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2012.10.31 奈良市奈良公園








	
	正倉院とは

	奈良時代の官庁や大寺には、税で徴収された米や布などを納める正倉が設けられており、この正倉がいくつも集まった区画が正倉院と
	呼ばれるようになった。しかし、年月とともに東大寺の正倉院内の正倉一棟を除き、他の正倉院はすべてなくなってしまった。現在で
	は、正倉院といえばこの一棟を指す。



	
	正倉院展  出典:ウィキペディア
 
	正倉院宝物は通常時、非公開である。1875年〜1880年、毎年開催された奈良博覧会の一環として、東大寺大仏殿回廊で、一部が一般に
	公開された。1889年〜1940年では、正倉院内の陳列棚を設けて、曝涼(宝物の「虫干し」のことで定期的に行われる)の際に限られた
	人々に拝観を許していた。また、外国の高官のため、特に開封することもあった(例、1922年英国皇太子拝観)。
	戦前の大規模な一般公開は、1940年11月の皇紀2600年記念として東京の帝室博物館で開催された正倉院御物特別展である(約140点)。
	染織品の展覧は、1924年 4月に奈良帝室博物館で大規模な展示があり、更に1932年にも開催された。戦後、1946年に近隣の奈良公園内
	にある奈良国立博物館で「正倉院御物特別拝観」(第1回)として開催され、翌年以降、秋の2ヶ月の曝涼にあわせて開催されるように
	なった。最初は、「正倉院御物展」「正倉院展覧会」といった表記ゆれがあり、現在の「正倉院展」の名称が定着するのは1952年頃か
	らのようだ。正倉院展は奈良で開催されなかった年もあるが、2008年に第60回を迎えた。
 
	管理する宮内庁が整理済みの宝物だけで9000点に上るが、このうち正倉院展で公開される宝物の品目は毎年変更され約70点のみである。
	よって代表的な宝物を見るには複数年の見学が必要になる。学芸員が手作業で点検と陳列を慎重に行うがそれに前後約40日の時間を必
	要とするため、開催期間は約2週間程度と短い。
	毎年多くの見学者を集めているが、観覧者数が特に伸びたのは2001年以降である。2001年から主催機関である奈良国立博物館の独立行
	政法人化を契機に、外部から協力を受ける開催方式となる。最初の4年間は朝日新聞社がその役割を担い、観覧者も前年より5万人ほど
	増加した。しかし、その後は低減し、独法化前と大差のない13〜14万台に戻る。2005年の第57回から協力主体が読売新聞社に移ると、
	読売関係各社を動員し、それまでにない多彩で大規模なメディア展開を実行する。近年の観覧者急増には、正倉院展自体に集中的に言
	及するメディア体制の出現が背景にあると言える。
	つまり、読売新聞が主催になって、朝日に負けじと大キャンペーンを展開したおかげという訳やな。yomiuriの読者も結構おるんや。







	
	<第64回正倉院>

	会 場	:	奈良国立博物館 東新館・西新館
	日 時	:	平成24年10月27日(土)〜11月12日(月)9時〜18時
			※金・土・日曜、11月3日(祝)は19時まで
			※入館は閉館の30分前まで
	休館日	:	会期中無休 
	観覧料金:	一般1000円、高大生700円、小中生400円 (20名以上の団体料金、および前売料金は100円引) 
			オータムレイト一般700円、高大生500円、小中生200円(閉館90分前以降に現地のみで販売する当日券)
	展示宝物:	64件(北倉23件、中倉23件、南倉14件、聖語蔵4件)うち初出陳9件。(第64回に合わせたようである。)
	特別協力:	読売新聞社 奈良国立博物館
	住 所 :	奈良市登大路町50 (奈良公園内)
	交 通 :	近鉄奈良駅下車徒歩約15分  または、JR・近鉄奈良駅から市内循環バス外回り 「氷室神社・国立博物館」下車すぐ
	T E L  :	ハローダイヤル  050-5542-8600 
	H P  :	http://www.narahaku.go.jp/























瑠璃の坏


	瑠璃坏(るりのつき)

