Music: 夜霧のめぐり逢い
私はアイヌ文化が好きである。しかし、アイヌ人が好きかどうかは判らない。アイヌ人に友人は
いないし、狩猟や魚取りもあまり好きでは無い。アイヌ人の生活にも別段憧れない。ただ、日本
の歴史上、こういう民族が居て、数百年の永きにわたって縄文時代のような狩猟生活を送ってい
たという点に興味を惹かれるのだ。彼らは一体誰で、どこから来たのだろうか。シベリアから南
下してきて黒竜江河岸に住んだという民族達と根は一緒なのだろうか。
幸いなことに、近所の「国立民族学博物館」は、その名の通り民族を研究する総合研究大学院大
学(博物館ではなく、大学なのだ。)で、アイヌに関する資料はいっぱい揃っている。たまにア
イヌに関する特別展示があるので、そういう時は歴史倶楽部の有志を募って見に来る。今日は
Walkingを兼ねて、オ−プン初日に思い立って一人でやってきた。
この通路は山道みたいな階段だったのだが、EXPO cityの開業に合わせて綺麗にした。つい1週間前くらいに完成したのだ。
オ−プン時には人でごったがえしていたEXPO cityも、平日の昼間はご覧の有様。つい3ケ月前のオープンなのだが。
万博への通路で振り返ると、EXPO cityの中に大きなクレーンがいて、何か作業をしている。
観覧車だ。EXPOLANDがあった頃は目玉だったので、また作っているのだ。あれだけ大きければ、
完成したら私の部屋のベランダから見えるに違いない。
太陽の塔はいいねぇ。他はあまり感心しないが、岡本太郎の作品で一番良いのはこれだと思う。
博物館横の池の前で、ベンチに座ってWIFEが作ってくれた弁当を広げて
BEERを呑む。BEERにはちょっと肌寒いかな。熱燗にすれば良かったか。
国立民族学博物館 出典:ウィキペディア
愛 称 みんぱく、民博
専門分野 民族学・文化人類学
研究職員 54人(客員含まず)
管理運営 大学共同利用機関法人人間文化研究機構
年運営費 29億7400万円(2007年度)
延床面積 5万1225m2
開 館 1974年11月
所在地 〒565-8511 大阪府吹田市千里万博公園10-1
国立民族学博物館(こくりつみんぞくがくはくぶつかん、National Museum of Ethnology)は、
人間文化研究機構を構成する大学共同利用機関である。民族学・文化人類学を中心とした研究・
展示を行っている、博物館を持った研究所である。略称は民博(みんぱく)。大阪府吹田市の
万博記念公園にある。現在、総合研究大学院大学の文化科学研究科も設置されている。根拠法
は、国立大学法人法第2条の3項・4項。機構長は立本成文。館長は須藤健一。
国立民族学博物館(続き)
東京帝国大学の学生だった渋沢敬三(後の蔵相、日銀総裁)が1921年に東京・三田にある自邸
の車庫の屋根裏部屋を利用して、アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)をつくり、二高時
代の同級生らと共に動植物の標本や民具などの蒐集を始めた。1935年には渋沢と白鳥庫吉らを
中心に日本民族学会が設立され、国立民族学博物館設立を構想し、政府に陳情したが、戦局の
悪化から採り上げられなかった。そこで、渋沢は1937年に自らの手で東京・保谷に博物館を建
設し、アチック・ミュージアムに収蔵されていた二万点に及ぶ民具標本を移転させ、建物と資
料を日本民族学会に寄贈し、日本民族学会附属研究所と附属民族学博物館となった。
しかし、一学会だけで運営・維持することは難しく、また、自らの死期を悟った渋沢は1962年
に民族学博物館所蔵の資料を文部省史料館(現・国文学研究資料館)に寄贈し、将来に国立民
族学博物館が設立された時には、これらの資料を移管する旨の約束を政府との間で交わした。
国立民族学博物館(続き)
渋沢の死後、1964年に日本民族学会などは国立民族研究博物館の設置を政府に要望し、1965年
には日本学術会議が総理大臣に国立民族学研究博物館の設置を勧告した。一方で、1970年に開
催された日本万国博覧会では、岡本太郎がチーフプロデューサー・小松左京がサブ・プロデュ
ーサーを務めるテーマ館に世界中の神像や仮面、生活用品などを陳列するため、東京大学教授
の泉靖一と京都大学教授の梅棹忠夫らが中心となって、世界中から資料を蒐集していた。
