Music: やさしく愛して

国立民族学博物館
東アジア
2011.12.04








朝鮮半島の文化


	朝鮮の文化	出展:ウィキペディア(以下青字部分すべて)

	朝鮮の文化は、李氏朝鮮時代に国家のイデオロギーとされた儒教、その中でも特に朱子学から、大きく影響されている。また、恨という朝
	鮮独特の感情が、朝鮮の文化の特色となっている。日本統治時代に朝鮮の近代化が進められる過程で、朝鮮の文化も大きく変化した。
 

	<日本文化に対する姿勢>

	大韓民国では、歴史的に日本に植民地支配を受けたという国民感情から、戦後から日本大衆文化の流入制限政策が行われてきた。1990年代
	後半からは段階的に制限が緩和されてきたが、まだ完全に規制が撤廃された訳ではない。また、日本風の文化には、倭色というレッテルが
	貼られ、非難されたり禁止されたりされた。日本人に対してはウェノム、チョッパリという侮蔑語があり、小説・映画などで反日作品も多
	く作られている。
	歴史問題で反感がある一方で、大衆文化レベルでの親日度は高く、近年は日本のアイドルや漫画・アニメなども大きな人気を博し、日本語
	のまま販売されているものもある。また日本文化の模倣も多く、トンチャモン(ドラえもん)、テコンV(マジンガーZ)、セウカン(かっ
	ぱえびせん)、ペペロ(ポッキー)、マイチュウ(ハイチュウ)、などがある。コピー商品を ベンチマーキングと称して正当化することも
	ある。これらは先述の制限政策が行われていた時期に作られ、日本のオリジナルが韓国に入ってこなかったため、一般の韓国人はそれらが
	日本のコピーである事を知らなかった場合も多い。逆に、様々な日本の文化の起源が朝鮮半島にあるとする韓国起源説も存在する。
 




朝鮮神話に登場する建国の父「壇君」の掛け軸。その足下には彫刻された銅板のようなものがあったが、何か分からなかった。







日本の道祖神にあたるような魔除けの結界(のようなもの)






	<信仰>
	高麗時代には仏教が栄えたが、李氏朝鮮時代には、朱子学一辺倒となり、仏教は弾圧され多くの寺院が破壊された。朝鮮固有の信仰として、
	巫俗がある。また、将軍標や、済州島のトルハルバンがある。
	以前韓国へ行った時のガイドの話では、現代韓国人の宗教人口は、「キリスト教が4割、無宗教が4割、後の2割が仏教徒」だそうである。




	<韓国料理>
	主な料理には、キムチ、冷麺、ビビンバ、焼肉などがある。ポシンタンという犬料理や、臭さで有名なホンオフェという発酵したエイも、
	特色のある料理である。酒では、マッコリやソジュがある。ウイスキーとビールを混ぜた爆弾酒という飲み方もされる。食事のマナーでも
	儒教的上下関係が厳しく、目上の人の前で酒を飲む時は、横を向いて口元を手で隠して飲まなければならない。三回韓国へ行ったが、こん
	な格好で酒を飲んでる人など見かけたことは無い。昔の風習じゃなかろうか。
 


調理器具と配膳具。どうしてこうまで器に気を使わないのか、そのあたりが日本人とのメンタリティーの違いだろう。



農耕具。日本とは少し形状が異なっている。



<韓屋>  伝統的な住居は韓屋と呼ばれる。オンドルがあるのが特徴である。





	<訓民正音>
	1446年に「訓民正音」の名でハングルが作られるまで、朝鮮語を表すための独自の文字はなかった。その後も漢文が正式の文字とされ、ハ
	ングルは下等なものと見なされていた。日本統治時代になって、学校でハングルが教えられるようになり、ハングルの正書法が定められ、
	朝鮮語の辞書も作られるようになった。
	日本統治時代に、近代的な事物、制度、概念などを表す漢字語が日本語から朝鮮語に大量に入ったため、政治、経済、法律、諸学問、科学
	技術、等の用語の大部分は、発音は朝鮮漢字音でされるが、漢字で書けば日本語と全く同じである。
 	民族主義のため、朝鮮民主主義人民共和国では1948年に漢字使用が全廃され、大韓民国でも1948年にハングル専用法を制定した。また、外
	来語、特に日本語由来の単語を、朝鮮固有語に置き換えようとする朝鮮語の国語醇化運動も行われている。




	朝鮮では伝統的に、一般庶民が日常生活で着る服は白一色であり、宮中など特権階級を除いて、色物や柄物の衣服はほとんどなかった。そ
	のため朝鮮民族は白衣民族と言われた。日本統治時代に色服が奨励され、洋服も普及してきたため、現在は色物や柄物の衣服は普通に存在
	する。伝統的な衣服は韓国では韓服と呼ばれ、(北朝鮮では朝鮮服(???))女性はチマとチョゴリ(チマチョゴリ)、男性はパジとチ
	ョゴリである。

	<血族関係>
	家族制度は、父系制で、宗族、門中という血族集団があり、族譜という一族の名簿を作っている。姓と本貫が同じもの同士は結婚できず
	(同姓同本不婚)、姓が異なるものは養子にしない(異姓不養)という原則があった。最近まで同姓同本不婚が法律(en:Article 809 of
	the Korean Civil Code)で定められていたが、改定され2005年から結婚が可能になった。




	<病気と医療>
	朝鮮の伝統的な医学は、大韓民国では韓医学と呼ばれる。元は漢医学と呼ばれていたが、1986年に民族主義的理由で、発音が同じ韓医学に
	表記を変えられた。朝鮮民主主義人民共和国では高麗医学と呼ばれる。かつては、これとは別に朝鮮の民間療法も行われていた。朝鮮特有
	の病気としては、火病がある。




	<道徳志向性>
	小倉紀蔵によると、朝鮮民族の特徴として「道徳志向性」が挙げられる。朝鮮民族が道徳志向的であるというのは、朝鮮民族が道徳的であ
	るということではない。道徳志向性とは、相手が道徳的に劣ると主張して、自分が相手より優位に立とうとする事である。
	李氏朝鮮時代には、勲旧派、士林派、西人、東人、南人、北人、老論派、少論派など多くの党派が分裂を繰り返し党争を続けた。争いの理
	由は、服喪期間の長さをどうするか(礼訟)というようなことだった。しばしば硬直的な思考に陥り、現実的な対応ができなくなっていた。
	現代でも、大韓民国の大統領は、政権交代後に逮捕されたり、自殺するなどが繰り返されている。
 
	<下品さ>
	朝鮮には、道徳性を巡って争い続ける「理」の世界とは別に、「理」の世界からは弾き飛ばされた「気」の世界がある。古田博司によると、
	そこでは道徳など無関係で、世界に比類のない下品さがある。例えば、2010年にユネスコ世界文化遺産に登録された安東河回村に伝わる仮
	面劇(大韓民国指定国宝第121号)では、プネという若い寡婦が物陰で小便をしているところを覗いていた僧侶が、プネが去った後で地面に
	顔を付けて匂いを嗅ぐのである。また、大韓民国指定重要無形文化財第3号の男寺党が演じるコクトゥカクシノルムという人形劇では「昼寝
	をしていて、蟻に金玉の根元を噛まれ、ころっと死んじまった。」 などという台詞がある。




