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山梨県北杜市考古資料館

古代 2011年12月11日(日)





	<北杜市の古代>

	当市の大部分の区域はかつて、甲斐国巨摩郡逸見筋(へみすじ)に属していた。逸見の地は古代より良馬の産地として知られており、
	逸見牧(へみのまき)と呼ばれる牧が存在していた。この地に赴いた源清光は「逸見」の名を冠し、「逸見清光」を名乗った。

	<源清光出>	典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
	源 清光(みなもと の きよみつ)は、平安時代末期の武将。甲斐源氏の祖。黒源太(くろげんた)清光、とも、逸見(へんみ)清光
	とも呼ばれる。父は武田冠者・源義清。逸見光長・武田信義・加賀美遠光・安田義定・浅利義成ら11人の男子がある。遠光と義定は
	弟で養子としたとする説もある(『吾妻鏡』)。
	義光の次男であった父の義清は常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市、旧勝田市武田)を本拠とし武田冠者を称しており、清光も
	武田郷で生まれる。大治5年(1130年)、清光は一族の佐竹氏(伯父佐竹義業の系統)と争い、朝廷より父とともに常陸から追放され、
	甲斐国八代郡市河荘に(山梨県市川三郷町、旧西八代郡市川大門町)へ流罪となる(源師時の日記『長秋記』、『尊卑分脈』による)。
	清光親子は平塩岡に館を構え(館は中巨摩郡昭和町西条とも)、義清は同荘の荘官として勢力を拡張する。清光は甲斐国北西部(現在
	の北杜市、旧北巨摩郡域)の逸見荘へ進出し、逸見冠者を称する。
	清光は保元の乱や平治の乱など源氏の一族も関わっている中央の争乱には参加せず、甲斐国での勢力拡大に務めた。八ヶ岳南麓の逸見
	荘は古代官牧逸見牧が発達しており、現在の清光寺域(北杜市長坂町)に館を構え(北杜市須玉町若神子とも)、詰城として谷戸城
	(北杜市大泉町)を築城したという。59歳で死去。北杜市長坂町の清光寺には清光の墓所がある。
	清光の子孫らは甲府盆地の各地へ進出し、各地域の地名を姓とし逸見氏・武田氏・加賀美氏・安田氏・浅利氏といった甲斐源氏の諸支
	族の祖となった。武田氏は後に甲斐源氏の中心氏族となるが、武田姓の名乗りに関しては父の義清は常陸国において既に名乗っていた
	と言われ(志田諄一『勝田市史』、検討の余地も指摘される)、甲斐武田氏の祖となる清光の子信義が武田八幡宮(山梨県韮崎市)に
	おいて元服した際に称したと言われるが、清光に関しては逸見姓を名乗り武田を称した形跡のないことが指摘され、義清の孫にあたる
	信義が継承したと考えられている。光長に継承された逸見氏は信義の武田氏が躍進して衰退したと考えられているが、その後は支族の
	動向が確認できるものの直系に関しては不明とされている。




































	平安時代には出土文字資料にも甲斐国名が出現し、甲府市横根町の大坪遺跡では「甲斐国山梨郡表門」、南アルプス市百々(旧中巨摩
	郡白根町)の百々遺跡では「甲斐」の墨書土器が出土している。





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