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山梨県北杜市考古資料館 縄文時代 2011年12月11日(日)





	甲信越地方から東北にかけての縄文遺跡の数は西日本の比ではない。西日本にも、縄文遺跡は各県にあまねく在るが、その数は比較に
	ならない。何故縄文時代は東高西低なのだろうか。鹿児島の上野原遺跡などのように、火山灰の下に生活圏が埋まったので、人々は東
	へ逃げていったのだろうか。縄文文化は日本列島のどの地域でも同質のものだったのではなく、多様な地域性を備えた文化群であった
	ことが指摘されている。
	弥生時代は短いので何とか全容をおぼろげながら掴むことができるが、縄文時代は長い。その前の旧石器時代も含めると1万年という
	年数になる。これを一括りに「縄文時代」として捉える事は非常に難しい。
	年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前 145世紀)から約3,000年前(紀元前 10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にか
	けての時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。
	旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられているが、これとて学者によってさまざま
	である。ウィキペディアによれば、この時期区分を、AMS法で測定して暦年代に補正した年代で示すと、

	草創期(約1万5,000 - 1万2,000年前)、
	早期(約1万2,000 - 7,000年前)、
	前期(約7,000 - 5,500年前)、
	中期(約5,500 - 4,500年前)、
	後期(約4,500 - 3,300年前)、
	晩期(約3,300 - 2,800年前)(以下、青字部分はウィキペディアからの引用)

	となる。この博物館の時代区分もこれに従っており(年代は500-1000年ほど新しい)、学術的にはほぼこの区分が定着しているようで
	あるが、土器編年による区分の他、縄文時代を文化形式の側面から見て幾つかの時期に分類する方法も存在している。縄文時代の文化
	史的区分については研究者によって幾つかの方法があり、現在のところ学界に定説が確立されているわけではない。

	縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称であったが、次第に生活内容を加えた特徴の説明が為されるようになり、磨製石器
	を造る技術、土器の使用、狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになった。
	縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として有効である。土器型式上の区分から、縄文時代は、草創期・早期・前期・
	中期・後期・晩期の6期に分けられる。研究当初は、前・中・後の三期区分だったが、資料の増加や研究の進展によって早期、晩期が
	加わり、最後に草創期が加えられた。
	そうした土器研究上の経緯を反映した時期区分であるため、中期が縄文時代の中頃というわけでもなく、生業や文化内容から見た時代
	区分としても再考の余地があるものの、慣用化した時期区分として定着している。








	<縄文時代草創期>

	最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。しかし、最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000年前
	から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期間のうちに起こった。
	それまでは、針葉樹林が列島を覆っていたが、西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が増加し拡がっていき、北海道を除いて列
	島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われた。コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになった。また、温暖化によ
	る植生の変化は、マンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前
	までには、日本列島から、これらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。

	この草創期の特徴は以下のように指摘されている。

	・新しい道具が短期間に数多く出現した 
	 例えば、石器群では、大型の磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、有形尖頭器、矢柄研磨器、石鏃などが、こ
	 の期に出現する。 使われなくなっていく石器群、新しく出現する石器群が目まぐるしく入れ替わった 
	・草創期前半の時期は、遺跡によって石器群の組み合わせが違う 
	 急激な気候の変化による植生や動物相、海岸線の移動などの環境の変化に対応した道具が次々に考案されていった 
	・狩猟・植物採取・漁労の3つの新たな生業体系をもとに生産力を飛躍的に発展させた。






	<縄文時代早期>

	日本列島の旧石器時代の人々は、大型哺乳動物(ヘラジカ、ヤギュウ、オーロックス、ナウマンゾウ、オオツノシカなど。)や中・小型
	哺乳動物(ニホンジカ、イノシシ、アナグマ、ノウサギなど。)を狩猟対象としていた。大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を
	繰り返すので、それを追って旧石器時代人もキャンプ生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返していた。キル・サイトやブロック、礫群、
	炭の粒の集中するところなどは日本列島内で数千ヶ所も発見されているが、竪穴住居などの施設を伴う遺跡はほとんど発見されていない。

	旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。そして、旧石器時代か
	ら縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。
	縄文早期になると定住生活が出現する。鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、
	17基の集石などが検出されている。この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違って、竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡
	張、重複した住居跡、これらの住居跡やその他の遺構が中央広場を囲むように配置されている。

	加栗山遺跡とほぼ同時期の鹿児島県霧島市にある上野原遺跡では46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が検出されている。このうち13棟は、
	桜島起源の火山灰P-13に覆われていることから、同じ時に存在したものと推定できる。そして、この13棟は半環状に配置されていること
	から、早期初頭には、既に相当な規模の定住集落を形成していたと推定される。

	縄文早期前半には、関東地方に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。現在まで、竪穴住居が検出された遺跡は65ヶ所、その数は300
	棟を超えている。そのうちで最も規模の大きな東京都府中市武蔵台遺跡では24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出され
	ている。
	南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化し、出土個体数も増加
	する。定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。そして、南関東の定住集落の形成には、植
	物採集活動だけでなく、漁労活動も重要な役割を果たしていたと考えられている。

	一方、北に目を転じれば、北海道函館市中野B遺跡からは縄文早期中頃の500棟以上の竪穴住居跡、多数の竪穴住居跡、土壙墓、陥し穴、
	多数の土器、石皿、磨石、敲石、石錘などが出土し、その数は40万点にも上っている。津軽海峡に面した台地上に立地するこの遺跡では、
	漁労活動が盛んに行われ、長期にわたる定住生活を営むことが出来たと考えられる。
	また、東海地方の早期の定住集落、静岡県富士宮市若宮遺跡は28棟の竪穴住居をはじめとする多数の遺構群とともに、土器と石器が18,000
	点ほど出土している。この遺跡が他の早期の遺跡と大いに違う点は、狩猟で使用する石鏃2,168点も出土したことである。富士山麓にある
	この遺跡では、小谷が多く形成され、舌状台地が連続する地形こそ、哺乳動物の生息に適した場であった。つまり、若宮遺跡では、環境
	に恵まれ、獲物にも恵まれて定住生活を営む上での条件が揃っていたと推定される。

	移動生活から定住的な生活への変化は、もう一つの大きな変化をもたらした。その変化はプラント・オパール分析の結果から判明した。
	一時的に居住する半定住的な生活の仕方では、周辺地域の開拓までに至らなかったが、定住的な生活をするようになった縄文時代人は居
	住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、そこにクリやクルミなどの二次林(二次植生)の環境を提供することとなっ
	た。定住化によって、縄文人は、集落の周辺に林床植物と呼ばれる、いわゆる下草にも影響を与えた。ワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、
	ヤマイモ、ノビルなどの縄文人の主要で安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境、つまり雑木林という新しい
	環境を創造したことになる。縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることは遺跡出土の遺物から分かっている。




















	早期末から前期初頭には、定住が確立し集落の周りに貝塚が形成され、大規模なゴミ捨て場が形成される。中期後半には、東日本では地
	域色が顕著になるとともに、大規模な集落が出現して遺跡数もピークに達する。
	一方西日本では遺跡数が少なく定住生活が前期には已に交替している可能性すらある。後期になると東北から中部山岳地帯の遺跡は、少
	数で小規模になり分散する。関東は大規模貝塚を営み、西日本も徐々に定住生活が復活する。
	後期後半には近畿から九州まで定住集落が散見されるようになる。この傾向は晩期前半まで続き、後半はさらに定住化が進み、瀬戸内地
	方から九州北部は水田稲作農耕を導入し、弥生時代早期へと移ってゆく。


	縄文前期には日本列島内に九つの文化圏が成立していたと考えられている。すなわち、

	<石狩低地以東の北海道>
	エゾマツやトドマツといった針葉樹が優勢な地域。トチノキやクリが分布していない点も他地域との大きな違いである。トド、アザラシ、
	オットセイという寒流系の海獣が豊富であり、それらを捕獲する為の回転式離頭銛が発達した。 

