構 包含層、柱穴、掘立柱建物跡、溝、土壙
主な遺物 後期旧石器時代剥片、縄文土器、弥生土器、石剣、石庖丁、土師器、須恵器、瓦器、輸入陶磁器
特記事項 室町時代後半の掘立柱建物跡
●峠遺跡 トウゲ イセキ 福岡県北九州市小倉南区大字長野
調査原因 徳力葛原線道路新設改良工事に伴う発掘調査
調査開始日 1996-12-02
調査終了日 1996-12-02
調査面積 7520
報告書 峠遺跡. -- [1], 2. -- 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査報告, 1998.3-. -- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ;
第217, 226集 . 徳力・葛原線道路新設改良工事に伴う埋蔵文化財の発掘調査報告 ; 6,9).
主な時代 旧石器
主な遺構 竪穴住居跡、貯蔵用竪穴、墳墓、土坑、溝
主な遺物 旧石器土器、須恵器、土師器、鉄製品
特記事項 後期旧石器時代の石器が出土
●丸ノ内遺跡 マルノウチ イセキ 福岡県北九州市小倉南区大字横代75番
調査原因 横代75号線道路改築工事に伴う発掘調査 調査開始日 1997-11-01 調査終了日 1997-11-01
調査面積 2600
報告書 丸ノ内遺跡 / 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室 [編]. -- 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室, 2000.3.
-- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ; 第250集 . 横代75号線建設工事に伴う埋蔵文化財の調査報告 ; 2).
種別 集落跡、包含層
主な時代 旧石器 主な遺構 土坑、柱穴、溝
主な遺物 後期旧石器時代剥片縄文時代早期の押型文土器
特記事項 後期旧石器時代の石器や縄文時代早期の押型文土器などが多数出土した
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遺跡名 () 縄文
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●永犬丸遺跡 (エイノマル イセキ ) 福岡県北九州市大字永犬丸他
調査原因 北九州市永犬丸・則松土地区画整理事業に伴う事前調査
調査開始日 1995-08-01
調査終了日 1995-08-01
調査面積 3342.5
報告書 永犬丸遺跡群 / 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室 [編]. -- 1, 2, 3. -- 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財
調査室, 1997. -- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ; 第206,216,231集 . 北九州市永犬丸・則松土地区画整理事業に伴
う埋蔵文化財調査報告 ; 1,2,3).
主な時代 縄文
主な遺構 柱穴群、土坑
●乙丸遺跡第2地点 オトマル イセキ 福岡県北九州市若松区大字乙丸
調査原因 道路工事
調査開始日 1996-07-01
調査終了日 1996-07-01
調査面積 900
報告書 乙丸遺跡第2地点 : 北九州市若松区大字乙丸所在. -- 北九州市教育委員会, 1998.3. -- (北九州市文化財調査報告書 /
北九州市教育委員会編 ; 第76集).
種別 包含層
主な時代 弥生 主な遺構 溝
主な遺物 縄文時代
●乙丸宮ノ下遺跡 オトマルミヤノシタ イセキ 福岡県北九州市若松区大字乙丸807番地4の外
調査原因 乙丸1号線改良工事
調査開始日 1995-10-01
調査終了日 1995-10-01
調査面積 1330
報告書 乙丸宮ノ下遺跡. -- 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室, 1998.3. -- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ; 第219
集).
種別 集落跡
主な時代 縄文
主な遺構 土壙墓、集石
主な遺物 土器、須恵器、土師器、製塩土器、石製品、木製品
●御座遺跡群 オンザ イセキグン 福岡県北九州市小倉南区大字貫
調査原因 弥生が丘ニュータウン建設工事に伴う発掘調査
調査開始日 1985-04-03
調査終了日 1985-04-03
調査面積 18860
報告書 御座遺跡群 / 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室 [編]. -- 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室, 1999.3.
-- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ; 第236集 . 西鉄弥生が丘ニュータウン建設に伴う埋蔵文化財調査報告 ; 1).
