Music: やさしく愛して

国立民族学博物館
アイヌの文化
2011.12.04


	「アイヌのくらし展」は写真撮影禁止だったので、ここでの写真は、常設展の「アイヌの文化・コーナー」に展示されているものを掲示し
	ている。

	九州生まれの人間にとって北海道という北の大地は憧れである。私は娘が北海道の大学にいたこともあって、これまでwifeと何度か北海道
	を旅した。無理矢理作った出張も入れると、もう10回くらいは行っただろうか。遺跡巡りや博物館巡りを大分したが、アイヌ民族には強
	く心を惹かれるものがある。アイヌの本も数冊購入して勉強したし、機会があれば何度でも北海道を訪問したいと思っている。一度冗談で
	「儂、北海道に引っ越そうかな」と家族に話したら、即、娘から「一冬過ごしてみ。もう逃げ出したいよ。」と返された。

	北海道などに古くから住んでいるアイヌの人々は、狩猟や採集に従事し、自然に畏敬し、自らに有益なもの、力の及ばないものを神として
	あがめ、日々を祈りと儀式の中に生きてきた。アイヌとは、彼らの言葉で「人間」という意味である。現在の北海道の地名の約8割は、ア
	イヌ語に由来している。今日では、儀式や祭り以外には昔の様式で生活する人はいないが、ユーカラやアイヌ文様に代表される豊かな文化
	を発展させてきた。その文化・歴史を学ぶことは、我々内地人の文化・歴史を学ぶことでもある。

	いまアイヌの人々は、協力者とともに、アイヌの歴史・伝統文化の発信、若い世代への啓蒙・教育など、自らの文化継承の為に様々な活動
	を行っている。その研究や活動の記録などは、北海道にある博物館・郷土資料館などで広く一般に公開されている。

	・北海道開拓記念館 〒004-0006 札幌市厚別区厚別町小野幌53−2   TEL:011-898-0456
	・アイヌ民族博物館 〒059-0902 北海道白老郡白老町若草町2−3−4  TEL:0144-82-3914
	・二風谷アイヌ文化資料館 〒055-0101 北海道沙流郡平取町字二風谷   TEL:01457-2-2892
	・釧路市立博物館  〒085-0822 釧路市春湖台1−7          TEL:0154-41-5809
	・北海道立北方民族博物館 〒093-0042 網走市字潮見309−1	   TEL:0152-45-3888




	アイヌ文化

	アイヌ文化とは、アイヌが13世紀(鎌倉時代後半)ころから現在までに至る歴史の中で生み出してきた文化である。現在では大半のアイヌ
	は同化政策の影響もあり、日本においては、日常生活は表面的には和人と大きく変わらない。しかし、アイヌであることを隠す人達もいる
	中、アイヌとしての意識は、その血筋の人々の間では少なからず健在である。アイヌとしての生き方はアイヌプリとして尊重されている。
	アイヌ独特の文様(アイヌ文様)や口承文芸(ユーカラ)は、北海道遺産として選定されている。前時代の擦文文化とアイヌ文化との間に
	は違いもあるがその風習/行事が似通っており、擦文文化はアイヌ文化に吸収されたと考える説が有力である。

	アイヌ文化という語には2つの意味がある。1つは文化人類学的な視点から民族集団であるアイヌ民族の保持する文化様式を指す用法であり、
	この場合は現代のアイヌが保持あるいは創造している文化と、彼らの祖先が保持していた文化の両方が含まれる。もう1つは考古学的な視
	点から、北海道や東北地方北部の先住民が擦文文化期を脱した後に生み出した文化様式を指す用法である。
	注意すべきなのは、考古学的な意味でのアイヌ文化とは擦文文化を担った人々が時間経過とともに新たな文化要素を創出・移入することで
	到達した新しい文化様式だということであり、擦文文化期の終わりに全く別の民族が北海道に進入してアイヌ文化を形成したわけではない
	ということである。これは、和人が12世紀まで平安文化を保持し、13世紀から鎌倉文化と呼ばれる時期に移行した状況に近い。すなわち担
	い手は同じであるが、文化様式が変化したということである。<太字、筑前>
 
	ここで問題となるのは、アイヌ文化という1つの語が「ある民族集団の文化」と「歴史上のある時期に存在した文化様式」のいずれも意味
	するという状況のわかりにくさである。アイヌは現在も民族集団として存在しているが、現代のアイヌはチセに住み漁労採集生活を送って
	いるわけではないから、考古学的な意味でのアイヌ文化を保持しているとは言えない。しかし現代のアイヌは考古学的な意味でのアイヌ文
	化を担った人々の末裔であり、現代のアイヌの保持する文化様式もまたアイヌ文化と呼ばれる資格を持つのである。
 
	瀬川拓郎は2007年にこうした問題の存在を指摘し、中世から近世にかけての(考古学的な文脈での)「アイヌ文化」を、北海道考古学史上
	最も重要な遺跡の1つである二風谷遺跡にちなんで「ニブタニ文化」と呼ぶことを提案している。