	紺色のカップ形ガラス坏で、銀製鍍金の台脚を接着する。アルカリ石灰ガラス製で、コバルトによる発色が鮮やかなガラス坏。表面
	には、同じ素材のガラスで輪が貼り巡らされている。銀製鍍金の台脚は先端が霊獣の頭部に変化した唐草文が毛彫(けぼり)されて
	いる。坏の受け皿部分の蓮弁様金具は明治時代に新しく補われたものだが、本来の受け皿は銀製鍍金のパルメット唐草文を透彫した
	金具で、合わせて出陳される。今回は18年ぶりの公開で、久々の目玉展示といった所か。









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	当時日本にはガラス製造の技術は無かったので、これが渡来のものであることは明らかだ。シルクロードを渡ってきたともてはやされ
	る「瑠璃坏」は、東西文化の技術の粋がつまった宝物で、ガラスの部分には、ササン朝ペルシャやシリアなど、西アジアの一流の技術
	が注がれている。22個の輪飾りがおりなす優しい輝きはいかにして生み出されたのか。以下は現代の匠による瑠璃坏の復元である。



溶けたガラスを棒に巻き、ガラスの蛇を作る。冷めたところでそれを切断し、丸い輪の部品を幾つか用意する。



溶けた輪飾りを、グラス部分に貼り付け、丸く形を整える。



同じようにして、22個全部をつけてゆく。この時が一番失敗が多いそうで、巧く付かないと一からやり直しとなる。



輪飾りとグラスを溶かし込むため、全体をもう一回火に溶かす。熱いうちに整形し、冷ましてバリをとる。





受け金具を取り付ければ、堂々たる瑠璃坏の復元が完成する。一個欲しい。





螺鈿紫檀琵琶


弦は張ってないけど、こっちがホントは表なんだけどね。どこも裏社会の方が煌びやか、か。

	螺鈿紫檀琵琶(らでんしたんのびわ) 

	聖武天皇ゆかりの四弦の琵琶。裏一面に螺鈿(らでん)・玳瑁が施されている。材質は、槽より鹿頚及び転手は紫檀、腹板はヤチダモ
	またはシオジ。槽に螺鈿・琥珀・玳瑁・金箔・黄楊木の装飾。絃門より海老尾は黄楊木。国家珍宝帳記載の楽器。古代ペルシアに起源をも
	つ四絃琵琶は、中国・日本でもひろく愛された楽器である。
















	「螺鈿紫檀琵琶」は、極楽浄土で天女に演奏されている姿が、敦煌の洞窟壁画に残っている。今年は、ほかにもシルクロードゆかりの
	楽器が数点出展されている。当時の日本人が体感した、シルクロード由来の音色である。「女子十二楽房」いいねぇ。










簫はパン・パイプの一種で、秦時代には存在していた。南アジア起源の古い楽器. 幅31.0 cm。







鉄方響の模造品。東京上野の国立博物館。




	「鉄方響」は、つり下げるための方形の穴を空けた、少しずつ大きさと重さを変えた鉄の板をたたいて演奏する楽器。正倉院宝物の
	「鉄方響」も鉄製で、長さ10・4センチ〜14・9センチ、幅4・5センチ〜5・0センチ、厚さ0・4センチ〜0・6センチ。
	大きさは上野にあるものとほぼ同じだが、鉄の成分の違いのせいか、宝物と上野(模造)のものの音程は一致しない。












密陀彩絵箱


	密陀彩絵箱(みつださいえのはこ)中倉	縦30.0 横45.0高 21.4
 
	怪魚の頭と胴を持った鳥と鳳凰とが蓋の上で急旋回し、側面は、忍冬唐草文と怪魚の頭部が規則的に並び、律動感と秩序が並存する。
	床脚にも蕨手状の草文が配される。漆地に膠絵(にかわえ)を描いた上に、油をひいたもの。この密陀彩絵箱は、丁香(ちょうこう)など
	をいれた箱で、空想上の動物である鳳凰とパルメット唐草(忍冬唐草)が躍動的に描かれている。8世紀。