主な時代 縄文
主な遺構 墳墓
主な遺物 縄文土器、石器
●遺片伊田遺跡 カタイタ イセキ 福岡県北九州市小倉南区津田1丁目16-3
調査原因 徳力・葛原線道路新設改良工事
調査開始日 1998-04-01
調査終了日 1998-04-01
調査面積 1050
報告書 片伊田遺跡 / 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室 [編]. -- [1] (2区) - 5 (12区の調査). -- 北九州市教育文化
事業団埋蔵文化財調査室, 1996-. -- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ; 第190,195,207,225,227集 . 徳力・葛原線道路
新設改良工事に伴う埋蔵文化財の発掘調査報告 ; [1],2,5,8,10).
種別 包含層
主な時代 縄文
主な遺構 溝、杭列
主な遺物 縄文土器、須恵器、瓦質土器、陶磁器、不明木製品
●金山遺跡 カナヤマ イセキ 福岡県北九州市小倉南区横代東町4丁目外
調査原因 道路建設工事に伴う発掘調査
調査開始日 1998-10-11
調査終了日 1998-10-11
調査面積 1904
報告書 金山遺跡 / 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室 [編]. -- 2区 - 4 : 1・5区. -- 北九州市教育文化事業団埋蔵文
化財調査室, 1992.3-. -- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ; 第122, 184, 212, 223, 224集 . 都市計画道路横代28号線建
設工事に伴う埋蔵文化財調査報告 ; 1-5).
種別 集落跡、墓跡
主な時代 縄文
主な遺構 溝
主な遺物 弥生土器
●上長野遺跡 カミナガノ イセキ 所在地 福岡県北九州市小倉南区大字長野376-2
調査原因 北九州市総合運動公園に伴う事前調査
調査開始日 1996-12-09
調査終了日 1996-12-09
調査面積 1408
報告書 長野角屋敷遺跡 : 旧上長野A遺跡第一地点 / 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室 [編]. -- [1], 2. -- 北九州市
教育文化事業団埋蔵文化財調査室, 1999.3-. -- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ; 第235,263集 . 北九州市総合運動公
園建設に伴う埋蔵文化財調査報告 ; 1,5).
主な時代 縄文
主な遺構 包含層
主な遺物 押型文土器
●小倉城下屋敷跡 コクラジョウシタ ヤシキアト 福岡県北九州市小倉北区城内1-1
調査原因 小笠原記念館建設工事に伴う発掘調査
調査開始日 1996-04-01
調査終了日 1996-04-01
調査面積 2100
報告書 小倉城下屋敷跡 / 北九州市文化事業団埋蔵文化財調査室[編集]. -- 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室, 1998.3.
-- (北九州市埋蔵文化財 調査報告書 ; 第222集).
主な時代 縄文
主な遺構
主な遺物 獣骨製、縄文土器、打製石斧、獣形勾玉
●高野遺跡 タカノ イセキ 福岡県北九州市小倉南区高野2丁目10
調査原因 長尾公園建設工事に伴う調査報告
調査開始日 1991-07-22
調査終了日 1991-07-22
調査面積 4000
報告書 高野遺跡 : 長尾公園建設工事に伴う調査報告 / 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室[編]. -- 北九州市教育文化
事業団埋蔵文化財調査室, 1997.3. -- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ; 第198集).
種別 集落
主な時代 縄文
主な遺構 土坑、井戸、通路状遺構、木棺墓
主な遺物 土器、石器、鉄器、青銅製?帯、石帯、木製壺鐙
●高坊遺跡 タカボウ イセキ 福岡県北九州市小倉北区高坊1丁目
調査原因 県営城野団地建設工事
調査開始日 1995-10-16
調査終了日 1995-10-16
調査面積 1765
報告書 高坊遺跡 : 県営城野団地建設に伴う埋蔵文化財調査報告/ 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室[編]. -- (第1次調
査). -- 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室, 2000.1. -- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ; 第243集).
種別 集落跡
主な時代 縄文
主な遺構 落とし穴、住居跡、土坑
主な遺物 石斧、石包丁、土錘、打製石鏃、磨石
●中貫遺跡 ナカヌキ イセキ 福岡県北九州市小倉南区大字貫
調査原因 西鉄弥生が丘団地建設に伴う事前調査
調査開始日 1985-07-22
調査終了日 1985-07-22
調査面積 1600
報告書 中貫遺跡 / 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室 [編]. -- 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室, 1999.3.
-- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ; 第238集 . 西鉄弥生が丘団地建設に伴う埋蔵文化財調査報告 ; 3).
種別 集落跡
主な時代 縄文
主な遺構 土坑
主な遺物 縄文時代後・晩期土器、石器
特記事項 縄文後期中頃の西平式土器の文化層の検出は北九州市域では初めてであった
●南方・上ケ田遺跡第13地点 ミナミカタ アゲガタ イセキ 福岡県北九州市小倉南区徳力
調査原因 徳力土地区画整理事業地内区画道路工事に伴う発掘調査
調査開始日 1991-10-29
調査終了日 1991-10-29
調査面積 312
報告書 南方・上ケ田遺跡第13地点・守恒遺跡第10地点・徳力遺跡第20地点・玉塚遺跡第5地点・上徳力遺跡第23地点 / 北九州
市教育文化事業団埋蔵文化財調査室[編]. -- 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室, 1997.3. -- (北九州市埋蔵文
化財調査報告書 ; 第199集 . 徳力土地区画整理事業関係調査報告 ; 10).
種別 集落
主な時代 縄文
主な遺構 土坑
主な遺物 土器、石器
●森山西遺跡 モリヤマニシ イセキ 福岡県北九州市小倉南区津田南町2丁目
調査原因 徳力・葛原線道路新設改良工事に伴う事前調査
調査開始日 1994-04-01
調査終了日 1994-04-01
調査面積 3800
報告書 森山西遺跡 / 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室 [編]. -- [1] 1区, 2 2区, 3区. -- 北九州市教育文化事業団
埋蔵文化財調査室, 1997. -- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ; 第203,204,218集 . 徳力・葛原線道路新設改良工事に
伴う埋蔵文化財の発掘調査報告書 ; 3,4,7).
種別 集落跡
主な時代 縄文 主な遺構 炉跡、土坑
主な遺物 縄文時代早期押型文土器、山形押型文土器、打製石斧、石皿、石斧、ナイフ形石器、叩き石
●脇田丸山遺跡 ワキタマルヤマ イセキ 福岡県北九州市若松区安屋
調査原因 脇田漁港関連道路整備事業に伴う埋蔵文化財の発掘調査
調査開始日 1995-04-01
調査終了日 1995-04-01
調査面積 2155
報告書 脇田丸山遺跡 : 脇田漁港関連道路整備事業に伴う埋蔵文化財の発掘調査 / 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室
[編]. -- 2. -- 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室, 2000.3. -- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ; 第241集).
種別 集落跡
主な時代 縄文
主な遺構 掘立柱建物跡
主な遺物 土器、石器、土錘
●丸ノ内南遺跡 マルノウチミナミ イセキ 福岡県北九州市小倉南区大字横代35番
調査原因 (仮称)北九州市総合運動公園建設工事に伴う発掘調査
調査開始日 1998-06-02
調査終了日 1998-06-02
調査面積 1480
報告書 丸ノ内南遺跡 / 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室 [編]. -- 北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室, 2000.3.
-- (北九州市埋蔵文化財調査報告書 ; 第253集 . (仮称)北九州市総合運動公園関係調査報告).