	アイヌのムラををコタンといい、平均5〜6戸の集落である。家のことはチセといい、萱や笹、樹皮どを用い、長方形の形で長辺を東西、
	あるいは河川の流れに並行して造られている。東の窓は神々が出入りする窓であり、決して覗いたりしてはいけないとされている。

	<住 居>

	近世以前のアイヌの住居はチセと呼ばれる独特の掘立柱建物であった。基本構造は掘っ立て柱に樹皮や葦で葺いた屋根、同じく樹皮や葦を
	用いた開口部の少ない壁面であるが、細部は地域によって違いがあり、例えば太平洋沿岸部でも渡島半島から白老にかけての茅葺きの「キ
	・キタイ・チセ」、白老から十勝にかけて分布する葦葺きの「シヤリキ・キタイ・チセ」、十勝から国後島にかけて分布する樹皮葺きの
	「ヤアラ・キタイ・チセ」などの種類がある。なお、チセの面積は最大で100平米(平方メートル)ほどと考えられている。
	チセの内部は四角形の一間であることが一般的であった。内部には炉があり、炉の正面の上座となる部分の背面には、カムイ(神)が出入
	りする為の窓が設けられた。チセの外にはエペレセッ(子熊を飼うための檻)、プー(食料庫)、アシンル(便所)などが建てられた。
	こうしたチセが数軒から十数軒集まり、「コタン」と呼ばれる村落を形成する。
 
	アイヌの集落にはチセの他に、チャシと呼ばれる空間が造営されることも多かった。チャシが造営された時期は16世紀から18世紀と考えら
	れている。造営の目的は未解明な部分が多いが、防御用の砦であったという説、富裕層の宝物庫であったという説、儀式を行うための聖域
	だったという説、物見の為の場所であったという説などがある。これまでに北海道内で500箇所以上のチャシ跡が見つかっている。
 


二風谷遺跡に復元されたチセ(上)と、その内部(下)









<装 身 具>


ニンカリ(耳飾り)。北海道アイヌ。



タマサイ(ネックレス)。山丹交易で得たガラス玉が使用されている。

	アイヌの装身具には、ニンカリ(イヤリング)、レクトンペ(チョーカー)、タマサイ(ネックレス)がある。ニンカリは男女ともに装着
	していたが、レクトンペやタマサイは女性のみ使用する。
	ガラス玉を貫いたネックレス・タマサイの中心には、シトキと呼ばれる金属板が取り付けられていた。このシトキの称は、和漢三才図会巻
	十九にも見える。日本人の歴史としては比較的新しい時代に位置する天武天皇4年に、「しとき」という丸い餅を捧げることが定められた
	と記されており、そこには「しとき」を称して「御鏡是也」とある。
<刺 青>

口の周りに刺青をほどこした女性。耳にニンカリ(耳輪)をつけ、首にはレクトンペ(首飾り)を巻き、タマサイ(ネックレス)を下げる。
	アイヌにも刺青をする習慣があった。特に知られているのは、成人女性が口の周りに入れる刺青である。髭を模した物であると思われてい
	るが、神聖な蛇の口を模したとする説もある。まず年ごろになった女性の口の周りを、ハンノキの皮を煎じた湯で拭い清めて消毒する。
	ここにマキリ(小刀)の先で細かく傷をつけ、シラカバの樹皮を焚いて取った煤を擦り込む。施術にはかなりの苦痛が伴うため、幾度かに
	分けて、小刻みに刺青を入れる。
	また、衣服に隠れる身体にも、美しく神聖な蛇の表皮の模様が施され、腕から指にかけての彫り模様は他人も見ることができた。徳川幕府、
	明治時代に入り明治政府がこれを禁じたが、隠れて行なわれることも多く、彼らの文化の重要な位置を占めていた。現代では特に重要な行
	事において、フェイスペインティングとしてアイヌの女性が口の周りを黒く塗る事例もある。





イコトイは、数学者の従者から幕府蝦夷地調査隊長になった最上徳内を、蝦夷地から北方択捉(エトロフ)島へと案内した人物である。





アイヌの晴れ着




	衣服などに施した刺繍の文様には、魔除けの意味があると言われる。地域や人によって様々であるが、文様の刺(とげ)の部分に魔除けの
	意味があるという説もある。オヒョウの木の内皮の繊維を元に作った素材を布にして作った衣服をアットゥシという。

	<衣 服>

	男性はテパ(褌)を締めてから上着を着る。女性は下腹部にラウンクッ、またはウプソルクッと呼ばれる一種の貞操帯を締め、上半身から
	膝までを覆うTシャツ状の下着・モウルを纏った上で上着を着る。気候の寒暖に応じて、テクンペ(手甲)、コンチ(頭巾)、ホシ(脚絆)
	などを身に着ける。
	アイヌの衣装は和服と仕立てが似ているが、筒袖で衽(おくみ)が無い。また、袷がなく、いずれも単衣である。上着には、イラクサの繊
	維から作られるテタラヘ・ユタルベなどの草皮衣や、毛皮・アザラシの皮・鮭やイトウの皮などで作られる羽織状の上着(獣皮衣、魚皮衣)
	があるほか、オヒョウやシナノキなどの樹皮から繊維を取って作られるアットゥシと呼ばれる丈夫な樹皮衣が17世紀以降一般的なものとな
	った。さらに和人によって木綿の衣装が大量に持ち込まれ、小袖や陣羽織などは儀礼の際の礼服として定着した。中国からは山丹貿易で絹
	の衣装も輸入され、各々着用された。絹の衣装は「蝦夷錦」として和人に売られた。またアットゥシも道外へもたらされ、服として加工さ
	れた。
 