	この文様もシルクロードをわたってきた。文様のオリジナルは、紀元前から存在するペルシアの都「エフェソス」に建っていた神殿に
	あるとされている。









目が回りそうな図案である。周囲で渦を巻く唐草模様が、翼を広げた鳥たちの躍動感、スピード感を、一層際立たせている。




	正倉院の宝物は、基本的には聖武天皇・皇后光明子が愛用していたものが大半であるが、中には法要会などの祭事に際して、皇族
	・貴族達から東大寺へ「奉納」されたものもある。これなどは明らかに奉納されたものである。箱にそう書いてあるもんね。



上は鳥で下は魚だが、火焔を吹いているのか、或いは食ったものを吐出しているのかもしれない。奉納品にそれはないか。魚は水の中だし。








	「銀平脱八稜形鏡箱」(ぎんへいだつはちりょうがたのかがみばこ)は、漆による高度な装飾技法を駆使した逸品で、八角形の鏡を
	 納めたとみられている。この文様も、そのルーツは遠くシルクロードの彼方にあるのだろう。




木画紫檀双六局






	木画紫檀双六局(もくがしたんのすごろくきょく)

	木画の技法で装飾した愛らしい花鳥が描かれたすごろく盤。ひきだしを内蔵する天板部分を床脚で支える。聖武天皇が愛用したと伝わる。


















	「木画紫檀双六局」は双六のゲーム盤。天皇ばかりで無く、当時の人々・貴族が、熱中して遊んだといわれる。遊びの道具に込められた、
	細やかな技巧のルーツは、どれもシルクロードに技術やデザインの由来をもつとされ、トルファンからも同様のものが出土している。








	その源も西アジアにあるのではないかと言われ、遺跡からは双六盤の原型では無いかと思われるものが出土している。ローマ帝国領エル
	ゲの遺跡でのゲーム盤。





日本書紀にも双六ゲームのことは記されていて、人々があまり熱中するので時々禁止されたようである。






	「ペルシア双六を楽しむ会」(だったかな?)は、今でも集まってこのゲームに興じているそうだ。この双六は現代の双六とは大分違う。
	当時はこの盤の上に駒を並べ、どちらが先に相手の陣地に全部入れられるかを競うゲームだったそうな。


緑瑠璃双六子


	緑瑠璃双六子(みどりるりのすごろくし)

	双六に用いる駒(双六子)。国家珍宝帳所載の品で、サイコロ(双六頭)とともに漆皮箱に入れて赤漆文欟木御厨子に納められていた。
	双六子はもともと169枚あったとされる。
























雑食瑠璃





		雑食瑠璃(ざっしょくのるり)

		様々な色合いのガラス玉。連ねてまとめたものもあり、ガラスの原料に含まれる鉛成分から日本で製作されたもの
		と推定されるものもある。








		雑色瑠璃 第2号 

		縞模様のガラス玉。縞模様はガラス玉の上に異なった色のガラスを巻き付けて表現する。色合いは多様である。








		雑色瑠璃 第1号 
	
		特殊な形のガラス玉。クチナシ玉は、金属の棒に溶融したガラスを巻き付けて丸くした後、側面から棒を押しつけて
		5〜7条のくぼみをつけたもの。捩玉は、さらにこれを左右に捻って複雑な形に仕上げたものである。








飛鳥工房跡(今の万葉館)からは、様々な工芸施設の跡が出土しているが、ガラス工房の跡もあった。





上左は田原本町から出土したメノウとガラス玉を包み込んだ土製品。上右はガラス玉の鋳型。



複雑なガラス製品は勿論日本では製造できなかったが、簡単な瑠璃玉は製造していたようである。






	実験考古学では、正倉院ガラスの復元も行われている。原料もどういう組み合わせが当時のものに一致するか、実験が繰り返される。
	上はガラスの原料となった丹で、正倉院に遺されているもの。100kg以上残っている。同じ素材を釉薬に用いる磁瓶などとともに、古
	代ガラスの世界を偲ぶものである。
	










安康天皇陵(だったと思う)と新沢千塚古墳から出土したカットグラスのお碗を復元する。下がその復元品。原品は上野にある。



	
	白瑠璃碗(はくるりのわん)