主な時代 縄文
主な遺構 竪穴式住居跡、貯蔵用竪穴、溝、土坑
主な遺物 縄文土器、弥生土器、石器、土師器、輸入陶磁器、国産陶磁器、鉄製品、銅製品
特記事項 北九州市内で初めて縄文時代早期の神子柴型石斧を出土した
弥生時代
遠賀平野での稲作適地は、遠賀川が土砂を運び形成した沖積土三角州の周辺地域だった。洞海湾に面した河川に形成された沖積地
なども稲作適地だった。遠賀川流域の立屋敷(水巻町)から出土した弥生前期の土器は遠賀式土器と呼ばれ、紀元前2世紀には南
は薩南諸島の一部、東は伊勢湾沿岸と丹後半島を結ぶ線まで広がっていた。川の土砂が堆積する泥質の沖積地は稲作の適地である。
米は道具との交換が可能で、それは財産として価値を持ったと思われる。トミの蓄積による集落間での格差が広がり、水田をめぐ
って争い、あるときは助け合って灌漑工事を完成させた。いくつもの集落を有力な集落が支配し、その首長は農事や灌漑工事、祭
祀をとり行い、時には戦って一定地域を支配するようになった。このようにして、弥生時代は身分差が生じるようになる。
遠賀川式土器と同じように、弥生前期の土器の高槻式土器が出土した高槻遺跡群(八幡東区)では、石斧とその未完成品が発見され
た。近くの山にある石材を原料にして製作されている。これはもっぱら集落内で使うことを目的に作られたものと推測されるが、
周辺各地に分布しているので、交易で流通していったと思われる。しかしまだ稲作だけでは食料は不十分だった。小倉南区の長野
小西田遺跡では、ドングリを水にさらしてあくを抜いた、30m以上もの水さらし場遺構が発掘されている。
紀元前1世紀から紀元1世紀の弥生時代中期になると、青銅器製の武器や楽器が朝鮮半島より入ってきて、そのうち国内で鋳造さ
れるようになる。そしてそれらはしだいに祭祀に使われるものとして、銅剣・銅鉾・銅戈・銅鐸などが作られる。銅鏡は中国製の
ものが朝鮮半島を経由して入ってきた。中国製の鏡や、のちに国内で作られた倣製鏡も副葬されて出土する。鉄器も弥生時代初め
に朝鮮半島から入ってきて、中期には木工具・農具・武器の鉄器が揃った。後期には実用器は石器から鉄器に完全に移行した。
水田耕作には鉄製の工具や石斧で作られた木製の鍬・鋤・えぶりが使われた。収穫には石包丁のほか、木・竹で作られた道具で穂
首が刈られ、木臼や竪杵などで脱穀され、収穫した米や種籾は高床式の倉庫で保管された。
首長はこれらの倉庫の管理や季節ごとの農耕神事や様々な祭祀を主宰し、水田の造成や灌漑のための集団労働を指導するなどその
役割は大きくなってきた。この時代、採集や狩猟・漁労も行われていた。漁労に関わった海人は専業化の方向に向かい、土器によ
る製塩も専業・集団化していった。石斧を作る工人や青銅器を鋳造する集団が生まれ、船による海人たちの活躍は各地との交易や
海外との交流を支えた。このようにして共同体の間の分業や交易が活発になった。
弥生時代の北部九州の墓制は甕棺墓だが、これに次いで、板石を組み合せた箱式棺が多く、他に土を掘って埋めただけの土壙墓な
どがある。これらは地上に目印は無く、数個の石を置いて、その上に大きな石を置く支石墓は、朝鮮半島の影響を受けたものと思
われる。これらの墓の多くは副葬品を伴わないものが多いが、なかには青銅器や鉄器、玉類や装身具を副葬したものがある。これ
はこの時代、身分差ができたことを物語っている。
紀元前202年、漢(前漢)が中国を統一する。この動乱の中、衛満が朝鮮に亡命し、紀元前195年、彼は王を追放し、自分が
王となって「衛氏朝鮮」が成立する。衛氏朝鮮は領土拡大を狙って中国からの移民を受け入れ、このため、土地を奪われた朝鮮の
人々が北部九州に多く渡来してきたと言われる。前漢は武帝の時代朝鮮半島に侵入し、四郡を置きその後四郡のうち二郡が廃止さ
れ、一郡は縮小され楽浪郡のみが存続する。この楽浪郡を通じて周辺諸国は漢との交流を求め、「漢書地理志」に、紀元前1世紀
