平成17年秋(2005年10月16日)、歴史博物館としてはわが国で4番目の国立博物館が九州にオープンした。新しい国 立博物館の開館は、な、なんと100年ぶりというから驚く。歴史的な位置づけから言うと、ほんとは一番にできてて もいい土地である。古来よりアジア諸地域との交流の窓口であった九州、古代日本の外交・軍事の重要拠点とされてき た大宰府の地に、やっと国立の博物館ができた。やや遅きに失した感もあるが、これでやっと「日本文化の形成をアジ ア史的観点から捉える」という岡倉天心の夢が実ったのである。
11月5日に甥っ子が博多で結婚式をあげた。式は午後の三時からだったので、前夜に飛行機で博多へ来て、朝からこ の博物館を訪ねていった。九州初の国立博物館というので、開館以来驚異的な見学者数だそうだ。「初物」という特殊 事情を差し引いたとしても、博物館という地味な場所がこれだけの観客を動員できた要因を、他の博物館ももっと真剣 に考えたほうが良い。畢竟、博物館は来てもらってナンボ、見てもらってナンボである。その上で、考えてもらえば、 もう博物館の使命はほぼ達成されたと言っても良いのだ。
「美の国」展入場44万人 九州国博で閉幕 入館者は62万人超 九州国立博物館(福岡県太宰府市)の開館記念特別展「美の国 日本」(西日本新聞社など主催)が27日、閉幕した。 九州初公開の正倉院宝物をはじめ国内外の貴重な文化財の展示が人気を集め、開幕から43日間の入場者数は44万1 938人(速報値)を記録した。 九州国博は10月15日に開館。同16日の一般公開と同時に開幕した「美の国 日本」の入場者はうなぎ登りに増え、 最終日も開館前から大勢の人が詰め掛けた。27日の入場者数は1日だけで約1万9000人を数え、館外に一時は約 500メートルの行列ができて1時間待ちの状態となった。 常設展などを含む九州国博全体の入館者数は同日までに延べ62万8255人(速報値)。当初見込みの「開館半年で 17万人」を大きく上回っている。(西日本新聞) - 11月28日2時9分更新
新聞記事によれば、西高辻さんの曾祖父は岡倉天心よりも早く、「九州に博物館を」と提唱していたらしい。「私の代 でかなうとは。」と西高辻さん。「思いを受け継ぐのも宮司のつとめですから。」(asahi.com)
太宰府は、今から1300年の昔、九州をはじめとする西国の統治のために福岡に置かれたいにしえの「政庁」である。 太宰府天満宮は藤原道真を祀っているが、これは道真の死後、その学業の誉れを讃えるため近所に建てられた神社で、 現在の太宰府天満宮」の位置にかっての「政庁」があったわけではない。地図を見て貰えばわかるが、かっての「太宰 府」の跡は、現在「都府楼跡」と呼ばれる遺跡として残っており、現在も部分的に発掘作業が進行中である。 「歴史は西から始まった。」これは史学界の常識であるが、すくなくとも、大和朝廷が始まって今日(こんにち)の日 本社会の礎(いしずえ)が築かれるもととなった文化と人々が、大陸や半島から九州を経由して近畿地方を経て、やが て東日本にも定着したのは歴史的な事実として確認されている。そういう意味で、この博物館が大宰府に建てられたの は、けだし妥当な選択かもしれない。
上野の国立博物館においてある出土品は、古代史の分野に限れば、その9割以上が関東以外の遺物で、中でも九州地域 の出土品は3割を越しているが、ここでは、美術品、歴史・考古学資料などの重要文化財の展示のほかにも、地域社会 にひらかれた「生きている博物館」を実践するという目的で、実際に各地の文化に触れる参加・体験型の展示エリアも 準備されている。分かりやすいテーマの企画展示やシンポジウムの開催、年初からの営業等の新たな試みにより、「新 しい時代の、新しい博物館!」をスローガンに、これまでの博物館のイメージを払拭した、地域共生型の開かれた博物 館を目指している。