	萱野 茂

	生年月日、1926年6月15日。出生地、北海道沙流郡平取町二風谷。没年月日、2006年5月6日(満79歳没)。
 
	萱野 茂(かやの しげる)は、日本のアイヌ文化研究者(学術博士)であり、彼自身もアイヌ民族である。アイヌ文化、およびアイヌ語の
	保存・継承のために活動を続けた。二風谷アイヌ資料館(シシリムカ二風谷アイヌ資料館)を創設し、館長を務めた。政治活動面ではアイ
	ヌ初の日本の国会議員(1994年から1998年まで参議院議員)。在任中には、「日本にも大和民族以外の民族がいることを知って欲しい」と
	いう理由で、委員会において史上初のアイヌ語による質問を行ったことでも知られる。
	息子の萱野志朗は萱野茂二風谷アイヌ資料館館長、世界先住民族ネットワーク・AINU代表、FMピパウシ運営者、世界先住民族サミット2008
	の実行委員会最高責任者。
 
	<略歴>

	1926年 - 北海道沙流郡平取町二風谷(にぶたに)に生まれる。当時すでにアイヌ語を自在に操れる話者は少なくなっていたが、アイヌ語を
		完全に母語とする祖母に育てられたため、アイヌ語と日本語、2つの言語を母語として身につけた。青年期はアイヌであることから
		逃避するために出稼ぎに出て、炭焼きや測量士などで生計を立てる。
	1953年 - 研究者や収集家による民具の流出に心を痛め、アイヌの民具、民話を自ら収集記録し始める。50年かけて集めた1121点はのちに重
		要有形民俗文化財の指定を受ける。
	1960年 - 金田一京助の影響を受けアイヌ語の記録に着手。このころ知里真志保とも出会う。
	1970年 - あるアイヌ女性の希望により、70〜80年以上絶えていたアイヌ式の結婚式を開催する。その内容は姫田忠義監督により記録映画
		「アイヌの結婚式」として残された。
	1971年 - 二風谷の青年たちと、2軒のアイヌ民家を作る。その様子は、やはり姫田監督により「チセ・ア・カラ(われら・家を・つくる)」
		として映画化。これは日本で初めてのアイヌ語での映画であった。 
	1972年 - 収集した民具などを公開するため二風谷アイヌ資料館を設立。
	1975年 - 『ウェペケレ集大成』で菊池寛賞を受賞。
	1975年 - 平取町町議会議員に当選。以後5期務める。
	1977年 - 10年ぶりに行われたイオマンテを主催。その模様はやはり姫田監督により「イヨマンテ 熊おくり」として残された。
	1978年 - 北海道文化奨励賞受賞。
	1980年 - 北海道大学文学部言語学科講師を務める。
	1983年 - 「二風谷アイヌ語塾」を設立。塾長を務める。
	1987年10月 - STVラジオにて「アイヌ語講座イランカラプテ」(後の「アイヌ語ラジオ講座」)を始める。
	1989年 - 吉川英治文化賞受賞。
	1992年 - 第16回参議院議員通常選挙に日本社会党から比例代表の名簿第11位で立候補(この時は次点で落選)。
	1993年 - 北海道文化賞受賞。
	1993年 - 二風谷ダム着工のため行われた用地強制収用裁決の取り消しを求めて札幌地裁に提訴。
	1994年8月 - 繰り上げ当選でアイヌ初の国会議員となる。
	1996年7月 - 自らのアイヌ語語彙を網羅した『萱野茂のアイヌ語辞典』を出版。
	1996年9月-社会民主党の分裂に伴い社会民主党を離党、民主党結成に参画。
	1997年3月 - 二風谷ダムが完成していたため強制収用裁決取り消し請求は棄却された。しかし「国はアイヌ文化に対し最大限の配慮をしな
		ければいけないのに、それを怠った」とダム建設を違法とし、アイヌ民族を先住民族と認める判決を勝ち取った。
	1997年5月 - アイヌ文化振興法成立。
	1998年7月 - 任期満了に伴い政界を引退。息子の萱野志朗が同年参院選に社民党から出馬するも落選している。
	1998年 - 『萱野茂のアイヌ神話集成』に対して毎日出版文化賞が贈られる。
	2001年 - アイヌ語によるミニFM局「エフエム二風谷放送」(愛称FMピパウシ)を設立。
	2001年2月 - 総合研究大学院大学より学術博士号を授与される。学位請求論文は「アイヌ民族における神送りの研究―沙流川流域を中心に」。
	2001年秋 - 勲三等瑞宝章受章。
	2006年5月6日午後1時38分、パーキンソン病による急性肺炎のため療養中の札幌市東区の病院で逝去、享年79。
 