万博終了後に、政府は会場の跡地利用について、文化公園とする基本方針を打出し、その中心
施設として従来から要望が高かった「国立民族学博物館」の設置が決定された。1973年に文部
省内に創設準備室が設置され、梅棹が準備室長に就任。1974年に改正国立学校法施行により、
大学共同利用機関として創設され、梅棹が初代館長に就任した。
国立民族学博物館(続き)
博物館の工事は1977年に竣工し、開館式典を挙行。万博のテーマ館に出展するために蒐集され
ていた資料共に、文部省史料館に寄贈されていた資料が渋沢との約束どおり引継がれ、11月17
日から展示の一般公開が始まった。
1989年4月に総合研究大学院大学の地域文化学専攻・比較文化学専攻の二専攻が設置され、大
学院教育を開始。6月には特別展示館が竣工。
2004年4月に国立大学法人法施行に伴い発足した、大学共同利用機関法人人間文化研究機構の所
管となる。2011年10月にサンクトペテルブルクにあるロシア科学アカデミー・ピョートル大帝
記念人類学民俗学博物館と学術協力協定を締結した。
これでもかと言うくらい酋長達の顔を見て、やっと特別展示入り口に来る。
<夷酋列像> 出典:ウィキペデイア
『夷酋列像』(いしゅうれつぞう)は、江戸時代後期の松前藩の家老で、画家としても高名な
蠣崎波響が、北海道東部や国後島のアイヌの有力者をモチーフに描いた連作肖像画である。
成立の経緯
寛政元年(1789年)5月、国後島とメナシのアイヌが和人商人の酷使に耐えかねて蜂起し、現地
にいた70人余りの和人を殺害した。これがクナシリ・メナシの戦いである。
事件を受けた松前藩は260名の討伐隊を派遣したが、その指揮官の一人が蠣崎波響だった。戦い
を鎮圧した後に討伐隊は藩に協力した43人のアイヌを松前城に同行し、さらに翌年の1790年にも
協力したアイヌに対する二度目の謁見の場が設けられた。藩主・松前道広の命を受けた蠣崎波響
は、アイヌのうちもっとも功労があると認められた12人の肖像画を描いた。これが「夷酋列像」
である。
絵は寛政2年(1790年)11月に完成し、波響はクナシリ・メナシの戦いで失った藩の威信を回復
するために絵を持参して上洛する。大原呑響・高山彦九郎・佐々木良斎の尽力により、夷酋列像
は光格天皇の叡覧を仰ぐことになる。
描かれた人物
1.マウタラケ(麻烏太■潔) - ウラヤスベツ惣乙名
2.チョウサマ(超殺麻) - ウラヤスベツ乙名
3.ツキノエ(貲吉諾謁) - クナシリ惣乙名
4.ションコ(贖穀) - ノッカマフ乙名
5.イコトイ(乙箇吐壹) - アッケシ乙名
6.シモチ(失莫窒) - アッケシ脇乙名
7.イニンカリ(乙■葛律) - アッケシバラサン乙名
8.ノチクサ(訥窒狐殺) - シャモコタン乙名
9.ポロヤ(卜羅亜鳥) - ベッカイ乙名
10.イコリカヤニ(乙箇律葛亜泥) - クナシリ脇乙名
11.ニシコマケ(泥湿穀末決) - アッケシ乙名
12.チキリアシカイ(窒吉律亜湿葛乙) - ツキノエの妻、イコトイの母
収蔵場所
『夷酋列像』は粉本・模写を含めると6種が存在する。
1.ブザンソン美術館:イコリカヤニを除く11人の肖像に松前廣長の序文2枚が附属する。来歴は
不明。
2.函館市中央図書館:ションコ、イコトイの肖像。『御味方蝦夷之図』の名で伝えられる。
3.松浦史料博物館:12人すべての肖像。平戸藩主・松浦静山が松前道廣から原本を借りて、お
抱えの画工に模写させたと伝えられる。
4.常楽寺(浜松市):イニンカリ、ノチクサ、ポロヤ、イコリカヤニ、ニシコマチ、チキリア
シカイの6人の肖像。住吉派の画家・渡邊廣輝が文化元年(1804年)に模写する。
5.北尾家所蔵:12人すべての肖像。天保14年(1843年)に小島貞喜が模写する。
6.粉本(函館市中央図書館所蔵):波響からその子である蠣崎波鶩に与えられたもの。シモチ
が欠けている代わりに、人名未詳の者3名の肖像が加わる。北海道指定有形文化財。
評価・問題点
北方史研究家の谷澤尚一は、松浦静山や高倉新一郎の意見をうけて「夷酋列像」に描かれたア
イヌ像は、実写によるものではなく蠣崎波響が美しく仕立て直した創作品であると考えた。
さらに芹沢_介美術工芸館所蔵の波嶋筆「アイヌ人物屏風」と「夷酋列像」を比較して、構図