頃、倭国が百余国に分かれて、楽浪郡に交易に来た事が記録されている。
紀元前1世紀頃、朝鮮半島北部から中国東北部にかけて高句麗が進出する。前漢はこの頃から衰退し、ついには「新」となるが、
やがてそれも滅び、後漢の光武帝が新たに中国を統一する。「後漢書東夷伝」には、紀元57年、倭の奴(な)国王が使者を光武
帝に送り、金印綬を授けられたことが記述されている。江戸時代、福岡市の志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印が、この印
綬であるとされている。同じく後漢書には、107年、倭国王帥升(すいしょう)が生口160人を献じたとも書かれていて、こ
の倭国はどの国のことか判然としないが、当時、北部九州の首長達は活発に中国と交流していたものと思われる。
当時朝鮮半島の南部の韓には、馬韓・辰韓・弁辰があった。そしてその内部は小国に分立していた。後漢はその後も政争が続き、
倭国から直接使者が行くことはなかったが、楽浪郡・韓・倭の交流は盛んに行われていたようである。
2世紀末、軍閥の公孫氏が朝鮮半島北部を支配するようになり、公孫氏は楽浪郡の南に帯方郡を置き、韓や倭と外交を行うように
なる。220年、後漢は滅亡し、中国は「魏・呉・蜀」の三国時代に入る。魏はのち公孫氏を倒し、帯方郡を引き継ぐ。
「三国志」の「魏志倭人伝」によれば、2世紀末、倭国は大きく乱れ、長期間戦いの中にあった。この時代の集落は溝や濠によっ
て囲まれた環濠集落となる。おそらくは北部九州が中国から見た「倭」であった国の首長達は、はじめ男王を立てていたが、大乱
が起こり、鬼道にたけた「卑弥呼」を「邪馬台国」の女王に立てることによって大乱を収める。邪馬台国に到る道程の中で、現在
判明している国は、対海国(対馬)、一大国(壱岐)、末盧国(肥前松浦郡)、伊都国(筑前怡土郡)、奴国(筑前那珂郡)であ
る。これらの国が北部九州にあったことはその位置関係、距離、地名などから特に異論はないようだ。邪馬台国に属していたのは
この5国を含めて20余国あり、北部九州が邪馬台国の勢力内にあったのは間違いないが、現在の北九州市がどのような名前で、
邪馬台国連合国のなかでどんな役割を持っていたかは定かでない。
古墳時代
遠賀郡には島津丸山古墳(遠賀町)を始めとして、4〜5世紀の数基の前方後円墳がある。北九州市域でみると、紫川流域に方形
周溝墓は見られるが前方後円墳はない。郷屋古墳や南方浦山古墳のように、弥生時代の伝統的な箱式石棺がある円墳が存在し、前
者は紫川流域にある最古の古墳で、双方とも紫川中流域にあり有力豪族の墓と思われる。
4世紀初め、高句麗によって楽浪郡と帯方郡は滅ばされ、高句麗は中国東北地方、沿海州、朝鮮半島北部にまたがる国となる。同
じ時期、馬韓を統一して朝鮮半島南西部に百済ができ、4世紀中頃、辰韓を統一して朝鮮南東部に新羅ができ、弁辰は百済と新羅
に挟まれ、小国が分立して「加羅」と呼ばれていた。倭国は加羅に鉄を求めた。奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に伝わる
七支刀の銘文には、「369年、七支刀を造り、百済王が倭王に送った」という意味の文が刻まれている。石上神宮はのちの物部
氏の氏神である。そして物部氏は元来、現在の遠賀郡から北九州市にいた豪族である可能性が高い。とすればこの七支刀は、物部
氏が九州から携えてきた宝物だったのかもしれない。
このHPでは随所で強調してきたが、北部九州には神功皇后の伝説が数多く残されている。記紀によれば、神功皇后は14代仲哀
天皇の妃であり、15代応神天皇はその子であり、16代仁徳天皇は孫にあたる。現在では神功皇后は非実在説が優勢だが、その
描かれた時代は4世紀から5世紀にかけてとされ、朝鮮出兵についても、高句麗の好太王碑文に、4世紀末、倭が渡海して攻めて
来たこと書かれており、神功皇后の出兵説とも符合する。