	<北海道西南部および東北北部>
	石狩低地以東と異なり、植生が落葉樹林帯である。ミズナラ、コナラ、クルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が盛んに行われた。
	回転式離頭銛による海獣捕獲も行われたが、カモシカやイノシシなどの陸上のほ乳類の狩猟も行った点に、石狩以東との違いがある。

	<東北南部>
	動物性の食料としては陸上のニホンジカ、イノシシ、海からはカツオ、マグロ、サメ、イルカを主に利用した。前2者とは異なり、この文
	化圏の沖合は暖流が優越する為、寒流系の海獣狩猟は行われなかった。

	<関東>
	照葉樹林帯の植物性食料と内湾性の漁労がこの文化圏の特徴で、特に貝塚については日本列島全体の貝塚のうちおよそ6割がこの文化圏の
	ものである。陸上の動物性食料としてはシカとイノシシが中心。海からはハマグリ、アサリを採取した他、スズキやクロダイも多く食し
	た。これらの海産物は内湾で捕獲されるものであり、土器を錘とした網による漁業を行っていた。

	<北陸>
	シカ、イノシシ、ツキノワグマが主な狩猟対象であった。植生は落葉広葉樹(トチノキ、ナラ)で、豪雪地帯である為に家屋は大型化し
	た。 

	<東海・甲信>
	狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹であるが、ヤマノイモやユリの根なども食用とした。打製石斧の使用も特徴の一つであ
	る。 

	<北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後>
	狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹に照葉樹(シイ、カシ)も加わる。漁業面では切目石錘(石を加工して作った網用の錘)
	の使用が特徴であるが、これは関東の土器片による錘の技術が伝播して出現したと考えられている。

	<九州(豊前・豊後を除く)>
	狩猟対象はシカとイノシシ。植生は照葉樹林帯。最大の特徴は九州島と朝鮮半島の間に広がる多島海を舞台とした外洋性の漁労活動で、
	西北九州型結合釣り針や石鋸が特徴的な漁具である。結合釣り針とは複数の部材を縛り合わせた大型の釣り針で、同じ発想のものは古代
	ポリネシアでも用いられていたが、この文化圏のそれは朝鮮半島東岸のオサンリ型結合釣り針と一部分布域が重なっている。九州南部は
	縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。

	<トカラ列島以南>
	植生は照葉樹林帯である。動物性タンパク質としてはウミガメやジュゴンを食用とする。珊瑚礁内での漁労も特徴であり、漁具としては
	シャコガイやタカラガイなどの貝殻を網漁の錘に用いた。九州文化圏との交流もあった。 

	これら9つの文化圏の間の関係であるが、縄文文化という一つの文化圏内での差異というよりは、「発展の方向を同じくする別個の地域
	文化」と見るべきであるとの渡辺誠による指摘がある。つまり、これら全ての文化圏のいずれもが共通の、しかし細部が若干異なる文化
	要素のセットを保持していたのではなく、それぞれの文化圏が地域ごとの環境条件に適合した幾つかの文化要素を選択保持しており、あ
	る文化圏には存在したが別の文化圏には存在しなかった文化要素も当然ながら見られるのである。

















































やかんがポピュラーな生活用品だったというのは全く驚く。生活面で言えば、人間の知恵は数千年を経てもそう変わらないのかもしれない。








	●縄文文化の歴史的変遷

	<縄文文化の分布範囲>
	縄文文化の定義は一様ではないため、縄文文化が地理的にどのような範囲に分布していたかを一義に決定することはできない。縄文土器
	の分布を目安とした場合、北は宗谷岬と千島列島、南は沖縄本島を限界とし、宮古島や八重山諸島には分布しない(宮古島や八重山諸島
	は台湾島の土器と同系統のもの)。すなわち、現在の日本国の国境線とは微妙にズレた範囲が縄文土器の分布域である。