この博物館は、大宰府がその敷地を提供している。本殿の右手にある梅林を抜けたところに博物館へのエントランスがあ る。ここからエスカレーターで丘の上へ登り、さらに「歩く舗道」エスカレーターで博物館の入り口へたどり着くように なっている。ここは太宰府口である。(この他、西と南にも入場口がある。)
入場券売り場の脇に、復元した古代船が置いてある。近寄ってみると、なんとこの前(2005.8.28(日))大阪府高槻市の 今城塚古墳で行われた「千人で運ぶ大王の石棺」というイベントで、石棺を九州から運んできた復元船だった。あの日石 棺を降ろした船は、即、トラックで九州へ戻されたと記事があったが、ここへ持ってきてたんだ。
入場券を買って中へ入ると巨大なホールがあって、中に博多山笠が飾ってあったりする。1階はイベントホールや研修室 売店などで、展示室は3,4階である。特別展は3階で開催され、常設展は4階である。
入り口と奥のエスカレーター脇の、半円形の巨大なガラス窓を構成している桟(さん)には、福岡県の八女杉が用いられ ている。
開館を記念した特別展「美の国 日本」が開催されていたが、特別展は撮影禁止であった。正倉院や、あちこちから借 りてきた宝物でいっぱいだったが、写真がないのでその豪華絢爛さはここにお伝えできない。しかし、北九州の添田さ んからこの博物館のCD写真をいただいたので、一部ここに使用させて貰った。雰囲気が伝われば幸いだ。
開館記念特別展である。テーマが良い。美術品、美術工芸品、この分野の展示会が一番楽しい。しかも、日本的なもの、 東洋的なものに興味を覚える。期待通りのものだった。 ところで、常設展示も含めて撮影は禁止である。4時間余り見て回ったが、見る端から記憶が薄れてくる。撮影が出来 ないので次第に欲求不満も募ってくる。照明が暗い。隠し撮りも出来ないよう、よく配慮されている。撮影禁止を遣っ ているようでは決してリピーターは増えない。 以下の展示品写真は写真集“美の国日本”から転載。西日本新聞社版、2300円。少々高いが、この本、中々良い。 この本の冒頭に次のようにある。この博物館の基本テーマは「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」。言い換 えると「日本文化の成り立ちを日本史の中だけで考えない。アジア諸地域との文化交流の歴史を主題とする」。この様 な視点、切り口でもって博物館を構成する。斬新なアイデアなのだろう。見ていてその意図は伝わってくる。 (北九州市添田さん)
【三種の金印】左:志賀島の金印。57年、後漢・光武帝から奴国王に下賜されたと後漢書にある。「漢の委(倭)の 奴の国王」と読むのが通説になっているが「委奴」を「イト」と読み「伊都国」に比定する説もある。中:1981年、 中国江蘇州で出土した。「漢委奴国王」印とほぼ同時期に同じ工房で製作された兄弟印とされる。この金印の発見で 「漢委奴国王」印の真贋論争に決着がついた。右:1956年発見。BC190、前漢の武帝が.テン国王に下賜した 金印とされる。この3つの金印が福岡博物館にあるのは知っていたが、3つ同時の展示は始めてのようである。 (北九州市添田さん)
【螺鈿鏡】光明皇后が亡き聖武天皇の持ち物を東大寺に納めたときの目録「国家珍宝帳」には18面の鏡が記されてい る。これはその内の1面。現在、奈良国博において正倉院展が催されているが、これと似たものが展示されている。夜 行貝、琥珀、トルコ石などが白銅鏡にはめ込まれている。(北九州市添田さん)
麻布菩薩(正倉院宝物) 麻布2枚に、雲に乗る菩薩が墨で描かれている。輪郭や天衣、雲などに、伸びやかな筆遣いが感じられる。寺の仏堂内 に掛けられたものかもしれない。
南蛮屏風(文化庁) 桃山時代の狩野内膳筆。入港する南蛮船や西洋人の風俗を描く。宣教師や商人、ゾウの姿や南蛮寺の風景が細やかに描 かれている。