	<年中行事>
	旧暦で行われるものが多い。韓国では旧正月(旧暦1月1日)と秋夕(旧暦8月15日)が最大の行事である。先祖を祀る茶礼と省墓(??、
	墓参り)が行われる。この季節には多くの人が出身地に帰るため民族大移動と言われる。他に、小正月(???、旧暦1月15日)、寒食
	(冬至から105日目)、釈迦誕生日(旧暦4月8日)(韓国のみ)、端午(旧暦5月5日)などがある。



台湾の文化


	<台湾の文化>

	台湾の文化は台湾の地理的な特殊性により他民族の文化が長期間にわたり融合し形成されたものである。一般に漢文化を主体としていると
	考えられているが、台湾原住民による南島文化や日本文化の影響を強く受け、また最近では欧米文化の影響もあり変化に富む多様性のある
	文化がその特長である。
 
	台湾原住民は現在40数万人が台湾内に居住している。人類学や民俗学の視点より原住民の建築、焼畑農業、刺青、被服、舞踊などが研究さ
	れ、南島文化に近い文化を有していることが明らかとなっている。平野部に居住する原住民は漢化が進んでいるが、それでも部落組織に関
	しては独自の習慣が残っている場合がある。ブヌン族では父系社会、アミ族では母系社会と原住民の間でも異なる文化を有している。
	原住民は祖霊信仰を重視し、山上に祖霊が居住するとともに族人の豊穣を見守っていると信じられている。各原住民はどれぞれ独自の豊穣
	祭の祭祀を行い、ブヌン族の射耳祭や小米祭、サイシャット族が隔年に行う矮霊祭、タオ族の飛魚祭、パイワン族の五年祭、プユマ族の有
	海祭、猴祭、鋤草祭などが存在している。
 
	このほか原住民の工芸品に関してはルカイ族の陶器や瑠璃工芸、ブヌン族の皮衣、サオ族の皮革工芸が、音楽はブヌン族やアミ族の無半音
	五声音階などそれぞれ特色を有している。





台湾は河内さんにとって第二の故郷のようなものである。父上は台湾銀行のエライさんだったそうな。


















	<客家文化>

	移民系である客家はその開墾事業を行うために一族の団結が求められ、そのため古代中国の中原地区の言語、風俗、習慣などの特徴を残し
	た文化を現在に伝えている。
	建築面では台湾客家は宗祠や公庁等などの独自の建築様式を有している。建材はその土地で入手可能な土、レンガ、木材、竹材などを利用
	しており、台湾では福建系の「紅磚紅瓦」が多用された建築が一般的である。代表的なものとしては新竹県の北埔天水堂姜屋、屏東県の佳
	冬蕭屋、六堆夥房、美濃?楼などが挙げられる。
	衣服面では以前は独自の「藍杉」を日常着用していたが、現在では殆ど見ることがなくなっている。しかし近年では「客家花布」を用いて
	デザインした「客家杉」が登場し新しい客家文化として紹介されている。
	現在でも客家人の族群意識は高く、台湾では2001年に内政部内に客家委員会が設置され、また「台湾客家文化芸術節」、「客家桐花祭」、
	「客家電視台」など独自文化を継承すべく積極的な活動を行っている。








	<祭事>
 
	台湾には中国福建省や広東省より大量の移民が入植したことで、漢文化の影響を強く受け、祭事に関しては華南地域と類似している。それ
	ら祭祀の中でも春節(台湾では過年と呼ばれることが多い)、端午節、中秋節は台湾の三大節慶と称され、それ以外に元宵節、清明節(客
	家人の一部などは祝わない)、中元節、七夕(乞巧節)などの漢人の伝統的な節日が祝われている。しかし台湾独自の祭祀として迎媽祖、
	塩水蜂炮、東港焼王船、頭城搶孤等も存在している。






	<日本文化の影響>

	日本による台湾統治は50年に及び、その過程で日本文化が流入、更に太平洋戦争中は台湾総督府が主導する皇民化運動が推進され、日本語
	の普及や、日本姓への改姓、神社の建立等を通じて日本文化が台湾人の家庭に定着することとなった。
	当時流入した日本語は現在でも台湾の社会において使用されており中国大陸との単語の差異を生じている。その例を挙げれば(括弧内は大
	陸での表記)、日本語での漢字表記が定着した弁当(飯盒)、刺身(生魚片)、看板(招牌)、注文(預定)、気持(きもちと発音、心情)、
	日本語の発音を音訳(括弧内日本語)した甜不辣(天婦羅)、黒輪(おでん)などがあり、現在でも逮就捕(大丈夫)や甘芭茶(頑張って)
	などのように新しい表現が誕生している。
 


中国の文化




	<中国>

	中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。近年は、中国大陸を支配
	する中華人民共和国の略称として使用されることが多い。
	現在、アジア大陸の東部に広がる一帯が「中国」と呼ばれている地域であり、中国大陸とそれに付随する島嶼にあたる。現代の中国社会の
	中心的地位を占めている漢民族を始めとして、一時は中国全土を支配していたモンゴルなど、様々な民族による複数の王朝の出現、滅亡、
	戦乱を繰り返してきた。
	清代までの中国には「王朝」の概念はあれど「国家」の概念は無く、「天下あって国家無し」と言える状態だったため、王朝の名前が対外
	・対内的な呼称として用いられていた。19世紀半ば以降、中国が世界的な主権国家体制に組み込まれてゆく過程で、「中国」という用語が
	主権国家の自称として広く用いられるようになり、次第に固有名詞としての性格を濃くしていった。現在ではその地域に成立した中華民国、
	中華人民共和国に対する略称としても用いられる。また、その地域、文明、民族を広く指し、紀元前からの文明の総体をも含めて用いられ
	ている。






	<史書に現れる「中国」>

	紀元前にはすでに「中国」(中國)の文字は史書に現れていた。

	 書経の「梓材」に現れるもの

	 皇天既付中國民越厥疆土于先王(皇天既に中國民と厥疆の土地を先の王に付す) 

	詩経の「大雅」の「生民之什」の章の中の「民勞」に現れるもの

	 民亦勞止 ?可小康 惠此中國 以綏四方 (この中国に恵あれ、四方安らかに) 






	<中華思想における世界観>

	中国(ちゅうごく)という用語は、中国の古典である『詩経』で「地理的中心部」という意味で初めて用いられた。従って、本来は特定の
	民族ないし国家を指す語ではない。ベトナムでは阮朝が自国を中国(チュンコック)と呼び、日本でも自国に対して葦原中国(あしはらの
	なかつくに)あるいは中国(なかつくに)という美称を用いている。一方、黄河流域で黄河文明を営んでいた漢民族の間では、「中国」と
	いう語は、孔子とその他思想家たちによる潤色を経ながら、中華思想に基づく「文化的優越性を持った世界の中心」という意味を帯び、中
	国歴代王朝の政治的・軍事的な境界を設定する中で、徐々に民族のアイデンティティを境界付ける自称として拡張されていった。「中原」
	とは、黄河文明の発祥地である黄河中下流域に広がる平原のことであり、しばしば「中国」と同義とされる。
	中華(ちゅうか)あるいは華夏(かか)という用語は、「優れた文化を持つ者」を意味し、漢民族の間で「中国」と同様の自称として用い
	られた。「中心の国に住む優れた文化の担い手」という意味の「中華」には、地理的な意味に加えて、「漢民族のアイデンティティ」と
	「華夏文化の優越性」という要素が共存していた。
 