	透明でごく薄い褐色味のついたカットグラスの碗。アルカリ石灰ガラス製で、円形の切子による装飾が亀甲繋ぎの文様として外面を
	おおう。ササン朝ペルシアで製作されたものといわれる。




紅牙撥鏤撥



	紅牙撥縷撥(こうげばちるのばち)

	材質・技法:象牙 紅染 撥鏤 緑青・黄の点彩。螺鈿紫檀琵琶に付属する撥。紅染の象牙の表面を彫って文様をあらわす撥鏤の技法
	を駆使している。国家珍宝帳記載の献納宝物。 






	正倉院は世界に誇る古代楽器の宝庫である。宝物は聖武天皇が崩御した後,765年(天平勝宝8年6月)に光明皇后が天皇遺愛の品を納
	めたことに端を発する。これらの品は藤原仲麻呂・藤原永手・巨万福信・賀茂角之・葛木戸主が連署した『国家珍宝帳』(765年,天
	平勝宝8年6月)に記録されている。この撥(ばち)は、象牙を紅染めし模様を彫ってある。螺鈿紫檀琵琶の付属品と思われる。







	
	64回目を迎える今年はシルクロードゆかりの華やかな宝物、「瑠璃坏」、「木画紫檀双六局」、「螺鈿紫檀琵琶」、の3つの宝物が
	目玉である。3つの宝物は、どれもシルクロードに技術やデザインの由来をもつとされるが、この撥(ばち)も文様からすると、あち
	らから来たものかも知れない。そうすると正倉院の宝物は舶来品ばかりと言うことになる。平城京の時代においては、宝物とは舶来品
	の事だったのだろう。


銅薫炉






	銅薫炉(どうのくんろ)	8世紀。正倉院北倉。

	銅を鍛造(たんぞう)で球形にうちだした高さ20cmあまりの香炉で、切鏨(きりがね)により、宝相華唐草(ほうそうげからくさ)に各1
	対の獅子(しし)と鳳凰(ほうおう)が透かし彫りされている。球の中央で上下、身と蓋(ふた)にわかれ、身の内側にとりつけられた火
	皿は、香炉がころがっても水平をたもつような仕掛けがほどこされている。透かし彫りの、花の文様の間から香の香りが漂う。








	球体の銅でできた香炉である。香をたくのに使う入れ物で、寝具に入れたり、この上に衣服をかけたりして、香りをつけた。香炉が転
	がっても中の皿がいつも水平になる仕掛けは“がんどう返し”とよばれ、球の中の3本の軸で香皿をささえ、回転しても重心が常に
	水平で傾かない仕組みになっている。一説には、布団の中に転がして香らせたとも言われているが、当時は中国から伝わった秘宝中
	の秘宝だったことであろう。銀薫炉もあり、銀薫炉にはペルシャ風の花唐草と獅子・鳳凰の文様が美しい透かし彫りで施されている。










その他の展示品












	今回出展されている、赤地鴛鴦唐草文錦大幡脚端飾(あかじおしどりからくさもんにしきだいばんのきゃくたんかざり)という長った
	らしい名前の織物は、天平勝宝九年( 757)五月二日に営まれた聖武天皇一周忌斎会に用いられた勧請幡(大幡)の一部で、宝庫には
	聖武天皇が纏った袈裟をはじめ、大仏開眼会(かいげんえ)で用いられた幡や伎楽衣装、仏堂を飾った天蓋(てんがい)机の褥(じょ
	く:上敷)、造東大寺司(ぞうとうだいじし)に仕える人々の衣装など、約5000件10数万片の染織物が伝わっている。
	染織物に表された文様は全般的に唐の影響を受けており、西域や地中海地域の要素も反映されている。一方で和風文様の萌芽を思わせ
	るものもあり、奈良時代における文様の流行を辿ることが出来る。













