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羽咋市歴史民俗資料館
2006.5.25















1F・民俗資料


























2F・考古資料


	石川県羽咋市(はくいし)は能登半島の根元西側に位置している。市域は標高50〜120mの低い平らな眉丈山丘陵が
	西から北東に延び、南東部には市内最高峰である標高460mの碁石ケ峰を有する石動山丘陵が連なる。
	これらの丘陵に挟まれるように七尾から羽咋に至る、幅3〜4kmで能登半島を斜めに横断するいわゆる邑知(おおち)
	地溝帯は、能登半島屈指の穀倉地帯である。ここに邑知潟(おおちがた)と呼ばれる湖があり、古代には広大な干潟であ
	ったと思われるが、度重なる干拓によって現在は80ha程の小さな湖となっている。
	羽咋市では旧石器時代の遺跡は発見されていないが、気多(けた)大社僧坊群遺跡からは縄文時代前期前葉の縄文土器が
	出土している。近辺には他にも幾つかの縄文遺跡があるが、今では全て埋め戻されている。弥生時代になると、前述した
	邑知潟の環境もあって、大規模な集落が営まれるようになる。中でも「吉崎・次場(よしざき・すば)遺跡」は弥生時代
	から古墳時代まで営まれていた遺跡として有名である。













吉崎・次場遺跡


	「吉崎・次場(すば)遺跡」
	この遺跡の発見は古く、昭和27年(1952)に羽咋川の河川改修工事中に出土した数々の遺物が話題になったことに始まる。
	地元の羽咋高校地歴班が分布調査を行い、昭和31年には同班と石川考古学研究会による本格的な発掘調査が実施されてい
	る。その後十数次にわたる調査の結果、弥生時代全般を通じての大規模な集落跡である事が確認され、一部は現在史跡公園
	として整備され、復元された竪穴式住居、大型建物、大溝などが羽咋川沿いに出現している。出土遺物としては、打製・磨
	製石器、弥生土器、木器、櫂や舳先など舟の各部位製品、管玉、玉類、籾、クリなど栽培作物、木の実などの弥生人の食生
	活を示す資料、そして日本で初めての青銅鏡も出土している。

	【吉崎・次場遺跡】
	種  別 :  国指定 史跡(弥生時代の拠点集落) 
	面  積 : 10,057u 
	年  代 : 弥生時代 中期〜後期
	所在地  : 吉崎町・次場町他 
	管理者  : 羽咋市 
	指  定 : 昭和58年12月15日




	吉崎・次場遺跡は、羽咋市街地から北東約1kmの羽咋川河畔の微高地(子浦川が造成した自然堤防とみられる。)上に、
	弥生時代中期から古墳前期にかけて形成された大規模な集落跡である。
	約20ヘクタールにも達する広大な遺跡で弥生中期初頭(最下層)、中期中葉(下層)、後期後半(上層)からなり、集落
	が最大規模となるのは上層の段階である。この遺跡から出土した土器は、次場最下層式、次場下層式、次場上層式の三つに
	分類され、北陸地方の弥生時代の編年を組み立てる上で重要な標準遺跡となった。




	数次にわたる発掘調査で、大小の溝状遺構や平地式建物跡、掘立柱建物跡、溝、土壙墓群、配石遺構、井戸跡と倉庫とみら
	れる小規模な掘立柱建物跡が検出されている。しかし、現時点では竪穴式住居跡とすべき確実な遺構は発見されていない。
	各遺構は、豊富な内容と良好な状態を保っていた。一部には平安時代集落も複合している。各期の多量の出土土器は、北陸
	の弥生土器編年上、きわめて重要な内容をもっている。
	出土物は、弥生時代中期・後期の土器を中心に、各種石製品、木製品(農耕具、木織具、建築部材など)、小型製鏡、自然
	遺物などさまざまな種類にわたっている。木器には鉄斧着装用の柄や鍬・エブリ・庖丁形木製品などの農具があり、石器に
	は石斧やアメリカ型を含む石鏃、環石、有樋式磨製石剣(断片)、未成品を含む玉類などがあった。とくに注目されるのは
	ほう製小型内行花文鏡1面と懸垂用とみられる四鏡片の出土である。




	吉崎・次場遺跡は、能登半島における代表的な遺跡であることはいうまでもなく、出土土器の様相は近畿地方に発達した櫛
	描文土器や東北地方、山陰地方の土器の影響が認められ、他地域との交流があったことを示しており、北陸地方の弥生時代
	全期間を通観できる数少ない集落跡である。

	【以上、参考文献】
	・石川県立埋蔵文化財センター『吉崎・次場遺跡T・U』1987・88年
	・羽咋市教育委員会『吉崎・次場遺跡 第16次・17次発掘調査報告書1998・2000』

















