	<気候の変化と縄文文化の発展>
	縄文時代は1万年という長い期間にわたり、大規模な気候変動も経験している。また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んで
	おり、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかった。結果として、縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的に
	も一様ではなく、多様な形式を持つものとなった。
	最後の氷河期が終わってから紀元前4000年頃までは、地球の気温は徐々に温暖化していった時期である。縄文土器編年区分においてはこ
	れは縄文草創期から縄文前期に相当する。この間に日本列島は100m以上もの海面上昇を経験しており、今日では縄文海進と呼ばれて
	いる。
	縄文草創期当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心であったが、落葉樹の森林も一部で出現していた。また地学的に見ても、
	北海道と樺太は繋がっていたし、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていた。瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、
	四国、九州、種子島、屋久島、対馬は一つの大きな島となっていた。この大きな島と朝鮮半島の間は幅15キロメートル程度の水路であっ
	た。その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海
	に流れ込むこととなった。これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森
	林が形成されるようになった。
	縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。最も古い
	定住集落が発見されているのが九州南部で、およそ1万1000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住も開始されたと推測
	されている。定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観
	上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる[7]。この時期の土器は北東アジア系、華北・華中系、
	華南系の3系統に分けられており、分布面から見ると北東アジア系は北海道から東日本に、華北・華中系は西日本、華南系は南日本から
	出土している。植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、そ
	れ以外の地域では落葉樹が優勢であった。
	縄文前期から中期にかけては最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、現在は三内丸山遺跡と呼ばれる場所に起居した縄文人たちが保
	持していたのも、主にこの時期の文化形式である。この時期には日本列島に大きく分けて9つの文化圏が成立していたと考えられている。
	海水面は縄文前期の中頃には現在より3メートルほど高くなり、気候も現在よりなお温暖であった。この時期のいわゆる縄文海進によっ
	て沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手も容易になったと林謙作は指摘している。植生面では関ヶ原より西は概ね照葉樹林帯となった。
	縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、食料生産も低下する。その結果、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じる。関東では貝
	類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなった。一方、西日本や東北では低湿地が増加したため、低湿地に適
	した文化形式が発達していった。中部や関東では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化した。その他にも、青森県の亀ケ丘
	遺跡では花粉の分析により、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっている。文化圏は9つから4つに集約される。
	この4つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれ、「東日本」・「西日本」・「九州」・「沖縄」という現代に至る日本文化の地域
	的枠組みの基層をなしている。

	<土偶の分布に見る地域性>
	縄文人が製作した土偶は、縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使われていたのではなく、時期と地域の両面で限定された
	ものであった。すなわち、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は一旦消滅している。
	その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使用されるようになる。一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州においては、縄
	文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。
	こうした土偶の使用の地域性について藤尾は、ブナ、ナラ、クリ、トチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまりこれら落葉樹
	林に覆われていた地域)と、西日本を中心とした照葉樹林帯との生業形態の差異と関連づけて説明している。落葉性堅果類、すなわちク
	リやいわゆるドングリは秋の一時期に集中的に収穫され、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となるため、土偶を用いた祭
	祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方である。

	縄文後期に入ると、これら9つの文化圏のうち、「北海道西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」の5つ
	がまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における「ナラ林文化」)を構成するようになり、また「北陸・伊勢湾沿岸・中国・四国・
	豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」がまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における照葉樹林文化)を構成するようになる。
	その結果、縄文後期・晩期には文化圏の数は4つに減少する。

	<勾玉からみる地域交流>
	遅くとも縄文中期(BC 5,000年)頃にはヒスイ製勾玉が作られていたことが判明しており、特に新潟県糸魚川の「長者ヶ原遺跡」からは
	ヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されており、蛍光X線分析によると青森県の「三内丸山遺跡」や北海道南部で出土されるヒス
	イは糸魚川産であることが分かっており、このことから縄文人が広い範囲でお互いに交易をしていたと考えられている。後年には日本製
	勾玉は朝鮮半島へも伝播している。