<仲哀天皇と神功皇后の西征>
九州に向かって出発の際、崗県主(おかのあがたぬし)の先祖、熊鰐(くまわに)が出迎えに来る。崗とは遠賀のことである。岡
田神社(八幡西区)には県主の祖神が祀られている。熊鰐は船の舳先に賢木(さかき)を立てて、その枝に鏡・剣・玉を下げた。
そして、熊鰐は魚塩(なしお)の地を献上した。それらは現在。埋め立てられてなくなっている名籠屋崎(戸畑区)や洞海湾、六
連島、藍島、白島の漁場と逆水(さかみず・若松区)の塩田地である。仲哀天皇と神功皇后は関門海峡を通る。
仲哀天皇の船は響灘から山鹿岬(若松区遠見ヶ鼻)を回って、岡浦に入って来るが、ここで船は進めなくなる。水先案内を務めて
いた熊鰐は、この浦のほとりの男女二神のせいだと言う。そこで、祓いをすると船は前進し、岡浦から九州に上陸した。この二神
を祭神とするのが高倉神社(岡垣町)と岡湊神社(芦屋町)である。男神の大倉主は高倉を本拠にした遠賀地方の豪族で、遠賀・
企救郡を支配していたと思われる。
神功皇后は仲哀天皇とは別の船で、彦島から関門海峡を南下し、小森江(門司区)に渡る。小森江や近くの白木崎は高麗や新羅に
由来する地名で、後の時代に付けられたものと思われる。小森江に停泊し、風師山に登り、ここで海上交通の安全を祈って神祇を
行う。小森江を後にして、一行は洞海(くきのうみ・洞海湾)に入って行く。若松の浦に入った時、一行は海岸で霊石を得て大い
に喜び、武内宿禰が事代主を祀らせ、その側に若松を植えて、霊地にしたので、若松と呼ばれるようになったと言われる。
神功皇后は洞海湾の南岸に陣営を設ける。いまその地には仲宿八幡神社(八幡東区)がある。ここから皿倉山に登り、国見岩から
国見をする。下山の途中で日が暮れ、ますます暗くなったので、「さらに暗し」と言ったことから、さらくら山と呼ぶようになった
と書記は記す。
一行は皇后崎(八幡西区)でしばらく停泊した後、江川に進み、その途中で二島(若松区)に寄る。二島の日吉神社の近くに紅影
の池がある。神功皇后が装束を改めようとしたが、清水がなかったので、村人の案内で泉のほとりに立つと、澄み切った水に顔の
紅まではっきり映ったので、紅影の池と呼ぶようになったと言う。神功皇后一行は洞海湾から江川に進んでいくが、干潮のため船
は身動きが取れなくなる。その時、岡浦から熊鰐が出迎えにやって来るが、この様子を見て恐れおののき、皇后の怒りを鎮めよう
とする。熊鰐は干潟に魚と鳥の池、魚鳥池(ぎょちょういけ)をつくり、魚と鳥を集める。魚と鳥が群がっているのを眺めた神功
皇后は気分を直し、この地に魚鳥池の跡(若松区払川)がある。やがて、潮が満ちて来て、皇后一行は再び出発する。神功皇后は
岡津(芦屋)で仲哀天皇と合流する。
岡津は遠賀川河口にあり、ここでしばらく滞在し、遠賀川の下流域を巡幸している。大倉主を祀る高倉神社に参拝したり、垣生
(中間市)に行ったりする。岡津を出発して、儺県(なのあがた)の橿日宮(かしひのみや・福岡市香椎)を目指し、仲哀天皇は
海路を、神功皇后は陸路を進む。陸路は遠賀川の支流の西川を南に上り、現在の鞍手郡、宗像郡、古賀市から香椎に入る。橿日宮
があった所が現在の「香椎宮」である。ここで熊襲討伐の軍議を行う。その最中、神功皇后は神がかり状態になり、仲哀天皇に次
のように言う。「熊襲の土地は荒れて、討つに値しない。その国よりも海の向こうの金・銀がたくさんある国がある。そちらを討
ちなさい。」しかし仲哀天皇は、この神のお告げに対して、高い山に登りそんな国は見えないと疑いを持ち、従わなかった。神に
逆らった仲哀天皇は香椎宮で急死する。
神功皇后と武内宿禰は仲哀天皇の死を隠し、朝鮮への出兵を決意する。この時、神功皇后は身ごもっていた。朝鮮出兵前に熊襲や
逆らう者達を討ち、各地を巡幸する。我が故郷甘木市の羽白熊鷲(はしろくまわし)征伐譚もここに登場するが、ここでは割愛す