	<政界引退時に残した言葉>

	アイヌ文化振興法を成立させ、国会議員としての目的を果たした萱野は一期限りで引退。その際「人(狩猟民族)は足元が暗くなる前に故
	郷へ帰るものだ」 という言葉を残している。


	<主要著書>

	 『ウエペケレ集大成』(萱野茂:採録・解説、姫田忠義:執筆協力・対談聞き手、アルドオ 1974年)
	 『キツネのチャランケ』(小峰書店 1974年)
	 『風の神とオキクルミ』(小峰書店 1975年)
	 『オキクルミの冒険』(小峰書店 1975年)
	 『木ぼりのオオカミ』(小峰書店 1975年)
	 『おれの二風谷』(すずさわ書店 1975年)
	 『炎の馬』(すずさわ書店 1977年)
	 『アイヌの民具』(すずさわ書店 1978年)
	 『チセ・ア・カラ』(未來社 1979年)
	 『ひとつぶのサッチポロ』(平凡社 1979年)
	 『写真集アイヌ』(国書刊行会 1979年)
	 『アイヌの碑』(朝日新聞社 1980年)
	 『THE ROMANCE OF THE BEAR GOD〈熊神の恋〉』(大修館書店 1985年)
	 『二風谷に生きて』(北海道新聞社 1987年)
	 『カムイユカラと昔話』(小学館 1988年)
	 『やさしいアイヌ語』2巻(平取町二風谷アイヌ語教室 1990年)
	 『Our Land Was a Forest』(WESTVIEW PRESS 1993年) - 『アイヌの碑』の英語版
	 『妻は借りもの』(北海道新聞社 1994年)
	 『萱野茂のアイヌ語辞典』(三省堂 1996年)
	 『国会にアイヌ語が響く』(草風館 1997年 ISBN 488323097X)
	 『萱野茂のアイヌ神話集成』全10巻(1998年)
	 『アイヌ文化を伝承する』(草風館 1998年 ISBN 4883231046 C1020)
 	『The Ainu - A Story of Japan's Original People』(Tuttle出版 2004年 ISNB 4805307080) - 『アイヌ・ネノアン・アイヌ』の英語版
	 『The Ainu and the Fox』(RIC出版 2006年 ISNB 4902216426) - 『アイヌとキツネ』の英語版











木で作ったお盆は「イタ」と呼ばれる。


北海道アイヌが使用していた丸木舟

	地域によって多少違うが、アイヌは自然の動物や植物を食料としていた。近くの川や海からはサケ・マスや貝類がとれたし、地域によって
	は、サケは秋から冬にかけての主食ですらあった。ヒエ、アワ、イナキビなども栽培していたことが知られている。

	<イヨマンテ(熊)の霊送り>
	冬の穴熊猟で捕獲した子熊を1〜2年育てた後、盛大な宴を催して神の国に送りとどける(生け贄として捧げる、すなわち殺す)儀式であ
	る。1〜2月頃に3日間ぐらい盛大に行われ、アイヌの人々にとっては大変重要な儀式であった。



アイヌの狩猟道具



農具、および漁労道具





<生 業>


1870頃に描かれたアイヌの姿

	
	近世以前のアイヌの生業は狩猟、漁猟、採取(山林・海洋)、農耕、及び交易を組み合わせて生活に必要な物資を確保するというものであ
	った。鮭をカムイチェプと呼び主食の中心と捉えており、秋に遡上してきた鮭を大量に採集し漁場の近くに構えた専用の加工小屋兼住居で
	簡単な燻製を施した干物にし、保存食とした。これは自らの自給的な食糧として重要であっただけではなく、和人との交易品としても大量
	に確保する必要がある、主要産品の1つであった。
狩りにゆくアイヌを描いた図
	農耕も行われたが、生業の基幹をなすものではなかった。ただしこれは農耕が不可能であったからというより(擦文文化期には広範に農耕
	が営まれていたし、洞爺湖町の高砂貝塚などアイヌ文化期の畑跡も数多く発見されている)、和人との交易による経済に特化したため、交
	易品となる鮭や獣皮、猛禽の羽根などを大量に入手できるような生業形態となったのではないかとも考えられている。ヒエ(ピヤパ)の栽
	培が古くから行われ、祭事に用いるトノトというどぶろくをこれから醸造した。他にアワ(ムンチロ)、キビ(メンクル)の栽培も行われ
	た。これらを炊飯したものをチサッスイェプ、かゆに炊いたものをサヨと呼んだ。オオウバユリ(トゥレプ)の球根(鱗茎)から採取・塊
	状保存した澱粉と、澱粉を採集した後の滓を発酵させ、乾燥保存したものも主食の1つであり、この澱粉利用の伝統があったので、馬鈴薯
	が伝わるとすぐに受容した。
	シャクシャインの戦いが敗北に終わるとアイヌに対する松前藩の搾取体制は強化され、商場知行制、その後の場所請負制の中で、和人商人
	による使役労働に従事させられるようになっていった。




