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山梨県北杜市考古資料館 金生遺跡 2011年12月11日(日)







	<金生遺跡(きんせいいせき)>

	金生遺跡は、八ヶ岳南麓の標高770m付近の尾根上に位置している。県営圃場整備事業に先立ち、1980年(昭和55年)に発掘調査が
	行われ、縄文時代のムラの跡と戦国時代の城館跡に関連する部分が発見された。特に後者については、県指定史跡「深草館跡」の外郭
	部と見ることができるようである。
























	<中空土偶>

	この土偶には液体を入れ注ぐ機能を持たせていたと考えられる。腰の辺りに直接頭部が載ったような風変わりな形状で、関東北部・中部
	に見られると云う。豊かな稔りをかなえる縄文女神の最後の姿に見える。 


















	<土偶の数々>

	土偶は縄文時代を代表する祭祀遺物で、縄文草創期から出現し中期には有脚立像形の女神として信仰され、後・晩期へと引継がれて行く。
	地域・時代を映す様々な特徴を持ち、集落のまとまりを現わしているとも云える。 
 













	<石棒・石剣>

	典型的祭祀用具で、生産・再生・豊穣を祈る道具と考えられている。石棒・石剣は住居内部・集落広場・配石遺構などに置かれたり、立てられ
	たりしている。当配石遺構では、太い大型石棒が数本立てられていたと云う。縄文後期以降は小型化すると云われるが、当遺跡は晩期に
	なっても大型石棒を使っていた。扁平な石剣と共に、時代が大きく移り変わりつつある象徴と云える。 
 











	<金生遺跡 配石遺構>
 
	金生遺跡は、八ヶ岳南山麓の標高770〜780mの高原に築かれた配石遺構である。発掘・調査後、厳しい気象条件を考えて埋戻し、
	中心部の1号遺構(東西80m、南北15m)の上に配石を再構築し史跡公園として公開されている。縄文住居(三棟)も復元されて
	いる。金生遺跡は、元々は墓域で、石棺墓の上にさらに敷石して祭壇状にしたものの連続であると考えられている。配石遺構は河原石
	が用いられていて、八ヶ岳南麓にはない重さ1トンを越す花崗岩が2ケ使われている。5km離れた釜無川より運んだと思われている。
	金生遺跡の周辺には、配石遺構をもつ縄文後〜晩期の遺跡(長坂上條、夫婦石、姥神、石堂B、青木、川俣の各遺跡)が密集している。
	晩期には集落が減少し、金生は最後まで残った集落らしい。 
























	<いろいろな耳飾り>

	耳栓形・滑車形・リング形・円筒形などがあり、美麗かつ精巧な彫刻文様で飾られ、透かし彫りも散見される。中には赤・黒に彩られたもの
	もあり、美意識に対する繊細さが感じ取れる。小破片も含めると560点も出土しているが、滑車タイプが圧倒的に多いと云う。
	祭りの正装用装身具と見られ、耳飾りの着用が普及するほどに祭祀の機会も増加していったと考えられる。 




	<晩期の注口土器>

	注口土器は、祭祀の折に液体を注ぐ用具として使われた非日常土器と云われている。まつりの宴には不可欠な用具として形状・文様など
	精巧に造られ常用さえていたと見られる。山梨県における縄文最終末期の遺跡分布は、尾根上・低地・河川沿いなどあらゆる地域に小規
	模な集落遺跡が立地している。狩猟・採集・畑作・水田耕作・漁労などあらゆる生産活動に試行錯誤を繰返しながら、次の弥生時代に突入
	していったと考えられる。試行錯誤しながら又祭祀も繰返されたと見られる。 



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