寺家遺跡


	ここは1978年3月、能登海浜道路建設工事に伴って発見された。まず大量の土器が発見され、その後3年にわたる調
	査で、内列砂丘上に営まれた縄文前期から室町時代にかけての大規模な複合遺跡であることが判明した。特に飛鳥時代か
	ら室町時代にかけて、近くの気多大社との関係を示す祭祀行為が行われていたと思われる勾玉・管玉、金環などが出土し
	ている。他にも、奈良・平安時代の竪穴式建物・掘立柱式建物・大型建物群・小鍛冶(かじ)工房などの遺構、三彩小壷・
	海獣葡萄鏡(かいじゅうぶとうきょう)・素文鏡・銅鈴などの祭祀遺物や、鉄滓(てっさい)・製塩土器・ガラス坩堝(るつ
	ぼ)などの生産遺物、「舘」「部」「大」「宮厨」や「司館」と墨書された土器や牛・馬の歯等々が出土している。
	現在遺跡は自動車専用道路と一般道路、民家や工場等の下になり、付近には小さな看板が一つ、草に埋もれて立っている
	だけの場所となり、ここに古代集落がひしめいていた事など想像もできない有様だが、発見当時はその遺物の豊富さや祭
	祀行為の存在などで、一時「渚の正倉院」とも呼ばれた、古代史上特筆すべき遺跡なのである。大陸との交流や気多(け
	た)大社との関連性もうかがうことができる。
	ちなみに「海の正倉院」と呼ばれるのは福岡県の「沖の島」であり、「地下の正倉院」は奈良の「千塚古墳群」である。

	種 別 重要遺跡 
	年 代 縄文前期〜中世 
	所在地 石川県羽咋市寺家町、柳田町








	寺家遺跡の硝子破片は乳白色で突起を持ち、ペルシャ産ではないかといわれる。シルクロードを通り奈良を経て伝わった
	という見方もあるが、渤海使によって日本海国際ロードを通って、直接能登半島に伝来したと考える見方もある。








	砂丘は、風の力で常に動いている。羽咋市の渚ドライブウェイは、海岸すれすれを走る自動車道路として有名だが、千里
	浜(ちりはま)ドライブウェイと呼ばれるこの砂浜海岸は、現在(2006.6)年間1mも後退しているため、羽咋市・石川
	県では毎年大量の砂を投入し続けている。寺家遺跡は、平安時代終わり頃に半分以上が砂に埋まり、室町時代には完全に
	砂丘になっていた。ここは羽咋砂丘の下に埋もれた遺跡なのである。広さは、約25ヘクタールあり、奈良時代〜室町時
	代の、気多神社の祭祀との関係が深い遺跡であるといわれている。






	古代の気多神社には、神戸と呼ばれた人々が住んでいた。彼らの住まいは、奈良時代中頃に竪穴住居から掘立柱建物にな
	った。たたりや火災を防ぐ祈りのために、馬の下アゴが竪穴住居のカマドに埋められていた。9世紀前半の大型掘立柱建
	物が、遺跡の中央で発掘されている。「司館」と墨書された土器が出土しており、宮司の館と思われる。
	また海岸までの谷間に、大型建物の跡も発見されている。9世紀前半の大型建物で、宮司の館の南にある。柱穴には、海
	獣葡萄鏡が埋められていた。神社の建築の可能性もある。一辺が150cmの外側の井戸枠の中に、一辺が80cmの内
	側井戸枠が組まれていた大きな井戸も発見され、同じく9世紀前半に使われた井戸と考えられる。






	これまでの調査で、31軒棟の竪穴住居跡と40棟の掘建柱建物跡を検出している。神に供える食事を調理した炉や、儀
	式に使ったと思われる器具を埋めた穴なども検出された。9世紀後半のある時期、儀式に使った器具を一箇所にまとめた
	ようである。多くの土器と共に、小型の銅鏡や鉄刀が出土している。また火を使った儀式の跡もあり、神への祈りには、
	火が使われたようである。たき火の跡が、多く見つかっている。火で焼けた上を、粘土で覆っている所もあった。これら
	は古代の祭祀行為の存在を証明した遺物であり、すぐ側の気多神社との関連が注目され、古代祭祀遺跡として注目を集め
	た。古代・気多神社の、主要な施設が砂丘に埋もれていたのである。




	寺家遺跡から出土した海獣葡萄鏡は、能登半島先端輪島市にある重蔵神社に所蔵されている、舳倉島出土の海獣葡萄鏡と
	同笵と見られている。重蔵神社・七ツ島・舳倉島の奥津媛神社は、北九州の宗像三神の辺津宮・中津宮・沖津宮と同形と
	みられ、沖の島が対岸からの神との窓口であり、海の神々に対する祭祀の島だったたように、おそらく奥津媛神社も同様
	の機能を持っていたものと思われる。










	気多(けた)大社
	創建2千年とも伝わり、大国主命を祀る能登國一の宮で、もとの国幣大社。社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に
	入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる。崇神天皇のときに社殿が造営されたという。
	奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、文献に初めてその名が出現するのは『万葉集』である。『万葉集』
	に越中国司として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っている。天平20年(748)、越中守大伴家持が出挙のため能
	登を巡行したとき、気多本社に参詣して、「之乎路から 直超え来れば羽咋の海 朝凪ぎしたり 船楫もがも」と詠んだ。