	<交 易>

	中世のアイヌは干鮭、クマや海獣の毛皮、猛禽類の羽根などを和人に渡し、和人からは絹織物や漆器など、各種の奢侈品をもたらされてい
	た。交易品としての鮭を確保するために生業を鮭漁に特化した集落も存在していた。このように交易経済を前提とした生業構築は擦文時代
	中期である9世紀頃に成立し、アイヌ文化に継承されたものである。
	また13世紀の樺太侵攻は、ニブフの中に存在した猛禽の羽根を集める職人を拉致するためだったのではないかとの説もある。一方、和人に
	よってもたらされた奢侈品は富裕層が宝物として所持し、それらを衒示的に消費することで部族内での権威を担保していたと考えられてい
	る。
	樺太や沿海州との交易は山丹交易として江戸時代にも継続されていた。アイヌは和人との交易で得た鉄製品や漆器を樺太経由に持ち込み、
	沿海州の民族が持ち込んだ清朝の官服など絹織物、鉄製品、ガラス玉などと交換した。



この水車は何に使われていたのか一寸記憶がない。アイヌが水耕をやっていたとは思えないので、どっかの写真が紛れ込んだのかもしれない。






	<近世以前のアイヌ>

	考古学的な意味でのアイヌ文化は、鉄製鍋、漆器の椀、捧酒箸(ほうしゅばし)、骨角器の狩猟具、鮭漁用の鉤銛、伸展式の土葬など物質
	文化面での特徴を目印としている。またアイヌ文化には地域によって差異が存在していたことが知られている。間宮林蔵の『北夷分界余話』
	によると、樺太アイヌは犬橇やスキーを使用するなど、オホーツク文化からの影響を伺わせる文化要素を取り入れていた他、近世に入って
	も土器の製作、竪穴式住居の使用という、北海道では中世アイヌ文化に限られる文化要素を保持していた。鎧の形状も北海道アイヌとは異
	なり、胸甲と腰部の装甲が一体となった独特のものであった。樺太アイヌはミイラ製作を行うという点でも注目を集めている。ミイラ製作
	はオホーツク文化圏でも北海道のアイヌ文化でも行われない。





アイヌの刀。装飾が独特である。
	<文 様>

	アイヌは衣服や道具を伝統的な文様によって装飾していた。こうした文様は13世紀頃のアイヌ文化の成立時には存在していたのではないか
	とも考えられている。
 





	上下の写真にあるヘラ状の木片は「イクパスイ」或いは「イクニシ(主に樺太)」と呼ばれる祭具である。片方の先端は三角形にとがって
	いるものが多く、その先端を酒に浸し、その滴(したた)りを火のカムイやイナウ(後述ウィキ参照)にかざしながら、祈りの言葉を唱え
	る。祈詞と酒は火の神の仲介を経て、カムイに届けられる。それぞれのイナウはどのカムイに飛んでいくかがあらがじめ定まっている。
	イクスパイは長さ30cmほどで大半は木片である。上面には文様が彫られていることが多く、アイヌの物質文化の中では珍しく、クマや
	クジラといった具象的な彫刻が施されたものもある。イクスパイもイナウと同様に、用いられる地域差があり、樺太ではイクニシと呼ばれ
	湾曲した形態のものもある。大半は繰り返し使用されるが、特別な「クマ送りの儀式」などでは使い捨てされるものもある。イクスパイは、
	人間の祈りをカムイへ届ける際、その祈りを増幅させる機能を持つと考えられている。




	<宗 教>

	近世以前のアイヌの宗教は汎神論に分類されるものである。彼らは動植物、生活道具、自然現象(津波や地震など)、疫病などがそれぞれ
	霊性を備えていると考えており、これらの事物には「ラマッ」と呼ばれる霊が宿っていると考えた。また世界を自らの住む現世(アイヌモ
	シリ)とラマッの住む世界(カムイモシリ)に分けて理解し、ラマッは様々な事物に宿り、何らかの役割を持ってアイヌモシリにやって来
	ていると解釈した。ラマッはその役割を果たすと再びカムイモシリに戻るとされた。
	またアイヌの神々は絶対的な超越者ではなく、カムイが不当な行いをした際にはアイヌ側から抗議を行うということもあった。

	アイヌの宗教儀礼として最も良く知られる熊送りの一種「イオマンテ」は、擦文文化期にはその痕跡が見られず、逆に擦文文化期に擦文文
	化圏に隣接して存在していたオホーツク文化圏にその痕跡が見られることから、オホーツク文化圏からおそらくトビニタイ文化を経由して
	アイヌ文化に取り入れられたものと推測されている。このイオマンテは、「熊肉や熊の毛皮をアイヌモシリに届けるために熊に宿ってやっ
	てきたラマッを、盛大な饗宴を開いてもてなし、多くの土産物を渡してラマッの世界に戻って頂く」という意味合いを持つ。
 イナウ