る。その後、群臣を集めて軍議を行い、諸国では出兵の準備が行われる。北九州関連では、馬寄(まいそう・門司区)では軍馬を
集め、帆柱山(八幡西区)では木を切って船の帆柱とし、勝山(八幡東区)では竹を切って旗竿にした。朝鮮に出兵した皇后軍は、
新羅の金城(韓国慶州)を包囲し新羅は降伏した。
凱旋帰国した神功皇后は出産する。その場所は宇美八幡宮(糟屋郡宇美町)である。出産したのは男児で、後の応神天皇である。
この後、神功皇后は穴門の豊浦宮に向かい、香椎宮に来た時とは違うルートをとった。宇美から穂波を通って、飯塚に入り、南下
して嘉穂を通り、英彦山に登って、田川に入り、京都郡に出る。ここから船に乗って周防灘を南下し宇佐に入る。宇佐を巡幸した
後、船で周防灘を北上し、苅田で再び上陸して到津(小倉北区)に向かうのである。
古墳時代も中期(5世紀)には、前方後円墳は前方部がしだいに大きくなる。内部構造は朝鮮半島の影響により竪穴式石室から
横穴式に移行していく。副葬品は鉄器が多量に出土してくるようになり、また馬具や須恵器などが副葬されるようになる。北九
州の紫川流域では、箱式石棺を有する円墳が竪穴式石室や横穴式石室を有する円墳に代わっていき、しだいに大和王権の影響を
受けていったものと思われる。古墳の副葬品としては鏡、玉類、鉄製の武器、農工具や馬具や須恵器がある。小倉南区曽根から
貫にかけて数基の前方後円墳があるが、茶毘志山(ちゃびしやま)古墳は5世紀後半に築かれた。
同時期畿内の河内には、巨大古墳が集中して出現する。その最大のものは堺市の仁徳陵古墳で、全長486mにも達する前方後
円墳である。河内は大和と難波津を結ぶルートにあり、難波津は瀬戸内海ルートの発着点で、海外への畿内の玄関口になってい
た。難波津を通って中国・朝鮮半島から渡来文化が入ってきた。特に任那や百済から多くの技術者が渡来したものと考えられる。
渡来した氏族で有名なのは、弓月君(ゆづきのきみ)に率いられて渡来したと伝えられている秦(はた)氏、阿知使(あちのお
み)に率いられて渡来したと伝えられている氏族のうち、大和に定着した東漢(やまとあや)氏、河内に定着した西文(かわち
のふみ)氏がある。技術者は陶部(すえつくりべ)・鞍部(くらつくりべ)画部(えかきべ)・錦織部(にしごりべ)等の人々
である。我が歴史倶楽部の錦織さんも、本人もそう言っているが、これら渡来人の末裔なのかもしれない。
陶部は須恵器の生産、鞍部は馬具の製作、画部は絵画を描き、錦織部は織物を織る仕事に従事する人々である。土師器(はじき)
は酸化炎で焼いた赤褐色軟質の土器に対し、須恵器は高温の還元炎で焼いた灰褐色硬質の土器である。この他、鍛冶の技術者も
渡来し、武具や農具の鉄器の生産に寄与した。このような技術の渡来は、この時代の生産力を高め、階級の分化を進め、権力者
の基盤を強化していった。
古墳時代後期は6・7世紀に当たる。前方後円墳は規模が小さくなり、後円部が小さくなり、前方部が大きくなる。各地で小規
模な古墳が一箇所に群がるという、群集墓が出現する。これは、特定の限られた有力豪族のみでなく、中小の豪族も古墳の造営
を行うようになった結果と思われる。北九州では、6世紀の中頃、曽根・貫地域の前方後円墳の荒神森古墳(小倉南区)や、響
灘を臨む丘陵斜面に築かれた6世紀末の円墳、日明一本松塚古墳(小倉北区)がある。日明一本松塚古墳の石室にはベンガラで、
放射線状文様が描かれている。この時期、九州の古墳のうち、石室の壁面に三角、月、蕨(わらび)手等の文様、馬、船、人物
などや独特の構図を絵具で描いた装飾古墳があり、近くでは、遠賀川の支流の流域の王塚古墳(嘉穂郡桂川町)や竹原古墳(鞍
手郡若宮町)がある。
律令時代
中世
小倉城
<歴史年表>
740年 - 藤原広嗣の乱。小倉北区板櫃川で広嗣軍と官軍の会戦が発生する。
769年 - 宇佐八幡宮神託事件。和気清麻呂が大隅国へ配流される途中、道鏡の追っ手により足を負傷したが、足立山の冷泉で平癒