や人物の姿勢が近似している像が6点あることを認める。例えばツキノエの肖像については、
屏風絵が70歳の実像を示すのに対し、列像では構図を変えず壮年にデフォルメする作業が行わ
れた、と推測した。
<はじめに> 国立民族学博物館「特別展」HPより
極彩色の衣装に身を包み立ち並ぶ、12人のアイヌの有力者たち。松前藩家老をつとめた画人、
蠣崎波響が寛政2年(1790)に描いた「夷酋列像」は、時の天皇や、諸藩の大名たちの称賛を
受け、多くの模写を生みました。蠣崎波響筆のブザンソン美術考古博物館所蔵本と国内各地の
諸本が、はじめて一堂に会します。
絵をめぐって接する人、交叉する物、そして日本の内に胎動し始めた外の「世界」。18世紀か
ら現在に続く、蝦夷地=北海道イメージを見渡します
蠣崎波響 出典:ウィキペディア
時 代 江戸時代後期
生 誕 宝暦14年5月26日(1764年6月25日)
死 没 文政9年6月22日(1826年7月26日)
改 名 金介(幼名)→ 広年
別 名 弥次郎、将監(通称)、世?(字)、東岱、杏雨、京雨、波響(画号)、梅香舎、梅痩舎、
柳民舎、滄岡軒(別号)
主 君 松前道広→章広
藩 松前藩家老 → 梁川藩家老 → 松前藩家老
氏 族 松前氏 → 蠣崎氏
父 母 父:松前資広、母:勘子(長倉貞義の娘) 養父:蠣崎広武
兄 弟 松前道広、池田頼完、勝田武広、広文、
蠣崎波響(続き)
蠣崎 波響(かきざき はきょう)/蠣崎 広年(かきざき ひろとし)は、江戸時代後期の画家、
松前藩家老。
松前藩第12代藩主松前資広の五男に生まれる。13代藩主の道広は異母兄。母は松前藩家臣長倉長
左衛門貞義の娘・勘子。家老職を継いだ長男波鶩(広伴)も画家として知られる。なお、幕末期
の家老であった下国崇教も一時期波響の養子であったことがある。
生まれた翌年に父が亡くなり、兄道広が跡を継いだため、家禄五百石の家老蠣崎家の養子になる。
幼い頃から画を好み、8歳の頃馬場で馬術の練習を見て、馬の駆ける様を描いて人々を驚かせた
と伝えられる。叔父の広長は波響の才能を惜しんで、安永2年(1773年)に江戸に上がらせ、南
蘋派の画家・建部凌岱に学ばせた。間が悪く翌3年に凌岱が亡くなると、師の遺言に従い宋紫石
に師事。天明20年(1783年)20歳の時松前に戻り、この年の冬から大原呑響が約一年松前に滞在
し、以後親交を結ぶ。波響と号したのはこのころからである。
寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)で松前藩に協力したアイヌの酋
長を描いた『夷酋列像』(函館市中央図書館に2点所蔵。1980年代にフランスのブザンソン市立
美術館で「夷酋列像」11点が発見)を翌年冬に完成させ、これらが後に代表作とされる。寛政3年
(1791年)3月に同図を携え上洛、『夷酋列像』は京都で話題となり、光格天皇の天覧に供され、
絵師波響の名は一時洛中で知られた。円山応挙につき、その画風を学び以後画風が一変する。
文化4年(1807年)、幕府が北海道を直轄地にしたため、松前家は陸奥国伊達郡梁川藩に転封さ
れ、波響も梁川に移った。文政4年(1821年)、松前家が松前に復帰すると、波響も翌年松前に
戻り、文政9年63歳で没した。
画の門弟に、継嗣の波鶩のほか・高橋波藍・高橋波香・熊坂適山・熊坂蘭斎などがいる。
画人では前記円山応挙を始め、岸駒、四条派の松村呉春、皆川淇園等と、文人では漢詩人菅茶山
や六如、橘南谿、伴蒿蹊等と生涯を通じ交流があった。また木村兼葭堂を通じ、大名家では増山
正賢や松浦静山等と交流した。京都をたびたび訪れ、温和な性格で社交的な波響は歓待された。
また梁川に転封となった頃は度々江戸を訪れ、酒井抱一や俳人松窓乙二などとも交流している。
森鴎外は『伊澤蘭軒』で波響を紹介している。地元では度々展覧会が催されたが、全国的に知ら
れたのは中村真一郎『蠣崎波響の生涯』からである。自筆資料は函館市立図書館に所蔵されてい
る。
<クナシリ・メナシの戦い> 出典:ウィキペディア
和人とアイヌの関わり
松前藩の『新羅之記録』には、1615年(元和元年)から1621年(元和7年)頃、メナシ地方(現
在の北海道目梨郡羅臼町、標津町周辺)の蝦夷(アイヌ)が、100 隻近い舟に鷲の羽やラッコの