	<植物栽培>
	縄文農耕論は、明治時代以来の長い研究史があり、農耕存否の論争は現在も続いている。縄文時代に植物栽培が行われていたことは確実
	であると考えられている。福井県の鳥浜貝塚の前期の層から栽培植物(アズキ、エゴマ、ウリ、ヒョウタン、ゴボウなど。)が、早期の
	層からヒョウタンが検出されている。一方、北部九州の後・晩期遺跡の遺物で焼畑農耕が行われていた可能性が高いと考えられている。
	福岡県下の後・晩期遺跡の花粉分析、熊本市の遺跡でイネ、オオムギ、大分県遺跡でイネなどが検出されており、東日本からも、同じく
	後・晩期の10個所を超える遺跡からソバの花粉が検出されている。これらも焼畑農耕による栽培であると推定されている。

	<稲作の始まり>
	現在ではプラント・オパールの研究により、縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明して
	いる。
	イネの品種には、ジャポニカ(日本型)・ジャバニカ(ジャワ型)とインディカ(インド型)があり、ジャポニカはさらに、温帯ジャポ
	ニカと熱帯ジャポニカに分かれる。温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結び
	ついて分布している。弥生時代以降の水稲も温帯ジャポニカであるとされている。熱帯ジャポニカは、インディカの分布と重なりながら、
	更に広い範囲に分布し、陸稲と密接に結びついているのが特徴であるとされる。
	列島へは、まず熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播した。温帯ジャポニカによる水稲農耕の始まりも近年の稲DNAに基づく
	研究では、DNAの多様性が朝鮮半島の方が少ないことから南方経由の可能性が高いとされ、また朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つ
	からないことや朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、日本列島のものを遡れないことなどから、稲作は日本列島
	から朝鮮半島へ伝播した説も出ている。
	縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県の上ノ原遺跡などから検出されており、籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・
	オパールに至っては、後期後半の西日本各地の遺跡から発見されている。熊本県下の上南部(かんなべ)遺跡の土壌と土器胎土からイネ
	のプラント・オパールを見い出し、岡山県総社市の南溝手(みなみみぞて)遺跡で岡山県古代吉備文化財センターが発掘した土器6点を
	調べた内の4点からイネのプラント・オパールを見い出した。うち2点は、縄文時代後期中頃、およそ3500年前(炭素14年代)に属して
	いる。同センターは、穂を摘み取るのに使われたと推定される石器(穂摘み具)や、打製土掘り具と見られる石器を発見した。
	晩期の突帯文土器を伴う岡山市北区津島の津島江道遺跡は水田遺構として最も古いもので、3m×5m前後の小区画水田である。
	このため、後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、
	ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。




















































	縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とするが、その年代に
	ついては紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。
	なお、沖縄県では貝塚時代前期に区分される。次の時代は同地域では貝塚時代後期となり、また東北北部から北海道では縄文時代の
	生活様式が継承されるため、続縄文時代と呼ばれる。


	<縄文時代の主なできごと>

	時期		
	区分 				主なできごと

	草創期	約1万3000年前
		約1万年前

		気候環境 この期の初め頃は日本列島が大陸から離れる直前であったと推測されている。晩氷期の気候は、短期間に寒暖が
			 おこり、厳しい環境変化であった。温暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇し、海が陸地に進入してき「海
			 進」という。 
		生活
		住居	 環境の変化に伴い貝類や魚類が新しい食糧資源になった。狩猟の獲物は、ゾウや野牛の大型哺乳動物からシカや
			 イノシシの中・小哺乳動物に変わっていった。竪穴住居址からサケの顎骨発見。小型の骨製U字型釣針。 
		石器	 局部磨製石斧が作られる。槍・弓矢の製作・使用。 
		土器	 隆起線文系土器・爪形文系土器・押縄文系土器(多縄文系土器)女性像を線刻した小礫が作られる。 
		貝塚

