12月に東京出張になった。週末だったので土日を娘夫婦の所で過ごして、土曜日に柴又へやってきた。何度かここへは来ているが、
ここに「葛飾区郷土と天文の博物館」があると知ったので見学に来たのだ。娘夫婦と柴又で鰻を食って、寅さん博物館なるものも見
学した。娘夫婦は鰻を食ったらもう退屈だったらしく、「葛飾区郷土と天文の博物館」は見学せずさっさと帰って行った。まったく
現金な奴らだ。
寅さんの実家のモデルになった「とらや」。映画と同じようにだんごを売っている。
「帝釈天で産湯を使い、・・」の柴又帝釈天。
寅さん記念館
いつの間にやらこんなものを造ってしまって。こんな架空の見せ物で500円も取るなんて。
寅さん映画の見所の一つはこのマドンナである。当代の美女がズラリと出演している。
柴又八幡神社
古墳時代の寅さんが出土した古墳! 柴又八幡神社古墳(葛飾区指定文化財)(郷土と天文の博物館HPより)
所在地:東京都葛飾区柴又3丁目/年代:古墳時代後期(約1400年前)
1 遺跡
柴又八幡神社古墳は、東京東部に広がる東京低地に位置する。横穴石室と埴輪を伴う古墳時代後期6世紀後半に築かれた古墳
で、規模、墳形などの詳細なデータは現在学術調査中であり整理作業終了後に報告する予定である。
石室の石材は、法皇塚古墳(千葉県市川市)、赤羽台古墳群(東京都北区)、将軍山古墳(埼玉県行田市)と同じ房州石で、房
総半島の鋸山周辺の海岸部から持ち込まれたものである。出土した形象・円筒埴輪は、いわゆる下総型に属するものである。
本古墳は、房総と武蔵との境界地域に位置し、両地域の地域性と交流を示す古墳として注目されている。
2 学術調査
葛飾区郷土と天文の博物館では、東京低地の古代を探るべく地元の協力を得て柴又八幡神社古墳の学術調査を博物館考古学ボ
ランティア「葛飾考古学クラブ」とともに平成10年から行っている。平成13年7〜8月に行われた第5次学術調査では、社殿北
西の調査区から人物埴輪が3体出土し、そのうち1点は帽子を被っていた。出土した時、考古学ボランティアが「あ!寅さんだ!」
声を上げたほど、葛飾柴又ならではの発見となった。出土した8月4日は、奇しくも渥美清さんの命日だった。「寅さん似の埴
輪」として地元でも話題となり、山田洋次監督自ら遺物整理を行っている博物館まで見学に訪れている。
3 出土した埴輪
(1) 人物埴輪(古墳時代後期) 高さ72.5センチ(復元)
平成12年度に実施した第4次学術調査で出土した胴部下半を表現しない女性の半身像で、基部と手先や髷部を失っているもの
のほぼ全容の知れる資料である。遺存状況から頭部にはつぶし島田が結われ耳環が付いていたことがわかる。首には大きな突帯
が巡り、首から胸に掛けて大粒のボタン状貼付で2列の玉が下がる首飾りが表現されている。
当時の新聞報道では「養老五年下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」(正倉院文書)に記載されている「孔王部佐久良売」に引っ掛けて
古墳時代のサクラさんとして報道された。
(2) 人物埴輪頭部破片
古墳時代後期 高さ20.5センチ 帽子を被った男性の頭部破片である。眉毛と鼻はT字状に作り出し、目と口は横長に穿たれ
ており、下総型としては比較的首が長く表現されている。首には突帯が巡り、耳環と首飾りが施され、額には白く塗彩した痕が
残っている。帽子は鍔付で深さのない丸身のもので、頭頂部には孔が開いている。
ここにかって柴又古墳があったのだ。形象埴輪が廻りを取り囲んだ円墳があり、直刀、馬具、鉄鏃、須恵器などが出土している。
葛飾区立 郷土と天文の博物館
柴又駅から幾つか東京寄りに「お花茶屋駅」があり、葛飾区の博物館はここにある。駅から歩いて10分ぽど。
これが「寅さん」埴輪である。帽子をかぶっている埴輪がまた都合良く柴又で出るなんて。
葛飾・柴又の古墳から馬の埴輪が出土 葛飾区柴又にある『柴又八幡神社古墳』。当館では、ボランティア『葛飾考古学クラブ』
の皆さんと、1998年から2003年にかけて、この古墳の調査を行いました。古墳のまわりから出土した約200点の埴輪の破片を組み
合わせた結果、その内150点ほどの破片が接合し、馬の全容を推測することもできました。都内では、過去に馬の埴輪が採集され
ていますが、発掘調査によってこのように全体の形を復元できる資料は初めてです。
柴又八幡神社古墳からは、いわゆる『寅さん埴輪』が出土し注目されたことがありましたが、今回の発見で、人物埴輪だけで
なく馬の埴輪などが飾り置かれた東京を代表する古墳であることが改めて確認されました。接合された資料は来年度には復元作
業が行なわれ、リニューアルされる常設展示室で一般公開される予定です。(平成20年12月2日)
(郷土と天文の博物館HPより)
葛西城 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
葛西城(かさいじょう)は、現在の東京都葛飾区青戸にあった城である。築城者、築城年代は不明だが、桓武平氏の流れをくむ
葛西氏が鎌倉期に城館として築いたとされる。中川の蛇行部を天然の堀として背後に持つ平城で、戦国期には下総国への重要な
進出拠点として、扇谷上杉氏や後北条氏の支配下に置かれた。