	中華思想においては、「中国」「中華」に対して、その四方に居住する周辺民族は「夷狄」として対置される。漢民族は周辺民族を「北狄」
	「東夷」「西戎」「南蛮」と呼び、野蛮とみなして蔑んだ。中国歴代王朝は、自らが人類で唯一の皇帝[5]であり、それ以外は中華世界に
	おける辺境に過ぎないという態度を取った。対等な国が存在しないのだから、対等な関係外交は存在せず、周辺民族との関係は全て朝貢と
	いう形式となる。逆に言えば夷狄の王が中原を征服して中国に同化し、皇帝となることも可能であった。五胡十六国時代の諸国や南北朝時
	代の北朝がこの典型である。
	しかし、遼、金、元、清の4王朝は漢民族を支配して中華帝国の系統に属する王朝を作ったが、自民族の文化も保持し続け、漢民族に対して
	は征服王朝として振る舞った。漢民族が直面したこのような現実に対して、宋学では華夷秩序が強調されるようになった。
 





	北京市街にモンゴル族(元)が建てたフートン(四合院)。元が敗退してモンゴル高原へ逃げ帰った後、北京市民が住み着いた。かっては
	多くのフートンが北京市内に存在していたが、中国オリンピックに併せて殆どが取り壊され、現在は見栄えのいい建物だけが観光用として
	わずかに残されている。











中央アジアの文化


	<中央アジア>

	中央アジア(ちゅうおうアジア)はユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。内陸アジアともいう。18世紀から19世紀にかけて
	は一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居
	住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。
	西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる
	(以下、中央アジア5か国と記す)。東トルキスタンは中華民国に併合されて以降、新疆省と成り、中華人民共和国に併合されて以降は新疆
	ウイグル自治区と成った。中国領トルキスタン、ウイグルスタンともいう。
	広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガ
	ニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラ
	ン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。

	中央アジアの概念はドイツのアレクサンダー・フォン・フンボルトが1843年に提唱した。その他、古生物学などでは、モンゴルを中央アジ
	ア、中央アジア5か国を中部アジアと言って区別することがある。




	<旧ソ連における定義>

	ソ連は、現代の中央アジア5か国からカザフスタンを除いた地域に当たる、キルギスССР、タジクССР、トルクメンССР、ウズベクС
	СРの4共和国をСредняя Азияと定めていた。一方、より広い範囲(歴史的ロシアに含まれない範囲)を示す
	Центральная Азияという語もあった。これらは共に中央アジア (Central Asia) と訳された。
	ソ連崩壊後、中央アジア5か国はカザフスタンが中央アジアに含まれると宣言した。これが現在最もよく使われる中央アジアの定義である。
	旧ソ連の文献では「スレドニャヤ・アジア(ミドルアジア)」と「ツェントラリナヤ・アジア(中央アジア)」とが使い分けらてもいた。
	「ソ連領中央アジア(ソビエツカヤ・スレドニャヤ・アジア)」という言い方もあった。




	<UNESCOにおける定義>

	UNESCOは、より広い範囲を中央アジアと定めている。それには中央アジア5か国の他、中国の新疆ウイグル自治区、モンゴル地域(モンゴル
	国、内蒙古自治区など)、チベット地域(チベット自治区、青海省など)、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インドのジ
	ャム・カシミール、ロシアのシベリア南部が含まれる。なお、この範囲が定められたのはソ連崩壊前である。




	<UNESCOにおける定義>

	UNESCOは、より広い範囲を中央アジアと定めている。それには中央アジア5か国の他、中国の新疆ウイグル自治区、モンゴル地域(モンゴル
	国、内蒙古自治区など)、チベット地域(チベット自治区、青海省など)、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インドのジ
	ャム・カシミール、ロシアのシベリア南部が含まれる。なお、この範囲が定められたのはソ連崩壊前である。
 
	<東洋史研究における定義など>

	日本をはじめとする東洋史研究においては従来、中央アジアという概念は、次の三つの観点から用いられてきた。

	1.シルクロードなどの東西交渉史、
	2.中国による西域統治史
	3.トルコ民族史
 
	このような「東西」軸の見方に対して、歴史家間野英二は中央アジア住民が意識していたのはむしろ、北方遊牧民との関係であり、南北軸
	の見方を提唱しながら、東のゴビ砂漠、西のカスピ海、南のコペト・ダウ、ヒンドゥークシュ山脈、コンロン山脈、北のアルタイ山脈とカ
	ザーフ草原に囲まれた地域を、中央アジアとした。
 
	<西トルキスタン>

	西トルキスタンには、以下の国がある。いずれの国名も「イスタン」 (istan) で終わっているが、これは「国」を表す語であり、それぞれ
	特定の民族の国を意味している。

	 ・ウズベキスタン - ウズベク人の国
	 ・カザフスタン - カザフ人の国  ウラル山脈より西側はヨーロッパ地域に属している。北部地域を北アジアに含む場合もある。
	 ・キルギス(クルグズスタン) - クルグズ人(キルギス人)の国
	 ・タジキスタン - タジク人の国  - ゴルノ・バダフシャン自治州は民族的には南アジアに近く、地理的区分では西アジアに属す。
	 ・トルクメニスタン - トルクメン人の国
 
	西トルキスタンに含まれる地域	 アフガニスタン・イスラム共和国 北部地域
 

	<東トルキスタン>

	東トルキスタンに含まれる地域

	 ・中華人民共和国 新疆ウイグル自治区(東トルキスタン/東トルキスタン共和国)
 


中央アジアの位置



中央アジアのいくつかの定義。狭い順に 濃茶: ソ連の定義 茶: 現代的な定義 淡茶: UNESCOの定義






	質問     中央アジアの文化は欧州か、アジアか?
 
	中央アジア(コーカサス諸国、カザフスタン、タジキスタン、キルギスなど)の国々はヨーロッパ、アジアどちらの文化圏に属していると思
	いますか?
	地理的には全域がアジアに入りますが、文化面で見ると他の中東諸国やアジア諸国と違うように思います。例えばアルメニア、グルジアは
	キリスト教国です。カザフスタンやタジキスタン、キルギスはイスラーム教国ですがロシアの支配下だったこともあり文字はキリル文字で
	ヨーロッパ的な生活習慣が混じってますし、建物もどこかヨーロッパの雰囲気を漂わせます。ヨーロッパ、アジアどちらに属しますか?


	回 答

	ウズベキスタンを旅したことがあります。アジア、ヨーロッパの定義は難しいですが、下記の特徴からスタン系の国々はアジアに属すると
	思います。

	人種
	これらの地域は人種的にもともとウズベク人、タジク人などの黄色人種で構成され、白人のロシア語を話すスラブ系が入って来たのはソ連
	時代です。

	言語
	ウズベク語はじめ、テュルク系ウラル?アルタイル語族の言葉が話されています。これ日本語、トルコ語、韓国語と同じ語族でアジアのルー
	ツがあることを示します。




	遊牧民の住居 /ユルト/トルクマン、ウズベク

	遊牧中にはテントに居住するが、彼らのテントは中央アジアでよく見られる家型のもので、トルクマンはユイ(ウィ)と呼ぶ。柳の骨組み
	の上にウールフェルトを巻いた構造で、大きく頑丈なのがその特徴である。かつては遊牧するトルクマン、ウズベク達はユルトで生活して
	いたが、時とともに定住化促進政策が進められ、テントで暮らす人々はその数を減らしている。