毛皮などを積み、松前に行き交易したとの記録がある。
また、1644年(正保元年)に「正保御国絵図」が作成されたとき松前藩が提出した自藩領地図に
は、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ、1715年(正徳5年)には、松
前藩主は江戸幕府に対し「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。1731年(享保
16年)には、国後・択捉の首長らが松前藩主を訪ね献上品を贈っている。
1754年(宝暦4年)松前藩家臣の知行地として国後島のほか択捉島や得撫島を含むクナシリ場所
が開かれ、国後島の泊には交易の拠点および藩の出先機関として運上屋が置かれていた。
1773年(安永2年)には商人・飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、1788年(天
明8年)には大規模な〆粕(魚を茹でたのち、魚油を搾りだした滓を乾燥させて作った肥料。主
に鰊が原料とされるが、クナシリでは鮭、鱒が使用された)の製造を開始するとその労働力とし
てアイヌを雇うようになる。
一方、アイヌの蜂起があった頃すでに北方からロシアが北千島まで南進しており、江戸幕府はこ
れに対抗して1784年(天明4年)から蝦夷地の調査を行い、1786年(天明6年)に得撫島までの
千島列島を最上徳内に探検させていた。ロシア人は、北千島において抵抗するアイヌを武力制圧
し毛皮税などの重税を課しており、アイヌは経済的に苦しめられていた。一部のアイヌは、ロシ
アから逃れるために南下した。これらアイヌの報告によって日本側もロシアが北千島に進出して
いる現状を察知し、北方警固の重要性を説いた『赤蝦夷風説考』などが著された。
<クナシリ・メナシの戦い>(続き)
アイヌの蜂起
1789年(寛政元年)、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシ
リ場所(国後郡)のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害し
た。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。
松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、蜂起の中心と
なったアイヌは処刑された。蜂起に消極的なアイヌに一部の和人が保護された例もあるが、この
騒動で和人71人が犠牲となった。
松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を新たな場所
請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。一方、幕府は、寛政3〜4年、クナシリ場所やソウヤ
場所で「御救交易」を行った。ロシア使節アダム・ラクスマンが通商を求めて根室に来航したの
は、騒動からわずか3年後の寛政4年のことである。
事件から10年を経た1799年(寛政11年)東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて1807
年(文化4年)和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海
岸)も公議御料となった。
<クナシリ・メナシの戦い>(続き)
蜂起の後
北見方面南部への和人(シサム・シャモ)の本格的な進出が始まったのはこの戦いの後、江戸幕
府が蝦夷地を公議御料として、蝦夷地への和人の定住の制限を緩和してからである。幕府はアイ
ヌの蜂起の原因が、経済的な苦境に立たされているものであると理解し、場所請負制も幕府直轄
とした。このことにより、アイヌの経済的な環境は幾分改善された。しかし、これはアイヌが、
和人の経済体制に完全に組み込まれたことも意味していた。
また、1845年、1846年に知床地方を訪れた松浦武四郎が1863年に出版した「知床日誌」によると、
アイヌ女性が年頃になるとクナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になったという。また、人