碧瑠璃小尺・黄瑠璃小尺はガラスを使ったアクセサリーと思われる。勿論尺としても使用していたはずだ。











	
	正倉院  出典:ウィキペディア

	正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北西に位置する、高床の大規模な校倉造(あぜくらづくり)倉庫で、
	聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設。
	「古都奈良の文化財」の「東大寺」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
	元は東大寺の倉庫であったが、明治以降、国の管理下におかれ、内務省、農商務省と所管省庁は変遷し、1884年(明治17年)宮内省
	所管となった。第二次世界大戦後は宮内府を経て、現在は宮内庁の正倉院宝庫及び正倉院宝物を管理する施設等機関である正倉院事
	務所が管理している。
	正倉院の宝物には日本製品、中国(唐)や西域、遠くは ペルシャなどからの輸入品を含めた絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・
	陶器・ガラス器・楽器・仮面など、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く残るほか、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料であ
	る正倉院文書(もんじょ)、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵され、文化財の一大宝庫である。シル
	クロードの東の終点ともいわれる。





	
	<正倉院の語義>

	奈良時代の役所や大寺院には多数の倉が並んでいたことが記録から知られる。「正倉」とは、元来、「正税を収める倉」の意で、律
	令時代に各地から上納された米穀や物品などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられたものであった。また、大寺に
	はそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する倉があった。これを正倉といい、正倉のある一画を塀で囲った
	ものを「正倉院」といった。南都七大寺にはそれぞれに正倉院があったが、のちに廃絶して東大寺のものだけが残ったため、「正倉
	院」は東大寺大仏殿北西に所在する宝庫を指す固有名詞と化した。



	
	<正倉院宝物>

	756年(天平勝宝8歳)、光明皇后は、夫聖武天皇の七七忌に、天皇遺愛の品約 650点と、約60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)
	に奉献した。その後も光明皇后は3度にわたって、自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献している。これらの献納品については、
	現存する5種類の「献物帳」と呼ばれる文書に目録が記されている。これらの宝物は正倉院に収められた。正倉院宝庫は、北倉
	(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)に区分される。
 
	北倉は主に聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められ
	ていた。また、950年(天暦4年)、東大寺内にあった羂索院(けんさくいん)の双倉(ならびくら)が破損した際、そこに収められ
	ていた物品が正倉院南倉に移されている。南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会(かいげんえ)に使用された物品なども
	納められていた。ただし、1185年の後白河法皇による大仏再興時の開眼会に宝物の仏具類が用いられた。そのほか、長い年月の間に
	は、修理などのために宝物が倉から取り出されることがたびたびあり、返納の際に違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在
	場所はかなり移動している。上述のような倉ごとの品物の区分は明治時代以降、近代的な文化財調査が行われるようになってから再
	整理されたものである。
	「献物帳」記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻ら
	なかった品も多い。刀剣類などは藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代
	わりに返納されている。
	正倉院の三倉のなかでも特に北倉は聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がなされていた。宝庫の
	扉の開封には勅使(天皇からの使い)が立ち会うことが必要とされていた。なお「勅封」という言葉は本来「天皇の署名入りの紙を
	鍵に巻きつけて施錠すること」を指す。正倉院宝庫がこの厳密な意味での「勅封」になったのは室町時代以降であるが、平安時代の
	各種文書記録にも正倉院を「勅封蔵」と表現しており、事実上の勅封であったと見なして差し支えないといわれる。平安時代中期に
	は北・中・南の三倉とも勅封蔵と見なされていたが、東大寺の什器類を納めていた南倉のみは、後に勅封から綱封(東大寺別当らの
	寺僧組織が管理する)に改められた。1875年(明治8年)、正倉院全体が明治政府の管理下におかれてからは南倉も再び勅封となっ
	ている。