	アイヌの神事はカムイノミと呼ばれ、様々な神に対して行われるが、カムイノミを開始する際には必ず火の神アペチフカムイへの祈りを捧
	げることになっている。またカムイノミには白木を加工したイナウと呼ばれる木幣が使用される。
	また、アイヌ社会では揉め事の決着をつける際に「サイモン」と呼ばれる盟神探湯(くがたち)を行うなど、神前裁判の風習を色濃く残し
	ていた。しかしながら、こうしたことが、江戸時代及び明治維新以降の近代国家建設中の和人からは十分な理解を得られず、和人のアイヌ
	蔑視に結びついたという説がある。

	イナウは、ヤナギやズキなどを外側から幾重にも薄く削り、房状の削り掛けを作り出したものである。つまり、上の写真に見える、房が垂
	れ下がっているように見えるものは、一本の木を削りだして作ったものなのだ。その形状には、らせん状カールした削りかけをそのまま垂
	らすものや、削りかけを複数本ずつ捻り併せたもの、上端から逆に削りだしたものなど様々なものがある。イナウは、地域によって形態・
	大きさ・機能が異なっており、一つの地域内においても、その目的により違うイナウが用いられる。使用される樹の種類によっては魔物を
	退ける機能を持つこともある。イナウは人間にしか作れず、カムイが最もほしがるものであるとされている。また、人間の言葉をカムイへ
	届ける伝令役を担ってくれるものでもある。
 


様々なイナウ









	
	<技 術>

	アイヌは製鉄技術(砂鉄や鉄鉱石から純度の高い鉄を生成する技術)を持たなかった。そのため、鉄を和人や大陸から輸入していたとされ
	る。ただし、鉄製品の修復方法は知られており、鉄製品の修復や、古い鉄を溶かして別の製品に作り替える鍛冶師が存在した。彼らは村落
	に定着した者もいれば、村々を回り巡回する鍛冶師もいたようである。ただし、近世以降の本州方面からの大量の鉄製品流入に伴い、古い
	鉄製品を再利用する必要性が薄れたため、このような鍛冶師も次第に姿を消していったと考えられている。
 




	
	<宝 物>

	近世以前のアイヌは交易によって異文化圏から入手したものの一部を宝物として珍重していた。アイヌが宝物としたのは刀剣類、銀器、中
	国製の絹織物(蝦夷錦)、漆器類、猛禽類の羽根などが主であった。
	ちなみにアイヌが最も珍重したのは「鍬形」と呼ばれる金属器である。これは厚さ1ミリから2ミリ程度の鉄や真鍮の板をV字型に加工した
	もので、表面は漆や皮、銀メッキされた金具などで装飾されていた。これは何らかの呪具であったと考えられており、原材料の高価さや製
	造加工の困難さではなく、この物体に宿ると考えられた霊力の強力さ故に重視された。鍬形以外の宝物はヤップ島の石貨などと同じように、
	稀少財としてアイヌの有力者の間で流通していたが、鍬形は他人に譲られることは無く、持ち主が死ぬと岩陰などの隠し場所に隠されたま
	ま行方知れずとなり、朽ち果てていった。1916年(大正5年)、夕張郡角田村(現栗山町)で発見された鍬形7個の内4個が東京国立博物館
	に保存されている。
 



	<社会構成>

	アイヌ文化が成立した時期のアイヌはコタン(小村・大体5、6軒)単位で生活を営んだと考えられている。その後、15世紀頃から交易や和
	人あるいはアイヌ同士の抗争などから地域が文化的・政治的に統合され、17世紀には和人から惣大将と呼ばれる河川を中心とする複数の狩
	猟・漁労場所などの領域を含む広い地域を政治的に統合する有力な首長が現れていたと推察されている。しかし、シャクシャインの戦い後
	には商場(あきないば)知行制や場所請負制が発展・強化されることによって場所ごとに分割されることとなり、アイヌの地域統一的な政
	治結合も解体されていった。
	また近年、アイヌ社会が極端な富の偏在を伴う格差社会だったのではないかとの説が発表されている。瀬川拓郎は文献資料や墓の発掘調査
	結果などから、近世アイヌ社会はカモイと呼ばれる首長、その下の階層であるニシパ、平民、そして隷属民であるウタレという4つの階層
	に分かれており、カモイに富が集中していたのではないかと指摘している。
	なお、アイヌは時に和人と敵対したが、アイヌ同士でも一枚岩というわけではなく、時に武器を用いて集団同士の抗争が勃発していた。特
	にメナシクルと、シュムクルの対立は激しく、多数の死者が出る激しい戦もあった。幕府に戦いを挑んだメナシクルの長シャクシャインも、
	シュムクルの長オニビシと戦い、これを殺しており、さらにシャクシャインの先代のメナシクルの長カモクタインは、オニビシに殺されて
	いる。
 
	<刑 法>
	アイヌ社会で犯罪が発生した折は、村長自らの裁量で被告に裁きを下した。一般的には、姦通罪は耳削ぎか鼻削ぎ、窃盗はシュトと呼ばれ
	る棍棒による杖刑、あるいはアキレス腱切断の刑に処された。アイヌ社会には明文化した法律が存在しなかったため、村長が温和な人物で
	あれば寛大な処置が下され、反対に冷酷であれば厳しく断罪された。ただし、アイヌは強大な統一政権を持ったことが無いため、法律に関
	しても部族ごとに異なり、地域差も大きく、ひとまとめに語ることは出来ない。北海道アイヌに死刑は存在しなかったが、樺太アイヌには
	生き埋めの刑があったらしい。