した伝説がある。
1185年 - 壇ノ浦の戦い。現在のJR門司駅周辺は、源平合戦に際して安徳天皇がこの地に住まわれた事から「大里(だいり←内裏)」
の地名が残る。また、小倉南区の「隠蓑」の地名は、壇ノ浦で入水したと見せかけ源氏の追っ手を逃れていた安徳天皇が、
藁の中に身を隠されていたと言う伝承にちなむ。
1244年 - 門司城の築城工事始まる。
1403年 - 大内盛見、豊前守護に任じられる。
1477年 - 大内政弘が筑前、豊前の守護職に任じられる。
1551年 - 大内義隆が、家臣陶晴賢のために自殺。この陶氏の要請で、弟、晴英が大内氏を継いだため、これに乗じた大友義鎮が
大内氏旧領の豊前、筑前を取り込み、制圧する事に成功。
1587年 - 豊臣秀吉の九州平定に伴い、毛利勝信、小倉六万石に封じられる。
1600年 - 関ヶ原の戦いの論功行賞により、細川忠興が豊前39万9000石に加増移封。毛利勝信・毛利勝永親子は西軍に組したため
改易。
1602年 - 小倉城築城。
1612年 - 巌流島の決闘。
1632年 - 細川忠利、熊本に移封。小笠原忠真、小倉15万石に封じられる。以後、幕末まで小笠原氏が小倉を統治する。
1866年 - 小倉藩と長州藩の間で長州戦争が勃発する。
1871年 - 廃藩置県により、小倉県と福岡県が成立(1876年に、小倉県は福岡県と大分県に分割・合併される)。
1875年 - 小倉に歩兵第14連隊が設置。連隊長心得として乃木希典が着任する。
1891年 - 九州鉄道門司(現門司港駅)〜高瀬(現玉名駅)間開業。筑豊興業鉄道若松〜直方間開業。
1899年 - この地域で初めての市として門司市が誕生。
1900年4月1日 - 小倉町が市制施行。
1901年2月5日 - 官営八幡製鉄所が操業を開始する。
1918年 - 門司、戸畑に米騒動が波及。暴徒鎮圧の為 に小倉第12師団が出動。
1933年 - 小倉造兵廠が完成する。
1942年11月15日 - 関門鉄道トンネルが開通する。
1945年8月9日 - 小倉市が広島市に次ぐ原子爆弾の第二の標的となり、B-29が飛来するが、曇天と前日に大空襲を受けた八幡市か
らの煙の為視界が悪く投下を免れる。結果第二弾は長崎市に投下された。
1958年3月9日 - 関門国道トンネルが開通する。
1962年9月26日 - 若戸大橋が開通する。
1963年2月10日 - 門司市・小倉市・戸畑市・八幡市・若松市の5市が対等合併し、北九州市が成立する。
1963年4月1日 - 北九州市が政令指定都市に指定され、門司区・小倉区・戸畑区・八幡区・若松区の5区が成立。区域はほぼ合併前
の各市域に対応する(一部例外あり)。
1973年11月14日 - 関門海峡に関門橋が開通する。
1974年4月1日 - 小倉区の一部が小倉北区と小倉南区に、八幡区と小倉区・若松区の一部が八幡東区と八幡西区にそれぞれ分割。
1975年3月10日 - 山陽新幹線小倉駅開業。
2006年3月16日 - 周防灘沖3キロ地点に新北九州空港が開港。
戦時資料展示コ−ナー
帰りのJRから見た遠賀川。この川で大きく博多文化圏と小倉文化圏に分かれているような気もする。私が子供の頃は、すぐ
山の裏にもかかわらず、筑豊やその向こうの北九州圏は、なにか別のクニのような感じだった。勿論親戚もいたし、子供時代
には遊びに行った事もあるのだが、何か実家の廻りの甘木・朝倉地域や博多あたりとは異なる文化圏のような気がしていた。
それが単に炭田や工業地帯という、田園都市とは異なる様相を呈していたからではなく、何かいにしへからの大きな違いがあ
るのではないかと最近思うようになった。おそらくは北九州に渡来してきた部族が違っていた事に起因する、「血の相違」の
ようなものかもしれない。
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