特に国府台合戦時には後北条氏側の最前線として重用され、中川・太日川を挟んで国府台城に陣取る小弓公方足利義明や里見氏
らと激戦を繰り広げた。2度の国府台の戦いで先鋒を務め、2度目の戦いで戦死した遠山綱景は葛西城の城主であった。また、後
北条氏によって擁立された古河公方足利義氏の就任式が行われたのも葛西城であった。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に戸田忠次らによって攻められ落城。廃城となるが、徳川家康が江戸に入
府後は城跡に「青戸御殿(葛西御殿とも)」と呼ばれる陣屋が建てられ、3代家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されたが、明
暦3年(1657年)頃、明暦の大火で焼失した江戸城再建の資材のために破却されたという。
<現在の城>
中心部を南北に環七通りが横切っており、わずかに東西に分断されて残った城郭跡がそれぞれ「御殿山公園」、「葛西城址公園」
となっている。昭和47年(1972年)に道路建設に伴う発掘調査が行われ、戦国期の陶磁器、漆器、人骨など様々な遺物が発掘さ
れたものの、城址の保存はかなわず、城跡は永遠に道路下に埋め戻されてしまった。
葛西氏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
葛西氏(かさいし)は、陸奥国の大身(数郡規模の国人領主)。鎌倉時代に武蔵国・下総国の御家人・豊島氏の一族の葛西氏が
陸奥に所領を得て土着した。戦国時代には奥羽の有力な戦国大名に数えられたが、豊臣秀吉の奥州仕置の際に大名としては滅亡
した。
葛西氏初代の葛西清重は平姓秩父氏一族の豊島氏当主豊島清元(清光)の三男で、下総国葛西御厨(東京都葛飾区の葛西城を中
心に江戸川区・墨田区などの伊勢神宮の荘園)を所領とした。清元・清重父子は源頼朝の挙兵に従って平氏討伐に参加して御家
人。清重は奥州合戦で武功を立て、奥州藤原氏が滅ぶと奥州総奉行に任じられ、陸奥国(後の陸前国)に所領を得た。江戸時代
の地誌では、奥州に入った清重は、奥州藤原氏の本拠地である平泉ではなく、石巻の日和山に城を築いて本拠にしたとされる。
だが、清重自身は奥州の安定をみてから鎌倉で幕府重臣として活躍した。この頃の葛西氏の正確な動性は伝わっておらず、石巻
と鎌倉を往来する領国経営だったと推測される。
南北朝時代には本拠地を従来の石巻から登米郡寺池に移したと推測される。但し本拠地の移転は鎌倉時代には、既に行っていた
とする説もある。また本拠地を石巻から寺池に移転した過程や経緯は、現在をしても全く以って不明であり、推測の域をでない
のが現実である。事実としてはっきりしている事は、この頃に勢威を拡大し、鎌倉時代から引き続き奥州の有力守護としての地
位を確保した。
室町時代から戦国時代初期にかけて石巻に本拠を構える「石巻系葛西氏」登米郡に本拠を構える「寺池系葛西氏」に分裂し内紛
状態にあったが、寺池系葛西氏であり、葛西家宗主であったとされる葛西満信が宇都宮氏広との争いで領地の拡張に成功し、伊
達氏と結んで統一を回復すると、隣国の大崎氏と徹底して対立する。
しかしこの抗争は決着がつかず、また伊達氏庶子を養子として迎え入れたためその介入と家臣団の混乱を招き、かえって葛西氏
の勢力を衰退させた。
また、有力家臣である浜田氏の独立、浜田氏と熊谷氏(気仙沼熊谷党)との相克と領国における豪族の統制もうまくいかないよ
うになり、第17代当主にあたる葛西晴信のときに豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかった事を咎められ、改易された。
その後慶長2年(1597年)、晴信の死去で大名としての葛西氏は滅亡した。葛西氏の終焉については異説もあり、晴信は秀吉の
奥州平定軍と果敢に戦い、戦死したとも伝わる。
その後の葛西氏は、庶子の多くが伊達氏、南部氏を中心に奥州の大名に臣従し現在に至る。臣従した庶子の多くが、それぞれ独
自の葛西氏系譜を作成するが、これの多くが独自の口伝、相伝に拠って作成されており今日の葛西氏研究を混乱させている一因
である。系図は初代当主・葛西清重と第17代当主・葛西晴信以外は、誰が正式な当主であったかは、判明していない。その理由
として、
・代々内紛が絶えなかった事。
・「寺池系葛西氏」と「石巻系葛西氏」がそれぞれ宗家を主張した事。
・伊達氏をはじめ、養子縁組等で葛西氏に介入した大名が、介入の正当性を主張した事。
・豊臣秀吉の奥州仕置き、葛西大崎一揆で葛西氏が所持していた史料が散逸してしまった事。
などが原因に挙げられる。系図は現在、判明している物だけでも二つの系統(俗に言う、葛西氏A系統と葛西氏B系統)を中心
に30以上存在し、それぞれが歴代当主の名前、順番が初代と17代以外はバラバラであり裏付け史料が極端に少ない。
プラネタリウムも何年かぶりに見てきたが、ギリシア神話と星座の話で危うく寝るところだった。
博物館から駅までの道の中に、実験的にたんぼが造ってある。稲作の一年をみんなに理解して貰うように博物館が行っている
もののようだが、葛飾区のような、農業従事者など一人もいないような庶民の街では大いに意味のあることかもしれない。
邪馬台国大研究ホームページ / 江戸の旅 / 葛飾柴又に遊ぶ/font>