	ユルトの設営方法は、まず整地をした上で、ラクダの皮で蛇腹状にとめられたものを繋ぎ、丸く建て込む。その後で頂点の丸い部分(天蓋)
	を持ち上げて、壁の廻りから屋根の骨にあたるエル字に曲げられた棒を、天蓋に作られた穴にさして壁に一本一本留めてゆき、骨組みが終
	わると壁、屋根をウールで織った帯でしっかりと留め、その上からフェルトを屋根に被せて、壁にはまずヨシズをぐるりとまわし、その上
	からフェルトを巻き込む。夏には壁に巻いたフェルトをめくり上げて風通しを良くする。テントの土間にはフェルトや絨毯を敷き食料や身
	の回りのものを運び込み完成である。

	ユルトの出入り口にはパルダと呼ばれるデザインの絨毯を下げて外からの埃や風を防いだが、19世紀に入ってからは木のドアをユニット
	ごと持って移動するようになった。しかしパルダのデザインは絨毯に残り、今でもこの柄の絨毯をみかける。




	遊牧民は木の家具を持たない。物を入れて運ぶウールで織られた袋を家具として使用する。従ってその大きさにも色々あり、小物入れから
	ボレシュトと呼ばれる枕(クッション)、ジャラールという大きめの袋に、各部族や家族に伝わる柄をふんだんに織り込んだ、瀟洒な袋に囲
	まれて暮らしいる。その中でも一番大きいのは、床に敷いて使う一対で織られたジョワールと呼ばれる物である。現在でもバザールに行く
	と実際に遊牧民が使用していた荷物袋や、ロバの背に乗せる鞍袋などをみかける。実際に使用した物の特徴は、ものすごい埃と補修の跡で
	ある。

	遊牧民は、一箇所に定住することなく、居住する場所を一年間を通じて何度か移動しながら主に牧畜を行って生活する。多くの場合、1家
	族ないし数家族からなる小規模な拡大家族単位で家畜の群れを率い、家畜が牧草地の草を食べ尽くさないように、その回復を待ちながら、
	定期的に別の場所へと移動を行う。
	遊牧民は定住型の人々からは、一般にあてどもなく移動しているかのようなイメージを抱かれやすいが、実際には拡大家族ごとに固有の夏
	営地・冬営地などの定期的に訪れる占有的牧地をもっていることが普通で、例年気候の変動や家畜の状況にあわせながら夏営地と冬営地を
	ある程度定まったルートで巡回している。
	遊牧民の生活している地域は乾燥帯・ツンドラなどおおよそ農耕には向かない厳しい気候であるため、もっとも厳しい冬を越すための冬営
	地では数十から数百の家族単位で集団生活を営む例が多い。

	遊牧民のもうひとつの特徴は、生活に交易活動が欠かせないことである。そもそも遊牧生活では、ミルク・毛皮・肉などを入手することは
	容易だが、穀類や、定住を要する高度な工芸品を安定的に獲得することが困難である。そのため、多くの場合、遊牧民の牧地の近辺には定
	住民、特に農耕民の居住が不可欠である。そのため、遊牧民は移動性を生かして岩塩や毛皮、遠方の定住地から遊牧民の間を伝わって送ら
	れてきた遠隔地交易品などを隊商を組んで運び、定住民と交易を行ってこれらの生活必需品を獲得してきた。一見素朴な自給自足生活を送
	っているような印象を受ける遊牧民の牧畜も、ヤギやヒツジ、ウマといった商品性の高い家畜の売買によって成り立ってきた部分は大きい。










	<中央ユーラシア遊牧民の民族概念>
 
	遊牧民の集団では同盟の締結、指導者家系の婚姻による成員及び家畜群の持参金的分割合流、あるいは政治・軍事的理由での他集団の配下
	への統合など言語や祖先系譜を異にする他集団との融合が頻繁に生じる。また、指導者家系における新世代の独立などによる集団の分裂も
	日常的である。そのため、歴史的に祖先、言語、文化を共有するとされる近現代的民族観と、遊牧民における集団の統合意識、同族意識に
	はきわめて異質なものがある。例えば、現在中央アジアに分布する多くのテュルク系「民族」、例えばウズベク人、タタール人といった遊
	牧民に由来する「民族」の多くが中世のモンゴル帝国においてチンギス・カン一族やモンゴル高原出身の武将の指揮下に再編成された中央
	アジアのテュルク・モンゴル系の遊牧民集団に起源を持つ。
 
	実際には個々の遊牧集団は上記のように移動生活成員自体が複合的な種族構成を持つのみでなく、冬営地における夏季の留守番要員や農耕
	要員を包含する。さらに遊牧国家クラスの大集団になると支援基地として都市を建造してそこに行政事務をつかさどる官僚組織や手工業組
	織を配するなど多種族複合的な性格が強い。この種の遊牧国家の人造都市の特徴は権威の象徴としてのモニュメント的な見せる都市として
	の意味合いが強い。その典型がウイグルのオルド・バリクや元の大都である。






	<中央ユーラシア遊牧民の文化的特徴>
 
	中央ユーラシアの遊牧騎馬民共通の文化的特徴として、数々の点が指摘されている。

	 1.実力主義 
	指導者は、能力のある者が話し合いで選出される。 農耕民に比べて女性の地位が高い。能力があれば異民族でも受け入れて厚遇する。
	男女を問わず騎馬と騎射に優れる、必然的に機動性に富むあり様がそのまま武力に直結している。
 
	2.人命(人材)の尊重 
	情報を重視し、勝てない相手とは争わない。実際の戦闘はなるべく行わず、指導者間の交渉で解決する。
 
	3.非完結の社会 
	社会の維持に非遊牧世界の技術・製品・税を必要とするため領域内に農耕都市を抱え込む。
 
	などである。これらは人口が少ないがゆえの合理性に基づく。抱え込む農耕都市が増加し支配下の都市間が交易などにより文化的・経済的
	に一体化することによって広域国家が発生する。これらの文化は、遊牧に起源をもつものであるが、現代の国民国家、産業社会においてそ
	の遊牧的慣習は抹殺される傾向にある。その一因として、現代型の民族観、国家観と遊牧民の持つ集団編成原理に相容れない性格がある事
	が挙げられる。




	<遊牧民の食生活>
 
	モンゴルでは人間は「赤い食べ物」と「白い食べ物」で生きているという考えがあり、赤が肉、白が乳製品を指す。冬場は肉を食べる。干
	し肉等に加工して保存する。乳からはバター、チーズ、ヨーグルト、馬乳酒なども作る。朝は乳茶も飲む。肉食中心の遊牧民の生活におい
	て、馬乳酒は貴重な野菜の替りにビタミンやミネラルを補うものとして夏場を中心に大量に飲まれている。酒とはいうものの、アルコール
	分は1〜3%程度であり、水分、エネルギー、ビタミンC補給源として赤ん坊から年寄りまで飲用する。酒というよりは限りなくヨーグルト
	に近い乳酸飲料であり、これだけで食事替りにしてしまうほどの夏のモンゴルの主食的存在である。大体1日に0.5〜1.5リットル位を摂って
	いるという報告が殆どだが、中には1人1日平均4リットルを飲んでいるという驚くべき調査結果もある。馬乳酒を1日3リットル飲むと1,200
	カロリーに相当し、基礎代謝に相当する。発酵の過程で増殖する酵母や乳酸菌は、モンゴルでの乏しい食物繊維の替わりに、菌体が腸管老
	廃物を吸着して排出させている可能性がある。
	北京農業大学の研究では、馬乳酒には12種類の人体必須微量元素、18種類のアミノ酸、数種類のビタミン群が含まれていた。乳酸菌がビタ
	ミンCを生成し、野菜を摂らない遊牧民のビタミンC補給源となっている。馬乳酒にはビタミンCが100 mlあたり8-11 mg含まれている。馬乳
	中の乳糖は発酵によりその多くがアルコール、乳酸または炭酸ガスに変換されるので乳糖不耐症の問題も起こらない。夏季に遊牧民が食事
	を摂らず馬乳酒のみで過ごしていることが旅行記に記されている。淡水魚、野菜、果物は通常入手できないため、ほとんど食べない。
 