【同型の海獣葡萄鏡】左:高松塚古墳、白銅製 右:中国独孤思貞(どっこしてい)墓、青銅製 2つは同型鏡。右の被葬者・独孤思貞の死亡年が698年であることから、高松塚のものは704年に帰国した遣唐使 が持ち帰ったとみる見解がある。また、高松塚古墳の実年代を比定するうえで有力な資料となっている。ところで、白 銅と青銅の違いについてだが、説明員に聞いても説明できなかった。事典を引いてみた。 白銀:錫を20〜25%含む銅合金 青銅:錫を2〜35%含む銅合金、広義には燐青銅など錫以外の金属の銅合金も含む。 (北九州市添田さん)
<独立行政法人 九州国立博物館> ■所在地 〒818ー0118 福岡県太宰府市石坂4ー7ー2 ■交通手段 ・鉄道 西鉄利用 福岡(天神)駅から二日市駅で太宰府線に乗り換え、 太宰府駅下車(20分)、徒歩(10分) ・鉄道 JR利用 博多駅から鹿児島本線で二日市駅下車(15分)、 ・タクシー(15分) ・バス 西鉄バス利用 JR二日市駅から九州国立博物館前停留所下車(20分)徒歩(3分) [1時間に1本(土日祝日は2本)程度運行] ・車 九州自動車道利用 太宰府インター、または筑紫野インターから高雄交差点経由、いずれも約20分。 ・飛行機 福岡空港からタクシー(約30分) ■公開日・開館時間 ・開館時間 9:30〜17:00(入館は16:30まで) ・休館日 月曜日(月曜日が祝日・振替休日の場合は翌日) ■観覧料 一般 420円(210円) 高校生・大学生 130円(70円) ※( )内は20名以上の団体料金 ※特別展は別料金 ■周辺地図
所蔵品ゼロからスタートした博物館である。平成12年頃から集め始めたようだが、現時点でも博物館所蔵品は100件前後の ようである。うち、博物館購入品が50〜60件、文化庁からの管理替えが32件、東京国立博物館からの寄贈国宝3件など である。国宝を持たない博物館などといった汚名を着せられていたらしいが、この東京国立博物館からの寄贈によりその汚名 も返上出来たらしい。 以上とは別に個人からの寄贈品として、金子量重氏からのアジアの民族造形660余点がある。これは“金子量重記念室”と して1室を設け展示されている。 膨大な数の展示品があるものの、詰りは、大部分が借り物なのである。余計なことかもしれないが、これでは展示物を確保す るだけでも学芸員は大変であろう。展示品の中には以前見たもの、写真集やHPで見たものが幾つかある。 (北九州市添田さん) 以上は、北九州市の添田さんからいただいた、この博物館のCDにあった感想文である。そうなのだ。この100年の間に、 中央は九州からあらゆる出土品を東京や京都に持って行ってしまった。そしていま、それを「御下賜」(おかし)のごとく九 州へ返してやっている。全く「天に唾する」とはこの事である。こうなると、九州に博物館を作らなかったのは、その間にあ らゆる文化の証拠品を全部東京に集めてしまおうという企みがあったのではないかと勘ぐってしまう。東京など、500年前 は狐狸の栖(すみか)である。京都の歴史はたかだか1000年余りしかない。しかもそれらはすべて九州に源を発している。 日本の、「すべての文化は西から」というのは、もう否定のしようがないのだ。
九博が開館1カ月半 館長は経済効果語る 2005年12月02日 asahi.com 開館から1カ月半がたった九州国立博物館(九博、太宰府市)は30日、27日までの来館者実数が48万3123人だった と発表した。三輪嘉六館長は盛況ぶりについて「100年間待ち望んでいた開館の実現や、(建設費の寄付など)市民の参加 意識などがあったからだと思う」と述べた。 三輪館長は「九博の一人勝ちではなく、周辺にも経済効果を含めた波及効果があった」と評価。開館半年間の来館目標を約 17万人としていた点については、「過去の博物館の入館者数などを元に設定したが、見込みが甘かった」と話した。 近隣では、休日を中心に慢性的な渋滞が発生。「100%は解決できず、さらに心がけなければならない問題」として、県や 市、筑紫野署などと協議するとした。文化交流展示室では、来館者から動線の設置を求める意見も上がっていたが、案内パン フレットを作って対応するという。