妻は会所で番人達の妾にされたともいわれている。男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻
帯も難しかったとされる。
さらに和人がもたらした天然痘などの感染症が、本格的にアイヌ人の人口を減少させた。その結
果文化4年(1804年)に2万3797人と把握された人口が、明治6年(1873年)には1万8630人に減っ
てしまった。アイヌの人口減少はそれ以降も進み、北見地方全体で明治13年(1880年)に 955人
いたアイヌ人口は、明治24年(1891年)には381人にまで減った。
ニシコマケ
マウタラケ
ノチクサ
チョウサマ
イコトイ 彼は千島列島を最上徳内が探検した際、案内人を務めた人物。
イコトイ 出典:デジタル版 日本人名大辞典+Plus
?−1820 18-19世紀のアイヌの首長。
父はカモイボンデン,母はオツケニ。父の跡をついで蝦夷地(えぞち)(北海道)東部のアッケシ(厚岸)
の首長となる。1773年クナシリ(国後)の首長ツキノエとともにロシアと交易。1786年最上(もがみ)
徳内をエトロフ(択捉)島に案内する。1789年(寛政1)クナシリ・メナシ(目梨)の戦いのとき,ツキノ
エ,ションコと停戦の仲介をした。1820年(文政3)死去。
最上徳内 出典:ウィキペディア
最上 徳内(もがみ とくない、宝暦4年(1754年) - 天保7年9月5日(1836年10月14日))は、江
戸時代中後期の探検家であり江戸幕府普請役。出羽国村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)出身。
元の姓は高宮(たかみや、略して高(こう)とも)。諱は常矩(つねのり)。幼名は元吉。通称は
徳内、億内。字は子員。鶯谷、甑山、白虹斎と号した。 父は間兵衛で長男。妻はふで(秀子)、子
は2男3女。
実家は貧しい普通の農家であったが、学問を志して長男であるにもかかわらず家を弟たちに任せて
奉公の身の上となり、奉公先で学問を積んだ後に師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)
調査に随行、後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、一旦は罪人として
受牢しながら後に同地の専門家として幕府に取り立てられて武士になるという、身分制度に厳しい
江戸時代には珍しい立身出世を果たした(身分の上下動を経験した)人物でもある。
シモチ
ツキノエ クナシリの酋長。
ボロヤ
イコリカヤニ
シモチとイニンカリ
林子平著「三国通覧」の挿絵
林子平は仙台藩の部屋積みで、全国を歩いて海防を唱えた。松平定信にも面会して海防の重要性
を訴えたが、定信は聞く耳を持たなかった。その後数十年でロシア他が日本に押し寄せ、幕府は
慌てふためく事になる。
子平は一日150kmを歩いたという話があり、飛脚と勝負して勝ったそうである。仙台−江戸
を四日で歩いたと言う記録が残っている。
蠣崎波響は同じような下絵やデッサンを沢山残しているが、
署名が無いので他人の模写と区別が付かない。よって「伝」となる。
帰りに常設展のアイヌ・コーナーを見に行こうとしたら、
「3月まで入れ替えで展示はお休みです。」だと。アホな。
この前日、京都へ「春画展」を見に行った。あっちは1,500円の入場料で、さしたる感動も感銘も
受けなかったが、こっちは420円で驚くような、高揚した気分を味わえる。和人とアイヌの関係、
和人の圧政、アイヌの蜂起、それを鎮圧に向かった指揮官の一人が蠣崎波響で、彼がアイヌの酋
長達の画を残した。
画を見ていると、アイヌが受けてきた待遇や、突然変化を求められた社会環境などに思いを馳せ、
しばし考え込んでしまう。
美術品としてのこの画の価値も素晴らしい。衣装や佇まいに中国やロシアの影響があるとは言う
ものの、素晴らしい人物像だと思う。「クナシリ・メナシの戦い」という悲惨な出来事の渦中で
はあるが、波響が松前藩の重臣で画家だったことは幸いだった、と言えるだろう。
ここに掲示した絵の多くは上記図録、他より転載した。深謝したい。
邪馬台国大研究/博物館めぐり/夷酋列像展