	<口承文芸>
	アイヌには、ユーカラと呼ばれる口承文芸が伝承されていた。ユーカラは近代以降、一時的に衰退したが、現在では保存運動が展開されて
	いる。
 
	<暦>
	アイヌは文字の暦は使用しなかったが、代わりに口頭で伝承される暦を持っていた。
 
	<文 字>
	アイヌはその歴史の中で文字を持たなかったが、明治時代、沖縄と同様に藁算が残っていた事が確認されている。なお、藁算は縄の結び目
	に意味を持たせたもので、アジアでは伏羲の結縄、アメリカ大陸ではキープ (インカ)が知られている。
	和人や大陸の民族など文字を持つ文化圏と交流があったが、アイヌは彼らから文字の使用を受け入れる事はなく、松前藩など和人側でも自
	らの悪行を書き残されることを恐れ、アイヌに文字を伝えることはしなかった。そのため、明治以前・すなわち北海道が正式に日本の領土
	に組み込まれ、日本への同化政策が行われ、日本語を強制されるまで、アイヌは文字をもって自らの記録を残したり書物を編纂することは
	なかった。それゆえ、現在のアイヌの明治以前の文化を知るには、和人視点からの書物が中心となる。
	現在、アイヌ語は日本語のカタカナや、ローマ字をもって転写する方法が考案されている。
	なお、北海道にて発見された古器物に刻まれている文字のようなもの(いわゆる「北海道異体文字」)が「アイヌ文字」と呼ばれる事があ
	るものの、学術的にはアイヌが文字を持っていたという説は支持されていない。

	<楽 器>
	パラライキ(バラライカ)。トンコリ、ウマトンコリ(馬頭琴)、カチョー(太鼓)、ムックリ(口琴)などが存在した。なお、玄象は、
	トンコリだったのではないかという研究がある。また、江戸時代中期の国学者である上田秋成は、トンコリを奏でる自画像を描いた。



	<近代のアイヌ>

	・江戸幕府によるアイヌ文化への干渉

	
	松前藩領内のアイヌを描いたアイヌ絵。後ろの従者は交易用の乾し鮭などを背負っている(18世紀) 

	江戸時代初頭より北海道・樺太・千島など蝦夷地は80箇所ほどの場所と呼ばれる家臣の知行地に分けられ長らく松前藩領となっていたが、
	1799年に東蝦夷地が江戸幕府に上知されたのを皮切りに1807年の松前家梁川転封により、蝦夷地および和人地が天領となった。1821年には
	蝦夷地全土および和人地が一旦松前藩領に復したが、1855年に箱館が開港されると、翌1856年には渡島半島南西部の和人地の一部を残し再
	び天領とされた。この後、江戸幕府は松前藩が禁じていた笠や蓑や草履の着用を解禁。同時に幕府は髪型や衣服、名前を和人風に変更する
	ことを推奨し、刺青やイオマンテ(熊送り)などの伝統文化を禁じた。しかし、あまり普及しないままに終わった。

	・北海道開拓使によるアイヌ文化への干渉
	1869年、明治政府は和人と同様に北海道に居住するアイヌの戸籍も作成した。この年、明治政府によって置かれた北海道開拓使は言語も含
	め和人と同様の学校教育を行い、施行された法律なども和人と同様アイヌにも一律に適用した。結果、アイヌの伝統的な生活文化の衰退を
	招き、アイヌが生業を営んできた土地や資源をアイヌ古来のしきたり通り利用できなくなったことは否めない。また1875年に明治政府はロ
	シアと樺太・千島交換条約を締結したことにより、日本国籍を選択した樺太アイヌは北海道へ移住せざるをえなくなり、一方、生活物資補
	給の問題や国防上の理由から千島アイヌは色丹島に移住させる政策もとった。これらの政策はアイヌ文化に甚大な影響を及ぼし、アイヌ文
	化は変質を余儀なくされた。

	・北海道旧土人保護法
	1899年には北海道旧土人保護法が施行され、明治政府はアイヌへの日本語教育など和人への同化政策(ただし、アイヌの子弟は和人の子弟
	とは別の学校に通わされた)をさらに推進した。これらの学校ではアイヌ語やアイヌ文化は教えられることが無く、またアイヌ文化につい
	ては否定的に表象されるなど、近世アイヌ文化の破壊は更に進んだ。
	アイヌ文化の研究者はいたものの、アイヌ語やアイヌ文化の膨大な資料を残した金田一京助でさえアイヌを滅ぶべき民族と捉えるなど、偏
	見は根強かった。結局、こうした状況は第二次世界大戦に日本が敗れるまで続いた。

