■新宿区立新宿歴史博物館 ●開館 9時30分〜17時30分 (入館は17時迄) ●料金 300円(総額)、小中学生100円(総額) ●休館 月曜(祝日の時は翌日)、12/29〜1/3、臨時休館 ●住所 〒160-0008 新宿区三栄町22 03-3359-2131 ●交通 営団地下鉄丸の内線四谷三丁目駅から徒歩8分、JR中央線・営団地下鉄南北線 四谷駅から徒歩10分、 都営地下鉄新宿線 曙橋駅から徒歩8分
-------------------------------------------------------------------------------- 新宿という区名の由来は、江戸に幕府が開かれた慶長8年(1603)の翌年に、日本橋を起点として五街道が定められた。 東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道で、各街道にはそれぞれ一定数の宿が置かれ、宿は伝馬を提供する義 務が課せられていた。甲州街道は日本橋から甲府に至る幹線で、甲府から中山道の下諏訪まで連絡していた。甲州街道 は、日本橋から最初の宿場高井戸までの距離が長く、旅人が難儀していた。そこで、名主・高松喜六らの願いにより、 その中間にあたる地に宿場の設置が認められた。この宿場は、当時の信濃国高遠藩主であった内藤氏の中屋敷うを返上 させ、その屋敷地に置かれたことと、新しい宿の意味から「内藤新宿」と呼ばれ、新宿の地名の起こりとなった。この 中屋敷跡が現在の新宿御苑であり、御苑のある地名も「内藤町」となっている。 -------------------------------------------------------------------------------- <区の歴史> 昭和22年3月15日、旧四谷・牛込・淀橋の3区が統合し、新宿区として発足したが、この名称は歴史的な由来の ほか、新宿御苑や新宿駅が全国的にも有名であり、普遍的であるとして採用されたもの。 【四谷】 もとは武蔵野の荒野で、現在の四谷四丁目交差点の辺りは左右とも谷でやぶが深く、一筋の道があるだけだった。そし て、旅人の休む4軒の茶屋があり、この四つの茶屋が転じて四谷の地名が起こったといわれている。 【牛込】 「込」は多く集まるという意味があり、大昔、この地一帯にたくさんの牛が放牧されていたので、この名が起きたとい われている。上野国(こうづけ・現在の群馬県)の大胡(おおご)氏が移ってこの地に住み、約400年前の天文24 年(1555)、牛込氏を名のった。牛込氏は小田原の北条氏に属し、牛込から日比谷辺りまでを領有し、その居城は袋町 一帯の高台にあった。牛込氏の墓は現在も宗参寺(弁天町1)にある。 【淀橋】 成子村と中野村の間を流れる神田川にかかっている橋を餘戸、あるいは四所橋と呼び、これから転じたものか、また、 寛永年間3代将軍家光が橋のそばで休息したおり、川の流れがよどんで見えるから淀橋にせよといったとか、さらに亨 保年間8代将軍吉宗が山城国(現在の京都)淀にその景色が似ているので名づけたとか、そのほかいろいろの説があり、 いずれも橋の名からその地名が生まれたようである。 -------------------------------------------------------------------------------- (新宿区ホームページより抜粋・転載)
<新宿> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 <宿場開設以前> この地と内藤氏とのつながりは、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされ、徳川家康が江戸に入府する直前の 1590年(天正 18年)7月にさかのぼる。三河時代より徳川家康の小姓として仕えていた内藤清成は、家康の入府に先立ち後北条氏残党 に対する警備のため、鉄砲隊を率いて甲州街道(国府道)と鎌倉街道が交差していた現在の新宿2丁目付近に陣を敷いた。 この功が認められ、清成は付近一帯を拝領し中屋敷(上屋敷は神田小川町、下屋敷は下渋谷にあったという)を構えた。 なお、清成が率いていた鉄砲隊は、1602年に伊賀組鉄砲百人組(鉄砲百人組頭)として大久保に配置され、百人町の名の もととなっている。 この拝領に際しては、家康が「馬が一息で駆け巡るだけの範囲を与える」と伝えたため、清成は馬に乗り榎の大木を中心 に東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保におよぶ範囲を駆け、その馬はついに倒れて、まもなく死んでしま ったというエピソードがある。 <宿場開設後> 内藤新宿の復元模型。手前の道の分岐が新宿追分1698年(元禄11年)甲州街道における新たな宿場の必要性や、行楽地づ くりを念頭に、当時の浅草安倍川町の名主であった喜兵衛ら同志4人が5600両の上納とともに宿場開設を願い出て、翌年、 内藤家の中屋敷の敷地を一部利用して宿場が開設される。