	上記のように肉、乳製品、馬乳酒が必要なエネルギーとタンパク質を提供し、不足している糖分は体内でのアミノ酸からの糖新生で補われ、
	ミネラル、ビタミン類は馬乳酒が提供し、酵母と乳酸菌が食物繊維の代替を果たしている。必須脂肪酸については、家畜が自然の草を餌と
	するため肉、乳製品、馬乳酒にω-3脂肪酸とω-6脂肪酸がほどよいバランスで含まれている。偏った食事ではあるが、必要な栄養素はすべ
	てそろっていて健康を維持できることになる。
	ただ、上記のような食生活が誇張されることがあるが、実際にはモンゴル人はほかの黄色人種同様に乳糖不耐症が多く、乳製品に弱い体質
	を持ち、大人になると下痢などの症状を現す者も多い。実際のモンゴル人の食生活は馬肉、山羊などの肉食が中心である。ホルホグなど伝
	統料理がある。また、モンゴルは世界的な肉食文化をもつ国であるために、魚食の習慣がないとされることがあるが、実際は古代から魚食
	の文化が存在していた。




	数年前、新疆ウィグル自治区のウルムチへ行ったとき、こんな帽子を被った人が多かった。あそこは漢民族とは完全に違う世界である。漢
	民族はどこへ行っても強引に入植を続け、やがてその地の民族を支配し、自国領にしてしまう。もし日本が中国と陸続きだったなら、とっ
	くに日本自治区になっていたことだろう。対馬がいまその実験台になっている。







モンゴルを中心に、広く中央アジア広域で着られている遊牧民スタイルの衣装








	<中央アジアの歴史>

	中央アジアの歴史は、「中央アジア」をどう見るかによって様相を異なるが、一般に、ユーラシア大陸内陸部を拠点とする遊牧民族、およ
	びオアシス国家の歴史を指す。歴史上、中央アジアの遊牧民は、北アジアのモンゴル高原から中央アジア・イラン高原・アゼルバイジャン
	・カフカス・キプチャク草原・アナトリアを経て東ヨーロッパのバルカンまでを活動領域としてきた。匈奴・サカ・スキタイの時代から、
	パルティア・鮮卑・突厥・ウイグル・セルジューク・モンゴル帝国などを経て近代に至るまでユーラシア大陸全域の歴史に関わり、遊牧生
	活によって涵養された馬の育成技術と騎射の技術と卓越した移動力と騎兵戦術に裏打ちされた軍事力と交易で歴史を動かしてきた。遊牧民
	を介してユーラシア大陸の東西はシルクロードなどを用いて交流し、中国の火薬などの技術がモンゴル帝国を通じてヨーロッパに伝わって
	もいる。以下、東西の文献資料の記録から概説する。


 
	古 代

	古代ギリシア・ローマの記録によると、紀元前6世紀の中央アジアにはダアイ,マッサゲタイ,サカイといった遊牧民族や、ソグディア人,
	バクトリア人といった定住民族がおり、時の世界帝国であるアケメネス朝ペルシアに従属したり、敵対したりしていたという。 なかでも
	マッサゲタイはトミュリス女王のもと、キュロス2世(在位:紀元前550年 - 紀元前529年)の侵攻に耐え、ペルシア軍を撃退し、キュロス
	2世を戦死させるほど強盛を誇った。
	紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンドロス3世はアケメネス朝を倒して東方へ進出、中央アジアにおいてサカイ、マッサゲタイを撃退し、
	ソグディア人,バクトリア人をその支配下に置いた。彼の死後、その広大な領土はギリシア系の後継王朝が支配することとなるが、特に、
	グレコ・バクトリア王国にいたっては、東方におけるギリシア文化の発展と、北方遊牧民族から南アジア、西アジア文明を守る防壁の役割
	を果たした。紀元前2世紀、このギリシア国家はアシオイ,パシアノイ,トカロイ,サカラウロイといった北方の騎馬民族によって滅ぼさ
	れ、西方史料の情報もいったん途絶える。
 
	西方史料に代わって中央アジアの歴史を伝えてくれるのが中国の歴史書である。中国の史料では、この「北方騎馬民族によるギリシア国家
	滅亡」によく似た事件を伝えている。紀元前2世紀に中国の甘粛省にいたとされる遊牧民族「月氏」が、モンゴル高原の遊牧民族「匈奴」
	によって撃退され、はるか西方の中央アジアに移動し、もともとそこにいた大夏国を征服して「大月氏」と称した。途中、月氏はセミレチ
	エ地方において「塞」という民族を撃退したとあり、これを西方史料のいう「サカイ」に比定したり、「大夏」を「トカロイ」もしくはグ
	レコ・バクトリア王国に比定したりする研究があったが、いずれにしても「中央アジアに北から遊牧騎馬民族が侵入してきた」という同事
	件を指している。
	一方、中国史料は大月氏のほかに、カザフ草原の遊牧民族「奄蔡」や「康居」、フェルガナ盆地の「大宛」、天山地域の「烏孫」、タリム
	盆地のオアシス諸国「亀茲」,「焉耆」,「楼蘭」,「車師」,「于?」,「疏勒」,「莎車」といった国々を記している。
 
	東トルキスタンには、古くはインド・ヨーロッパ語族の言葉を話す人(いわゆるアーリア人)が居住していた。タリム盆地には疏勒,亀茲,
	焉耆,車師,楼蘭,于■,疏勒,莎車などの都市国家が交易により栄えたが、しばしば遊牧国家の匈奴や中国の漢の支配下に入り、その朝
	貢国となった。天山・セミレチエ地方の烏孫はもともと匈奴の従属国であったが、半ば独立して漢帝国と好を結んだ。
	1世紀、大月氏はクシャーナ朝に取って代わり、タリム盆地や北インドに進出し、大帝国を築いた。また、カニシュカ1世の時代に仏教を取
	り入れ、ガンダーラ美術を発展させた。クシャーナ朝は自身の記録を残しており、ギリシア文字/バクトリア語で書かれた『スルフ・コタ
	ル碑文』や『ラバータク碑文』は有名である。クシャーナ朝は3世紀にサーサーン朝の圧力を受けて衰退し、5世紀になって北東の遊牧民族
	エフタルに滅ぼされた。
	5世紀、モンゴル高原で強大化した柔然はタリム盆地のオアシス諸国を支配下に入れ、紀元前2世紀以来続いた烏孫の国家を滅ぼし、中央ア
	ジアでエフタルと隣接した。エフタルは東南ではインドのグプタ朝と戦い、西ではサーサーン朝と戦ってペーローズ1世(在位: 459年 - 
	484年 )を戦死させ、北では高車と戦って高車王の阿伏至羅の弟である窮奇を殺し、その子の弥俄突らを捕えるなど、周辺の国々と絶えず
	戦争を行った。
	6世紀になり、柔然を滅ぼした突厥は西方攻略を進め、室点蜜(イステミ)を中央アジアに派遣し、サーサーン朝のホスロー1世(在位:
	531年 - 579年 )と協同でエフタルに攻撃を仕掛け、徹底的な打撃を与えた。これによってエフタルはシャシュ(石国),フェルガナ(破
	洛那国),サマルカンド(康国),キシュ(史国)を突厥に奪われ、 567年頃までに残りのブハラ(安国),ウラチューブ(曹国),マイ
	マルグ(米国),クーシャーニイク(何国),カリズム(火尋国),ベティク(戊地国)も占領され、滅亡させられた。以後、中央アジア
	は突厥の支配下に入り、741年までその支配が続く。これにより中央アジアのテュルク化が進み、「トルキスタン」の基礎が形成される。
 