	早期	約1万年前 - 6000年前
 
		気候環境 日本列島が完全に大陸から離れて島国となっていた。そして、初めの頃は、現在よりも気温2度ほど低く、海水
			 面も30メートルほど低かった。その後、海水面の高さが戻る。 
		生活	 住居 数個の竪穴住居で一集落を構成する。組み合わせ式釣り針。ドングリやクルミなどの堅果類を植林栽培す
			 る初歩的農法が確立し、食糧資源となっていた。狩猟では、大型の哺乳動物に変わって、シカやイノシシなどの
			 中・小型哺乳動物が中心となった。狩猟道具として弓矢が急速に普及した。 
		石器	 網用の土錘・石錘。ヤス、銛。堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための石皿や磨製の石なども
			 使用されていた。 
		土器	 圧煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えた。縄文・撚糸文の尖底土器が作られた。夏島貝塚から撚糸
			 文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。小型の土
			 偶が作られる。 
		貝塚	 貝塚は、この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域に作られていた。貝塚はヤマトシジミが主体であっ
			 た。狩猟とともに漁労が活発化した。最古級の神奈川県横須賀市夏島貝塚、千葉県香取郡神崎町西之城貝塚。
			 押型文土器期に属する愛知県知多郡南知多町先苅(まずかり)貝塚は海面下13メートルの深さから発見された。
			 人口2万100人。犬を人と一緒に埋葬。屈葬。

	前期	約6000年 - 5000年前

		環境	 気候温暖で海面・気温上昇(縄文海進、海水面4〜5メートル高くなる)のため、現在の内陸部に貝塚が作られる。
			 常緑照葉樹と落葉照葉樹。 
		住居	 竪穴住居が広場を囲んで集落を作る。湖沼の発達により丸木船が作られる。漁労活動開始。 
		石器	 木器・土器・櫛・黒曜石などに漆を塗ることが始まる。環状列石が作られる。 
		土器	 この期を境に土器の数量は一気に増加し、形や機能も多様化し、平底土器が一般化する。土器は羽状縄文を施し
			 た繊維土器が盛んに作られる(→関山式、黒浜式)。 
		遺跡	 耳飾り・勾玉・管玉などの装身具が作られる。立石列(りつせきれつ)環状石籬。貝塚。人口10万5500人。 

	中期	約5000年 - 4000年前 

		環境	 
		生活
		住居	 集落の規模が大きくなる。植林農法の種類もドングリより食べやすいクリに変わり大規模化する。 
		石器	 海岸線ほぼ現在に近くなる。大型貝塚形成。 
		土器	 石棒・土偶などの呪物が盛んに作られる。石柱祭壇。抜歯の風習が始まる。気温低下始める。立体的文様のある
			 大型土器が流行する。 
		遺跡	 貝塚。人口26万1300人。 

	後期	約4000年 - 3000年前

		環境   
		生活
		住居	 大型貝塚。内陸地域にも貝塚が出来ていた。製塩専業集団、塩媒介集団、塩消費集団。伸展葬。交易目的の漁労
			 民発生。 
		石器	 大湯環状列石(ストーンサークル)、東北地方に集中。 
		土器	 村の一角に土器塚が出来る。製塩土器。 
		遺跡	 ウッドサークル(巨大木柱遺跡)。敷石住居址。人口16万300人。 

	晩期	約3000年 - 2300年前
 
		環境	 気温2度前後低下。海面も低下。漁労活動壊滅的打撃受ける。 
		生活
		住居	 木製の太刀。頭部外科手術か?漁労の網。東北の太平洋側に銛漁開花。 
		石器	 北九州・近畿でも縄文水田。 
		土器	 夜臼式土器。 
		遺跡	 貝塚。人口7万5800人。 



ここは「金生遺跡」の部屋である。



邪馬台国大研究/  博物館めぐり / 山梨県北杜市考古資料館