	・アイヌ文化研究の始まり
	一方、近代になるとアイヌ文化を学術的に研究したり、記録したりする試みが行われるようになった。これは和人の研究者とアイヌの研究
	者が中心となった。主な研究者としてはユーカラを記録・翻訳した知里幸恵(アイヌ)、アイヌ語研究で知られる金田一京助(和人)と知
	里真志保(アイヌ)などが挙げられる。
 
	・アイヌの歌人たち
	20世紀初頭、バチェラー八重子、違星北斗、森竹竹市らアイヌの歌人が登場し、近代アイヌの置かれた境遇を短歌など文学の分野で表現し
	始めた。彼らの作品は現代までアイヌの思想に影響を与え続けている。
 

	<現代のアイヌ>

	・アイヌ文化研究の進展
	後に国会議員にもなった萱野茂(アイヌ)らは、アイヌ文化研究と資料収集を進め、各地に資料館や博物館が建設された。
 
	・伝統文化復興運動
	1970年代後半からアイヌの伝統文化復興の気運が高まり、平取町、白老、旭川などでイオマンテが行われた。また1983年には屈斜路湖でシ
	マフクロウの霊を送る儀式も行われている。札幌では1982年より豊平川で鮭の遡上を迎える儀式「アシリチェップノミ」が行われるなど、
	アイヌの精神世界を見直す動きが1980年代前半に相次いで見られた。伝統舞踊については北海道内で保存会が20存在し、うち17件は「アイ
	ヌ古式舞踊」の名称で1984年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。また1997年には「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関
	する知識の普及及び啓発に関する法律」が制定された。国会議員となった萱野茂は母語であるアイヌ語で国会質問を行ったりアイヌ語辞典
	を編纂するなど、アイヌ語の保存に取り組んだ。
	アイヌの伝統的な舟艇であるイタオマチプを復元する活動も始まり、二風谷ではチプサンケ(舟おろしの儀式)が開催されるようになって
	いる。また知床地域で観光資源としてイタオマチプを建造するグループもある。なお、ウタリを統括する団体であるウタリ協会は毎年アイ
	ヌ文化祭を開催している。
	アイヌの歴史の積極的な表象も始まり、毎年9月23日には新ひだか町でシャクシャインの追悼法要が開催されている。また敢えてアイヌ
	であることは強調しなかったものの、砂澤ビッキは彫刻家として世界的な評価を得た。
 
	・文化混淆
	近年、隣接する文化圏以外の文化要素を取り入れたり、他地域の先住民と交流する動きも活発になっている。アイヌと和人の混血であるOKI
	は樺太アイヌの伝統楽器であるトンコリ演奏をレゲエやダブなどの音楽に持ち込み、いわゆるワールドミュージックの音楽家として世界的
	に知られている。また同じくアイヌと和人のハーフである酒井兄妹が中心となって結成されたアイヌ・レブルズはラップなどのヒップホッ
	プ音楽とアイヌの伝統舞踊やアイヌ語の詩を融合させた作品を発表している。
	他地域の先住民との交流活動も近年は珍しくない。札幌を本拠とするグループのアイヌ・アート・プロジェクトは2000年に北米のクリンギ
	ット族と音楽や舞踊で共演した他、ハワイのマウイ島で毎年開催される国際カヌー・フェスティバルに参加してのイタオマチプ建造なども
	行った。また2007年には浦川治造ら関東のアイヌが横浜にてハワイ先住民の伝統カヌーのためのカムイノミを開催した。
 
	・イオル再生問題
	アイヌ文化には土地の私有という概念は無く、その代わりにコタンが入会権を持つ入会地や漁場が存在しており、コタンで必要な生物資源
	は基本的にそのコタンの入会地から調達されていた。こうした入会地をイオルと呼ぶ。イオルは「伝統的生活空間」と訳される。和人文化
	における入会地とは異なり、イオルは生物資源調達の場であると同時に、祭祀などアイヌの精神文化とも密接に関わっている点に特色があ
	る。
	しかし明治時代以降、アイヌ文化に対する理解を欠いた政府の政策により、イオルを基盤としたアイヌの生活様式や文化は破壊され、今日
	までに失われてしまった。そこで近年、問題となっているのがイオルの再生である。
	1996年には内閣官房長官の私的諮問機関がイオル再生を政策の1つとして検討対象とし、公園形式でアイヌの伝統文化継承の場としてのイ
	オルを復活させるという提言をまとめた。1998年には北海道が有識者とアイヌの代表者による懇談会を発足させ、1999年に「伝統的生活空
	間の再生に関する基本構想」がまとめられた。2000年には国土交通省北海道局、文化庁、北海道、アイヌ文化振興・研究推進機構、北海道
	ウタリ協会が共同で「アイヌ文化振興等施策推進会議」を設置し、イオル再生を含めたアイヌ文化の振興策を検討。2002年に7箇所をイオ
	ル再生の候補地として選定した。しかし、こうして選定された再生イオル制度の使い勝手の悪さを指摘する声もあり、必ずしもイオル再生
	が順調に推移しているとは言い切れない。





アイヌのくらし展 Scan資料






















 邪馬台国大研究/博物館めぐり/みんぱく