	中 世
 
	4世紀頃に北匈奴の残党ともいわれる遊牧民族のフン族の進出によってゲルマン民族の大移動が引き起こされる。その後も、遊牧民族の柔
	然・突厥・回鶻・契丹が強大な軍事力でモンゴル高原からキプチャク草原に至るスッテプ地域を席巻した。
	6世紀中頃の555年、中央ユーラシア東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった突厥に滅ぼされる。突厥は柔然の旧領をも凌ぐ
	領土を支配し、中央ユーラシアを支配したが、582年に東西に分裂し、8世紀には両突厥が滅亡する。
 
	(ウイグル可汗国)
	タリム盆地の北に位置しモンゴル高原の南西にあるジュンガル盆地には、古来より遊牧民族が暮らしており、主にモンゴル高原を支配する
	遊牧国家(匈奴、突厥など)の勢力圏となっていたが、鉄勒の中からウイグル(回鶻)が台頭し、8世紀には突厥を滅ぼした。鉄勒は突厥
	以外のテュルク系民族を指し、九姓(トクズ・オグズ)とも呼ばれていた。鉄勒は中央ユーラシア各地に分布し、中国史書では「最多の民
	族」とある。鉄勒は突厥に叛服を繰り返していたが、鉄勒の一部族の回族(ウイグル)が台頭し、葛邏禄(カルルク)、拔悉蜜(バシュミ
	ル)といったテュルク系民族とともに東突厥第二可汗国を滅ぼした。この時期のウイグルは、タリム盆地、ジュンガル盆地、モンゴル高原
	など広大な領域を勢力圏とし、多くの部族を従えたため、ウイグル可汗国と呼ばれている。ウイグルの影響力は絶大であり、安史の乱等で
	はしばしば唐を助け、婚姻関係を結ぶなど関係を深めたが両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったテュルク系民族がそれぞれの国
	を建て、細分化していった。
	モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回族(ウイグル)が回鶻可汗国を建て、中国の唐王朝と友好関係となってシルクロード交易で繁栄した
	が内紛が頻発して黠戛斯(キルギス)の侵入を招き、 840年に崩壊した。モンゴル高原より逃亡したウイグル人は甘州ウイグル王国、天山
	山脈北麓ユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とし、天山ウイグル王国を建てた。天山ウイグル王国は東トルキスタン
	(タリム盆地、トルファン盆地、ジュンガル盆地)の東半分を占領し、マニ教,仏教,景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰した。
	これらは東トルキスタンにおける定住型テュルク人(現代ウイグル人)の祖となり、タリム盆地のテュルク化を促進した。同時期に別のテ
	ュルク系民族がタリム盆地にカラ・ハン朝を興した。この結果、東トルキスタンの住民は、次第にテュルク化に向かい、カラ・ハン朝がイ
	スラム教に改宗すると、イスラム化が進んだ。
	カスピ海以西では9世紀に遊牧民族がマジャルがアールパード王に率いられハンガリー平原に移住したが、レヒフェルトの戦いにおいてオ
	ットー1世に敗れると、キリスト教化政策を進め、ハンガリー平原に統一国家を建設する。ほか、アヴァール、ブルガール,ハザール,ペ
	チェネグが割拠しており、南ルーシの草原で興亡を繰り広げていた。11世紀になるとキメクの構成部族であったキプチャク(クマン人、ポ
	ロヴェツ)が南ルーシに侵入し、モンゴルの侵入まで勢力を保つ。
 
	(カラハン朝とテュルク・イスラーム)
	中央アジアではカルルク,テュルギシュ,キメク,オグズといった諸族が割拠していたが、10世紀にサーマーン朝の影響を受けてイスラー
	ム化が進み、テュルク系民族初となるカラハン朝が誕生する。彼らはやがてトゥルクマーン(イスラームに改宗したオグズ)と呼ばれ、中
	央アジア各地で略奪をはたらき、土地を荒廃させていったが、セルジューク家のトゥグリル・ベグによって統率されるようになると、1040
	年にガズナ朝を潰滅させ、ホラーサーンの支配権を握る。1055年、トゥグリル・ベクはバグダードに入城し、アッバース朝のカリフから正
	式にスルターンの称号を授与されるとスンナ派の擁護者としての地位を確立する。このセルジューク朝が中央アジアから西アジア、アナト
	リア半島にいたる広大な領土を支配したために、テュルク系ムスリムがこれらの地域に広く分布することとなった。また、イスラーム世界
	において奴隷としてのテュルク(マムルーク)は重要な存在であり、イスラーム勢力が聖戦(ジハード)によって得たテュルク人捕虜は戦
	闘力に優れているということでサーマーン朝などで重宝され、時にはマムルーク自身の王朝(ホラズム・シャー朝、ガズナ朝、マムルーク
	朝、奴隷王朝など)が各地に建てられることもあった。こうした中でテュルク・イスラーム文化というものが開花し、数々のイスラーム書
	籍がテュルク語によって書かれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界におけるテュルク語の位置はアラビア語、ペルシア語
	に次ぐものとなり、テュルク人はその主要民族となった。
	東トルキスタンの西半分はイスラームを受容したカラハン朝の領土となったため、カシュガルを中心にホータンやクチャもイスラーム圏と
	なる。これら二国によって東トルキスタンは急速にテュルク化が進み、古代から印欧系の言語(トカラ語、ガンダーラ語)であったオアシ
	ス住民も11世紀後半にはテュルク民族と化した。カラ・ハン朝は後に東西に分裂し、 東カラ・ハン朝は金に敗れて西遷してきた遼の皇族
	耶律大石率いる契丹族によって12世紀に滅ぼされた。彼ら契丹族がトルキスタンに建てた王朝はカラ・キタイ又は西遼などと呼ばれている。
	カラ・キタイはさらなる勢力拡大を目指し、西トルキスタンに割拠していた西カラ・ハン朝を攻撃して服属させるとともに、 その援軍とし
	て現れたセルジューク朝の軍に大勝して中央アジアでの覇権を確立した。結果、天山ウイグル王国やホラズム・シャー朝を影響下に置くこ
	ととなった。


	・13世紀前半の世界。

	中央アジアの草原地帯にはカルルク,テュルギシュ,キメク,オグズといった西突厥系の諸族が割拠しており、オアシス地帯ではイラン系
	の定住民がすでにイスラーム教を信仰していた。他言語話者がテュルク語に変更するにはテュルク語でイスラーム教を布教するのが最も効
	果的なのであるが、西トルキスタンでは定住民がすでにムスリムであったり、遊牧民と定住民の住み分けがなされていたり人口が多かった
	ために東トルキスタンほど急速にテュルク化が起きなかった。西トルキスタンの場合は、ホラズム・シャー朝,カラキタイ,ティムール朝,
	シャイバーニー朝といった王朝のもとでゆっくりとテュルク化が進んでいった。
 

