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太宰府天満宮・宝物殿
2008.7.22 福岡県太宰府市












	菅原道真(すがわらみちざね・845〜903年)は、学問に秀でた菅原一門の血をひく平安前期の学者政治家で、宇多・醍醐両天皇
	の信任厚く、文章博士・蔵人頭などを歴任、右大臣となったが、901年藤原時平のざん訴により大宰権帥に左遷され、翌々年
	配所で亡くなった。菅原道真は生前、謹厳にして至誠、死後は学問の神様、天神様として、全国各地に祀られ、広く民衆に信仰
	されるようになった。菅原道真の墓の上に建てられたのが太宰府天満宮で、現在の本殿(重要文化財)は天正19年(1591)の
	再建。

 


	宝物殿の入り口を入るとすぐ右手に、我が敬愛する青沼茜雲先生の「天空を行く磐井」の絵が飾ってある。

	菅原道真公(菅公)の神霊を御奉祀する神社・太宰府天満宮内に位置するこの宝物殿は、昭和3年に開館、という古い歴史を持つ。
	菅公の御真筆、御佩刀、国宝「翰苑[かんえん]」を始め、重要文化財の毛抜形太刀、古文書、工芸品、菅公が愛でた梅を描いた
	日本画など約5万点の宝物を収蔵・展示している。また、太宰府天満宮にゆかりの深い文化財や史料も展示されている。大型マ
	ルチビジョンでは、菅原道真の生涯や太宰府の歴史を紹介したビデオを上映している。



 











 















	菅原道真	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	菅原道真(すがわらのみちざね、みちまさ、どうしん、正字体では菅原道眞、承和12年6月25日(845年8月1日)- 延喜3年2月25日
	(903年3月31日))は日本の平安時代の学者、漢詩人、政治家である。特に漢詩に優れた。33歳のときに文章博士に任じられる。
	宇多天皇に重用され右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴され、大宰府へ権帥として左遷されそこで没し、為に、
	朝廷に祟りをなし天神として祀られる。現在は学問の神として親しまれる。

	父は菅原是善(これよし)、母は伴(とも)氏(名は不詳)。菅原氏は、道真の曾祖父菅原古人(ふるひと)のとき土師(はじ)
	氏より氏を改めたもの。祖父菅原清公(きよとも)と父はともに文章博士(もんじょうはかせ)を務めた学者の家系であり、当時
	は中流の公家であった。母方の伴氏は、大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出している(古代の大伴氏が淳和天皇の避諱で改名
	した)。
	正室は島田宣来子(島田忠臣の娘)。子は長男・菅原高視や五男・菅原淳茂(父の没後に文章博士)をはじめ男女多数。子孫もま
	た学者の家として長く続いた。高視の曾孫・道真五世の孫が孝標で、その娘菅原孝標女(『更級日記』の作者)は道真の六世の孫
	に当たる。 道真は学問だけでなく、武芸にも優れ、若い頃都良香亭で矢を百発百中射ったという伝承もある。しかし、この伝承
	については疑わしい点が多いとも言われる。

	道真の子孫の地域として岡山県勝央町が例で、高視を含め7代知頼が従五位備中美作守 として赴任。菅家之組となり、その子、眞
	兼が美作押領使として定着。眞兼の後3代目が、菅家7流の祖と言われる現在の姓で有元・広戸・福光・植月・原田・高取・江見と
	なる。太平記では山名氏と赤松方として争い、また隠岐島から脱出した後醍醐天皇と共に菅家党として、元徳2年(1330年)4月3日、
	京都猪熊合戦で武田ら鎌倉幕府の六波羅軍と戦った。その時に戦死した高取種佐は、大正8年(1919年)11月、勤皇の功績で正五位
	を贈られた。菅一族は他文献にも散見する。いわゆる国人衆として在地に地盤を築き上げていった。有名な子孫として、柳生宗厳、
	前田利家、大隈重信、菅直人、松平定知などがいるといわれるが、著名であるがゆえに仮冒が多い点にも留意すべきである。

	喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、
	菅原院天満宮(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説もあるため、本当のところは定かではない。



	
	道真は幼少より詩歌に才を見せ、貞観4年(862年)、18歳で文章生となった。貞観9年(867年)には文章生のうち二名が選ばれる
	文章得業生となり、正六位下に叙せられ、下野権少掾となる。貞観12年(870年)、方略試に中の上で合格し、規定によれば3階位
	を進めるべきところ、それでは五位に達してしまうというので1階のみ増して正六位上に叙せられた。翌年には玄蕃助、さらに少内
	記に遷任。貞観16年(874年)には従五位下となり兵部少輔、ついで民部少輔に任ぜられた。元慶元年(877年)、式部少輔に任ぜ
	られた。同年家の職である文章博士を兼任する。元慶3年(879年)、従五位上に叙せられる。仁和2年(886年)、讃岐守を拝任、
	式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。仁和4年(888年)、阿衡事件に際して、藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、
	事件を収める。寛平2年(890年)、任地讃岐国より帰京した。