宿場開設を申し出た喜兵衛は高松喜六と名乗り、高松家は代々 新宿の名主を務めていく。 この新宿は、玉川上水の水番所が置かれていた四谷大木戸から西、現在の新宿駅付近までの街道沿いに広がっていた。 なお、新宿には青梅街道と甲州街道の分岐点である追分(新宿追分・現在の新宿三丁目交差点付近)があり、現在でも地 名などに残っている。 その後内藤新宿は、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)と併せて四宿(ししゅく)と呼ばれ、 江戸の新たな行楽地としても発展し、岡場所(非公認の売春宿)などが繁盛して、「四谷新宿馬の糞の中であやめ咲くと はしほらしい」(馬の糞は活発な馬の往来、あやめは飯盛女・遊女を意味する)と狂歌に詠われている。これらが災いし、 1718年(享保3年)に風紀上の理由から一時廃駅の憂い目にあうも、1772年(明和9年)には復活している。歓楽街として の新宿の原型は、この時代に既にあったといえるだろう。 大宗寺は、このころ江戸六地蔵のひとつに数えられ、また、遊女などの投げ込み寺でもあった。 <明治以後> 江戸時代の岡場所は、明治以降は遊郭となり、1958年の売春防止法施行まで続いた。また、1887年に日本鉄道品川線新宿 駅が宿場のはずれ角筈(つのはず)に作られる。その後、大正期には新宿は西へと広がった東京市街地の交通が集中する ようになり、新宿伊勢丹や中村屋のカリー、高野商店の果物(フルーツパーラー)といった名物をはじめ、映画館、カフ ェー、劇場などが集中しひとびとで賑わうようになる。 太平洋戦争によって、一時的に焼け野原となり、戦後間もない頃には外国人やヤクザ、引揚者などによる土地の不法占拠 などが行われ闇市が建ち並んだ時期もあったが、現在では、日本でも有数の繁華街であるほか、東京における観光スポッ トの五本の指に入る場所でもある。
江戸時代、このあたりは大きな窪地で、小川が流れていた。低地には水田が開け、その西の高台には、江戸幕府の武士の 住まいがあった。 1590年、徳川家康の江戸入城前に、家臣の内藤清成は、伊賀組鉄砲隊をつれて新宿にきた。甲州街道と旧鎌倉街道と がぶつかるところ(今の新宿伊勢丹のあたり)にとどまり警護に当たった。1602年、この鉄炮組百人組は今の大久保、百 人町あたりに移されて住み着くことになった。鉄砲打ち場も作られて、武士たちは、そこで鉄砲打ちの練習をしていた。 百人町という地名はその名残である。
内藤新宿は、現在の四谷大木戸門から伊勢丹あたりで、当時の道幅は約10メートル。大通り全体を四谷大木戸から下町、 中町、上町と順に区分して、道の両側に旅籠、人馬の手配をする問屋、茶屋、蹄鉄屋、わらじその他の旅装をととのえる 町屋などを並べている。大店ほど四谷寄りに位置を占め、当時の店の経営者たちは、一軒でも四谷大木戸寄りに店を移す ことを生涯の望みにしたという。これは、当時の新宿の繁栄が、あくまでも江戸寄りを中心に営まれていたことを物語っ ている。 宿場町であり場末の歓楽街であった新宿の発展の過程をみていくと、はじめに公許されて約20年間続いた新宿の旅籠の数 は、その廃止時期に30軒たらずとなっている。これが、再開時に38軒、27年後の寛政11年には52軒となり、幕末に至るま で漸増している。この他、旅人、遊客相手の茶屋がほぼ同数の割合かそれを上回る割合で増加しているから、1800年代の 内藤新宿の大通り筋は、すでにこれらの店によってほぼ軒を埋められていたと推定される。 名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿 歌川広重(初代)画 魚屋栄吉板 安政4年(1857年) 新宿歴史博物館蔵 江戸名所道外尽四十九 内藤志ん宿 歌川広景画 辻岡屋文助板 文久元年(1861年) 新宿歴史博物館蔵 とくに注目されるのは、旅泊設備を持たず、遊興性に重点を置いた茶屋が他の宿場町より割合の多いことである。これは ちょうど昭和時代に入って、カフェやサロン、キャバレーといった中産階級向けの遊興施設が、他のどの盛り場より新宿 に多く見られるようになるのと同じ性格を示している。 また、江戸という大消費地をひかえた新宿近郊の農村地帯が、都市近郊型の農業経営に早くから切り替わっていたという ことも見逃せない。武蔵野台地はもともと畑作に適した面をもち、畑の作物は江戸の日常必需品として換金性が高いこと から、この地域の農民たちは、他の地域とくらべて現金収入の多い層であり、その現金が江戸市内に作物を持って行った 帰りに新宿の歓楽街に落とされたという関係がみられる。
新宿育ち(生まれも?)のコマツさんは、しきりにこのあたりで遊んでいたことを力説するが、勿論もうコマツさんが 遊んだ場所の面影は無い。日本で一番変貌した都市が東京なのだ。