	・モンゴル帝国

	13世紀頃、モンゴル帝国はモンゴル高原・中国・中央アジア・イラン・イラク・アナトリア・東ヨーロッパを支配するなど、強大な軍事力
	でユーラシア大陸を席巻した。モンゴル高原に割拠した遊牧民の部族は「モンゴル」・「メルキト」・「ナイマン」・「ケレイト」・「タ
	イチウト」など。元は遊牧民の帝国であるモンゴル帝国の一部である。
 
	古代からモンゴル高原には絶えず統一遊牧国家が存在してきたが、840年のウイグル可汗国(回鶻)の崩壊後は360年の長期にわたって統一
	政権が存在しない空白の時代が続いた。これはゴビの南(漠南)を支配した遼(契丹)や金(女真)といった王朝が、巧みに干渉して漠北
	に強力な遊牧政権が出現しないよう、政治工作をしていたためであった。当時、モンゴル高原にはケレイト,ナイマン,メルキト,モンゴ
	ル,タタル,オングト,コンギラトといったテュルク・モンゴル系の諸部族が割拠していたが、13世紀初頭にモンゴル出身のテムジンがそ
	の諸部族を統一して新たな政治集団を結成し、チンギス・カン(在位: 1206年 - 1227年)として大モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を
	建国した。チンギス・カンはさらに周辺の諸民族・国家に侵攻し、北のバルグト,オイラト,キルギス、西のタングート(西夏),天山ウ
	イグル王国,カルルク,カラキタイ(西遼),ホラズム・シャー朝をその支配下に置き、短期間のうちに大帝国を築き上げた。チンギス・
	カンの後を継いだオゴデイ・カアン(在位: 1229年 - 1241年)も南の金朝を滅ぼして北中国を占領し、征西軍を派遣してカスピ海以西の
	キプチャク,ヴォルガ・ブルガール,ルーシ諸公国を支配下に置いてヨーロッパ諸国にも侵攻した。ユーラシア大陸を覆い尽くすほどの大
	帝国となったモンゴルであったが、第4代モンケ・カアン(在位: 1251年 - 1259年)の死後に後継争いが起きたため、帝国は4つの国に分
	裂してしまう。
	モンゴル帝国時代にテュルクのモンゴル語化はあまり起きなかった。むしろイスラーム圏に領地を持ったチャガタイ・ウルス(チャガタイ
	汗国)、フレグ・ウルス(イル汗国)、ジョチ・ウルス(キプチャク汗国)ではイスラームに改宗するとともにテュルク語を話すモンゴル
	人が現れた。こうしてモンゴル諸王朝のテュルク・イスラーム化が進んだために、モンゴル諸王朝の解体後はテュルク系の国家が次々と建
	設される。
	天山ウイグル王国は、カラ・キタイがホラズム・シャー朝の勃興により相対的に弱体化していたため、いち早くモンゴルに服属し、その■
	馬王家としてモンゴルの王族に準ずる待遇を得た。オアシス定住民の統治に長けていた天山ウイグル王国はその後もモンゴル帝国の庇護を
	受け、14世紀後半にいたるまでその王権が保たれた。ウイグル人は高度な知識を持ち、モンゴル帝国の官僚として活躍し、またウイグル文
	字はモンゴル文字の基礎になった。モンゴルの内紛が起きると天山ウイグル政権はトルファン地域を放棄したが、その精神を受け継いだウ
	イグル定住民たちは現在もウイグル人として生き続けている。
 
	モンゴル帝国支配下の東トルキスタンを大きく分けると、天山ウイグル王国の領域のほか、チンギス・ハンの第三子オゴデイ系の領地(オ
	ゴデイ・ハン国)と第二子チャガタイ系の領地(チャガタイ・ハン国)に別れていた。カラハン朝以来イスラーム圏となっていたタリム盆
	地西部以西にはモンゴル時代にチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)が形成され、天山ウイグル領で仏教圏であった東部もその版図
	となり、イスラーム圏となる。やがてチャガタイ・ハン国はパミールを境に東西に分裂するが、この要因の一つにモンゴル人のテュルク化
	が挙げられる。マーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)を中心とする西側のモンゴル人はイスラームを受容してテュルク語を話し、
	オアシス定住民の生活に溶け込んでいった。彼ら自身は「チャガタイ」と称したが、モンゴルの伝統を重んじる東側のモンゴル人は彼らを
	「カラウナス(混血児)」と蔑み、自身を「モグール」と称した。そのためしばらく東トルキスタンは「モグーリスタン」と呼ばれること
	となる。
	やがてモンゴル帝国は王族間対立などによって徐々に解体へと向かうこととなるが、オゴデイの孫カイドゥは、モンゴル帝国の宗主たる元
	のクビライに公然と反旗を翻し、帝国の解体に大きな影響を与えた。その後、東トルキスタンは長らくモンゴル系領主の支配を受けた。
 
	・ティムール朝
 
	14世紀後半の1370年にティムール朝が興り、トゥーラーン・マーワラーアンナフル・ホラーサーン・ヒンドゥースタン・イラン・イラクを
	支配した。なお、それに先駆けて1299年にはオスマン帝国が興り、東欧・黒海沿岸・シリア・エジプト・イラクなどを支配している。
	東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン)から台頭したティムールは西トルキスタンとイラン方面(旧フレグ・ウルス)を占領し、モグー
	リスタンとジョチ・ウルスをその影響下に入れて大帝国を築き上げた。彼自身がテュルク系ムスリムであったため、また西トルキスタンに
	テュルク人が多かったため、ティムール朝の武官たちはテュルク系で占められていた。しかし、文官はイラン系のターズィーク人が担って
	いたため、ティムール朝の公用語はイラン系のペルシア語と、テュルク系のチャガタイ語が使われた。
 


	近 世
 
	・ウズベク・カザフ
 
	キプチャク草原を根拠地としたジョチ・ウルスはイスラームを受容し、多くのテュルク系民族を抱えていたためにテュルク化も進展した。
	15世紀になると、カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、クリミア・ハン国、シャイバーニー朝、カザフ・ハン国、シビル・ハン国とい
	ったテュルク系の王朝が次々と独立したため、ジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われた。
	現在のウズベク人とカザフ人の祖先はジョチ・ウルス東部から独立したシバン家のアブール=ハイル・ハーン(在位: 1426年 - 1468年)
	に率いられた集団であった。彼らはウズベクと呼ばれ、キプチャク草原東部の統一後、シル川中流域に根拠地を遷したが、ジャーニー・ベ
	ク・ハーンとケレイ・ハーンがアブール=ハイル・ハーンに背いてモグーリスタン辺境へ移住したため、ウズベクは2つに分離し、前者を
	ウズベク、後者をウズベク・カザフもしくはカザフと呼んで区別するようになった。アブール=ハイル・ハーンの没後、ウズベク集団は分
	裂し、その多くは先に分離していたカザフ集団に合流した。勢力を増したカザフはキプチャク草原の遊牧民をも吸収し、強力な遊牧国家で
	あるカザフ・ハン国を形成した。やがてウズベクの集団もムハンマド・シャイバーニー・ハーンのもとで再統合し、マーワラーアンナフル,
	フェルガナ,ホラズム,ホラーサーンといった各地域を占領してシャーバーニー朝と呼ばれる王朝を築いた。
 