	【気多(けた)大社】
	式内社 能登國羽咋郡 気多神社 能登國一宮 旧國幣大社

	祭神 : 大己貴命(大国主命)、事代主命(若宮社)、菊理姫命(白山社)、天活玉命
	縁起 : 『気多祭儀録』『神祇正宗』『神社啓蒙』『諸社一覧』




	神門や拝殿、摂社など重要文化財指定の建物が点在しているほか、背後に広がる常緑広葉樹林の社叢「入らずの森」は、
	古くから神域として保護されており、建保5年(1217)には将軍源実朝が公田として11町余を寄進したほか、中世には
	能登の守護畠山氏から手厚い保護を受けた。今も遺る摂社若宮神社(国指定重要文化財)は畠山氏の再建で、社領の寄進、
	社殿の造営などが見られる。中世末期には、980俵と56貫余の社領を有していた。
	近世には、前田利家をはじめ歴代の藩主が崇敬し、社領350石を寄進したほか、しばしば社殿の造営をした。本殿、拝
	殿、神門、摂社白山神社(以上国指定重要文化財)、神庫、随身門(ともに県指定文化財)がそれである。加賀藩の保護
	した社叢(国指定天然記念物)には奥宮が鎮座し、「入らずの森」と呼ばれる聖域となっている。明治4年(1871)に国
	幣中社、大正4年(1971)には国幣大社となり、第二次世界大戦後は神社本庁の被包括宗教法人となり、別表神社に指定
	されていたが、平成16年(2005)神社本庁との包括関係を解消し、単立神社となった。現在も北陸道屈指の大社として
	知られる。昭和五十八年には昭和天皇の行幸があった。近年、南方800mの地で発見された寺家遺跡は、縄文前期から
	中世にわたる大規模な集落遺跡で、祭祀関係の出土品や遺構類は気多大社とのかかわりあいを示唆しており、その成立研
	究の有力な資料となっている。 






	気多大社は羽咋駅から北へ約3Km、寺家町にある。南面する鳥居から参道が北へのび、神門内に社殿。本殿左右に若宮
	神社と白山神社がある。本殿後方は、「入らずの森」と呼ばれる1万坪の社叢で、国指定天然記念物であり、一般の立ち
	入りは禁止されている。その「入らずの森」に奥宮が鎮座し、素盞嗚尊と奇稲田姫命が祀られている。また、この森には
	三基の円墳があると伝わる。
	縁起によれば、人王八代孝元天皇の御世、越中北島の魔王が鳥に化して人民を害し、鹿島路湖水には大蛇が出現して人民
	を苦しめていた。この時、大己貴尊が出雲より来臨し、化鳥と大蛇を退治してこの地に留まったという。
	「気多祭儀録」によれば、10代崇神天皇の頃の創建という。伝承では、七尾市所口にある能登生國玉比古神社が、気多
	大社の本宮と云われ、上世の昔、大己貴尊が出雲より因幡の気多崎に至り、そこから当国へ渡って平定し、その後所口に
	鎮祭、孝元天皇の頃に宮社を建立した。崇神天皇の頃、気多大社に鎮祭されたとある。
 



	『延喜式』では名神大社に列し、能登国一宮とされた。「神名帳」によれば、気多神社と称するものが但島、能登、越中、
	越後(居多神社と称する)にあるほか、加賀には気多御子神社があり、国史見在社として越前に気多神社がある。してみ
	ると、古代、気多の神は日本海沿岸でひろく祀られていた神である事がわかる。古代における大国主命の神威がしのばれ、
	ここでも史実と文献の一致の可能性をみることができる。文献によればすなわち、出雲の大国主命の事績は広く越(新潟)
	の國から山口県にわたっているし、こういう神社の存在は、それがある程度史実の核を含んでいたのではないかという気
	になる。






	ここには今でも「おいで祭り」という祭りがある。石川県七尾市の所口にある「気多本宮」へ渡御する大規模な神幸祭で、
	現在は3月18日から23日まで、神輿の長い行列が羽咋・鹿島郡内の2市5町を回る。沿道には人々が集まり、神幸を
	迎える。この祭りで注意をひくのは、往路の21日、鹿西町金丸の宿那彦神像石神社に1泊し、翌日同社の「少彦名命」
	が神輿に同座して七尾の気多本宮に赴き、1泊して祭典を営んでから帰途につくことである。気多神社の大国主神が少彦
	名命とともに能登を平定した往時をしのぶ行事だといわれている。
	大国主神と少彦名命の地方行脚は日本書紀に記述されており、各地で治水や土木工事のような事を行っているのだ。その
	足跡が今でも祭りとしてここ取りおこなわれているのである。まったくも興味歴史深い。気多神社は能登国一宮で、早く
	から武将・領家・地方民の信仰が篤かった神社である。従って往古より多くの史料があったものと思われるが、火災その
	他の厄難に遭い失われたものがすこぶる多いという。またここには、ほかではあまり例を見ない、神秘的な深夜の鵜祭り
	というものもあり、その由来は明らかでないが、ここがただの神社ではない事を強く示唆している。
 














































郷土の偉人

























羽咋市はUFOの町だそうである。そのせいでこの博物館が在るのだろうが、古代と宇宙の取り合わせもなかなか面白い。


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