	これまでは家の格に応じた職についていた道真は、宇多天皇の信任を受け、以後要職を歴任することとなる。皇室の外戚として権
	勢を振るいつつあった藤原氏に当時有力者がいないこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。寛平3年(891年)、
	蔵人頭に補任。ついで式部少輔と左中弁を兼務。翌年、従四位下に叙せられ、左京大夫を兼任。さらに翌年には参議式部大輔に補
	任。左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任。寛平6年(894年)、遣唐大使に任ぜられるが、道真の建議により遣唐使は停止された
	(延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史にここで幕を下ろすこととなった)。寛平7年(895年)には従三位権中納
	言に叙任。春宮権大夫を兼任。長女衍子を宇多天皇の女御とした。翌年、民部卿を兼任。寛平9年(897年)には娘を宇多天皇の子
	・斉世親王の妻とした。同年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と
	道真にのみ官奏執奏の特権(いわゆる「内覧」)を許した。正三位権大納言に叙任し、右近衛大将・中宮大夫を兼任する。またこ
	の年には宇多天皇の元で太政官を統率し、道真とも親交があった右大臣源能有(文徳天皇の皇子・宇多天皇の従兄弟)が没してい
	る。
	醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴
	族の反発が表面化するようになった。また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政
	治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。昌泰2年(899年)、右大臣に昇進し右大将を兼任。翌年、三善清行は道
	真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。延喜元年(901年)、従二位に叙せられたが、斉世
	親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される。宇多上皇はこれ
	を聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。長男高視を初め、子供4人が流刑に処された。
	(昌泰の変)。



	
	道真は延喜3年(903年)、大宰府で没し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)
	吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛ん
	できたという「飛び梅伝説」も有名である。

	今や学問の神様だが当時の普通の貴族であり、妾もいれば、遊女遊びもしている。とりわけ、在原業平とは親交が深く、当時遊女
	(あそびめ)らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れている。道真は胃弱だったようであり、胃の痛みを和らげるためいつもお
	腹の上に暖めた石(温石)を乗せていたことが文献に記されている。
	大阪市東淀川区にある「淡路」「菅原」の地名は、道真が大宰府に左遷される際、当時淀川下流の中洲だったこの地を淡路島と勘
	違いして上陸したという故事にちなんだ地名である。












	住 所		〒818-0195 福岡県太宰府市宰府4-7-1  
	TEL		092-922-8225 
	開館時間 	宝物殿(文化研究所):9:00〜16:30(入館は16:00まで)菅公歴史館:9:00〜16:30(入館は16:00まで) 
	観覧料金		宝物殿(文化研究所):一般 300(200)円、高・大生 200(100)円、小・中生 100(50)円 
			菅公歴史館:一般200(150)円、高・大生150(75)円、小・中生100(50)円※( )内は30名以上の団体料金 
	休館日		宝物殿(文化研究所):月曜日(休日の場合はその翌日)菅公歴史館:火曜日(宝物殿が休館の場合はその翌日) 
	アクセス		●JR「二日市」駅から車で15分●西鉄「大宰府」駅から徒歩5分●福岡市内から車で40分●福岡空港から車で30分 
	その他の施設	ミュージアムショップあり 





浦ノ田遺跡




久々に太宰府へ来たので、もう4,5回は来たが、また九州国立博物館に寄ってみることにした。





	博物館へのエスカレ−ターを登り切って、入り口前の新しく整備された庭園を眺めていると、一角になにやら増築したような石の
	囲いが見えた。「なんじゃ、ありゃ。もしかして何かの遺跡かも。」と思って近づいた。



	浦ノ田遺跡		中世(14〜15世紀)の火葬墓群
 
	太宰府天満宮の東側の谷から国立博物館にかけての一帯は、小字が浦ノ田といい、古代から中世の遺跡が見つかっています。特に、
	第4次調査では、太宰府天満宮に西面する斜面から中世の火葬墳墓群が出土しました。浦ノ田遺跡の発掘調査では、太宰府天満宮
	の丘陵斜面に鎌倉時代から室町時代にかけて(13〜14世紀)の五輪塔・板碑などの石塔群と、それらに伴って火葬墓が多数出土し
	ました。特に注目すべきは、火葬墓に火葬骨を納めるために用いられた蔵骨器の中に、古瀬戸や青銅製の筒形容器などがあり、非
	常に特徴的です。
	 文化3年(1806年)に描かれたとされています『太宰府旧蹟全図 北』には、太宰府天満宮の東南側に位置する丘陵部に「古ハカ
	(古墓)ヲヲシ」という記載が見られ、この付近に古墓が分布することは比較的古くからある程度認識されていたと考えられます。
	太宰府天満宮の本殿を正面に望むこの火葬墓群は、安楽寺(現在の太宰府天満宮)深く関わった人たちの奥津城であったのかもし
	れません。(福岡県教育委員会『浦ノ田遺跡W』より) 



	
 	九州国立博物館の建設にあたって、アクセス道路建設時に発掘されたもので、出土したものから鎌倉後半〜室町初期の大規模な墓
	と考えられる。一部の石塔などが、ここに移築復元されている。



 



	
	古瀬戸・瓦器・青銅製容器を用いた蔵骨器等の他、周辺からは多くの土師器や銅銭なども出土している。安楽寺(現在の太宰府天
	満宮)を眼下に見据える遺跡の立地(太宰府天満宮の東側にあたる丘陵の西側斜面)から考えて、寺に深く関わった人々の墓所と
	考えられている。





邪馬台国大研究 /博物館めぐり/ 太宰府天満宮