	1599年にシャイバーニー朝が滅亡した後、マーワラーアンナフルの政権はジャーン朝(アストラハン朝)に移行した。ジャーン朝は1756年
	にマンギト朝によって滅ぼされるが、シャイバーニー朝からマンギト朝に至るまでの首都がブハラに置かれたため、この3王朝をあわせて
	ブハラ・ハン国と呼ぶ。また、ホラズム地方のウルゲンチを拠点とした政権(これもシャイバーニー朝)は17世紀末にヒヴァに遷都したた
	め、次のイナク朝( 1804年 - 1920年)とともにヒヴァ・ハン国と呼ばれる。そして、18世紀にウズベクのミング部族によってフェルガナ
	地方に建てられた政権はコーカンドを首都としたため、コーカンド・ハン国と呼ばれる。これらウズベク人によって西トルキスタンに建て
	られた三つの国家を3ハーン国と称する。
 
	・ロシアの征服
 
	13世紀に始まるモンゴル人のルーシ征服はロシア側から「タタールのくびき (татарское иго)」と呼ばれ、ロシア人にとって
	は屈辱的な時代であった。しかし、モスクワ大公のイヴァン4世(在位:1533年 - 1584年)によってカザン・ハン国、アストラハン・ハン
	国といったジョチ・ウルス系の国家が滅ぼされると、ロシアの中央ユーラシア征服が始まる。このときロシアに降ったテュルク系ムスリム
	はロシア側から「タタール人」と呼ばれていたが、異教徒である彼らはロシアの抑圧と同化政策に苦しめられ、カザフ草原やトルキスタン
	に移住する者が現れた。
	16世紀末になってロシア帝国はシベリアのシビル・ハン国を滅ぼし、カザフ草原より北の森林地帯を開拓していった。同じ頃、カザフ草原
	のカザフ・ハン国は大ジュズ,中ジュズ,小ジュズと呼ばれる三つの部族連合体に分かれていたが、常に東のモンゴル系遊牧集団ジュンガ
	ルの脅威にさらされていた。	1730年、その脅威を脱するべく小ジュズのアブルハイル・ハーン(在位: 1716年 - 1748年)がロシア帝国に服属を表明し、中ジュズ,大
	ジュズもこれにならって服属を表明した。
 
	・ジュンガル、清の進出
 
	16世紀にウイグル人国家であるヤルカンド・ハン国が成立したが、この支配者もチャガタイ系でモンゴル系であった。ヤルカンド・ハン国
	は、17世紀に北方からやってきたオイラト族のジュンガル部に滅ぼされた。さらに、18世紀なかばにはジュンガルが清により征服され、そ
	の支配下に入った。清朝の支配では、イリ将軍統治下の回部として、藩部の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を
	意味する「回疆」、もしくは「新しい土地」を意味する「新疆」と呼ばれた。



	近 代
 
	19世紀の半ば、バルカン半島から中央アジアに及ぶ広大な地域を舞台に、大英帝国とロシア帝国との「グレート・ゲーム」が展開されてい
	た。ロシア帝国はイギリスよりも先にトルキスタンを手に入れるべく、1867年にコーカンド・ハン国を滅ぼし、1868年にブハラ・ハン国を、
	1873年にヒヴァ・ハン国を保護下に置き、1881年に遊牧集団トルクメンを虐殺して西トルキスタンを支配下に入れた。東トルキスタンはか
	つてウイグリスタン、モグーリスターンとよばれ、西トルキスタンはマーワラーアンナフルと呼ばれていたが、これらの地域を「トルキス
	タン」と一括する慣習は19世紀以降のロシアによる。
	19世紀の後期、西トルキスタンのフェルガナ盆地を支配していたコーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクの手によっていったん東トルキス
	タンの大半が清から離脱する。しかし、間もなく清は欽差大臣の左宗棠を派遣して再征服に成功した。この時期になると列強が積極的に東
	アジアに進出してきており、清はヤクブ・ベクの乱をきっかけにロシア帝国との国境地帯にあたる東トルキスタンの支配を重視し、1884年
	に清朝内地並の行政制度がしかれることとなった(新疆省)。
	また、ロシア領内のテュルク人の間では、19世紀末からムスリムの民族的覚醒を促す運動が起こり、オスマン帝国を含めてテュルク人の幅
	広い連帯を目指す汎テュルク主義(汎トルコ主義)が生まれた。しかし、ロシア革命が成功すると、旧ロシア帝国領内に住むテュルク系諸
	民族は個々の共和国や民族自治区に細分化されるに至った。一方、トルコ革命が旧オスマン帝国であるアナトリアに住むトルコ人だけのた
	めの国民国家であるトルコ共和国を誕生させた結果、汎テュルク主義は否定される形となった。


	・20-21世紀

	帝政ロシアの支配下にあった西トルキスタンは、帝国がロシア革命で倒された後は社会主義共和国が作られ、ソ連の傘下に組み込まれた。
	その際、各共和国の国境線は人為的に引かれたため、民族分布とは必ずしも合っていない。1991年のソビエト連邦崩壊後、旧ソ連から5つ
	のテュルク系民族の共和国が悲願の独立を果たす。これら諸共和国やタタール人などのロシア領内のテュルク系諸民族と、トルコ共和国の
	トルコ人たちとの間で、汎テュルク主義の再台頭ともみなしうる新たな協力関係が構築されつつある一方、独立以降も経済的・軍事的には
	未だにロシアの影響は強い。また中央アジア連合創設への提案も行われている。
 
	東トルキスタンは清の乾隆帝に征服されて以来、清朝→中華民国→中華人民共和国と異民族による支配が続いている。辛亥革命によって清
	が滅亡した際、東トルキスタンはイリ地方の軍事政権、東部の新疆省勢力圏などに分かれたが、やがて漢人勢力の新疆省がイリ地方を取り
	込んだ。この結果、藩部のうち、民族政権が維持されていたチベットとモンゴルは手をたずさえて「中国とは別個の国家」であることを宣
	言(チベット・モンゴル相互承認条約)したのに対し、漢人科挙官僚によって直接支配が維持された東トルキスタンは、中華民国への合流
	を表明することとなった。ただし、中華民国中央が軍閥による内戦状態にあったため、新疆省は以後数十年に渡り事実上の独立国のような
	状態であった。
	1933年および1944年から 1946年にかけてソ連の後援でウイグル人主体の独立政権である東トルキスタン共和国の建国が試みられたが,1949
	年の中国共産党による中華人民共和国成立およびウイグル侵攻によって併合され、その支配下に入った。その後大量の漢民族が国策的に移
	民してきており、駐留する人民解放軍とあわせるとウイグル人よりも多くなると言われている。1955年には新疆ウイグル自治区が設置され
	た。しかし、自治区とはいえ実際の政治・政策は北京の中国共産党政府主導のもとで行われている。1950年代から1960年代にかけてはカザ
	フの新疆脱出が発生した。独立運動各派は弾圧され、中国政府は「政治犯」として50万人もの東トルキスタン人を処刑したといわれる。
	ほか妊婦に対して「計画生育」と言う名目で胎児の中絶を強制し、犠牲になった胎児は850万に上ると推計されている。 またチベットでも
	同様の産児制限と中絶・不妊手術の強制が行われた[10]。東トルキスタン独立問題は国際連合ほか国際社会でも重大な人権侵害問題として
	問題視されている。なお、独立運動の一派は2004年9月に東トルキスタン亡命政府をアメリカで樹立している。
 

	・ソ連崩壊後
 
	1991年12月、ソ連が崩壊した。中央アジア諸国は、資本主義経済へ移行していった。そのためには経済システムの刷新が不可避であった。
 



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