	
	<正倉院文書>

	正倉院文書(しょうそういんもんじょ)は、正倉院に保管されてきた文書群で、光明皇后の皇后宮職から東大寺写経所に至る一連の
	写経所で作成された文書を中心とする。奈良時代に関する豊富な情報を含む史料である。
	律令制下で官庁が作成した文書や諸国からの報告書のほとんどは短期間(戸籍の保存期間は比較的長く30年)で廃棄されていたが、
	当時紙は貴重であり東大寺写経所では廃棄文書の裏面を事務帳簿として再利用していた。しかし写経所の活動が下火になるとともに
	写経所文書は不要となり、やがて正倉院の片隅に収められ、勅封とともに閉じ込められいつしか忘れ去られていったと推定される。
	かくして偶然にも8世紀(神亀〜宝亀年間の約50年)の写経所文書が保存され、奈良時代の戸籍・正税帳などの貴重な史料が今日ま
	残ることになった。
	その後長い年月、正倉院に閉じ込められた写経所文書は完全に忘れ去られていたが、その存在が再び明らかになるのは江戸時代後期
	である。穂井田忠友(平田篤胤に学んだ国学者)によって写経所文書の紙背にある史料が注目され、1833年-1836年(天保4-7年)、
	元の戸籍・正税帳などの状態を復元すべく一部の文書が抜出されて、45巻(正集)にまとめられた。この正集文書は写本として流布
	した。
	明治時代以降は内務省、宮内省により整理が続けられ、667巻5冊の形態になった(狭義の正倉院文書)。これにより文書の研究は大
	きく進んだが、一方で写経所文書は断片化されてしまい、かつての形態とは異なってしまっている。正倉院は他の文書も所蔵する。
	正倉院自体の管理に関する曝涼・出入の文書12点は、普通は宝物とされる献物張5点とともに北倉に所蔵されていた。明治時代、東
	大寺塔中東南院の文書 112巻を中心として東大寺から文書の献納があった。この東南院文書は平安時代以降の文書も含む。正倉院文
	書と呼ばれず東南院文書として別あつかいにされることが多い。また、大正八年に日名子家から奈良時代の文書6点の献納があった。
	また、正倉院から流出した文書で博物館・図書館などに所蔵されているものがあり、確認と研究が行われている。
 
	建築史家・福山敏男は写経所文書に含まれていた石山寺関係史料の復元考察を行い、石山寺の造営過程(761年-)を浮かび上がらせ
	た(「奈良時代に於ける石山寺の造営」1933年、『日本建築史の研究』所収)。福山の研究以降、写経所文書の研究も進められてい
	る。
	続修正倉院文書が明治18年に活字化され、続々群書類従(明治20年ごろ)にも重要な文書が集録されたが、正倉院文書のほぼ全貌が
	活字化されたのは『大日本古文書』(編年文書、25冊、1901年−1940年)である。ただし一部の残片、その後発見された断片などは
	収録されていない。寧楽遺文(1943)にも主要な文書が集録されている。吉川弘文館で『正倉院文書研究』他が多数の研究書が出され
	ている。原本は非公開で、正倉院の曝涼にあわせて、毎年秋の「正倉院展」(奈良国立博物館)において数点が公開される。





	
	<聖語蔵>

	正倉院の構内にはもう1棟、小型の校倉造倉庫が建ち、「聖語蔵(しょうごぞう)」と呼ばれている。中に収められているのは経巻
	類で、正倉院文書とは別の古代の文書(経巻類)が保管されている。もとは東大寺尊勝院の経蔵「聖語蔵」の一群である。隋・唐伝
	来の経243巻や、光明皇后発願の「天平十二年御願経」750巻、称徳天皇発願の「神護景雲二年御願経」742巻など計 4960巻の古代の
	貴重な経巻類を収蔵している。ここに収蔵されていた経巻類は明治27年(1894年)に皇室に献納され、校倉造倉庫も正倉院構内に移
	築された。現在は他の宝物と同様に宮内庁正倉院事務所が管理している。





	
	<建造物としての正倉院>

	・校倉造

	校倉造、屋根は寄棟造、瓦葺。規模は正面約33.1メートル、奥行約9.3メートル、床下の柱の高さ約2.5メートルである。

	建立時期は不明だが、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した756年(天平勝宝8)前後とみるのが通説である。759年
	(天平宝字3年)以降、宝物出納の記録が残っていることから、この年までに建立されていたことがわかる。当初の正倉院の建物構
	成についてはわかっておらず、記録によれば、平安末期には現存する宝庫1棟を残すのみであったらしい。
 
	床下には10列×4列の柱を建て、その上に台輪(だいわ)と呼ぶ水平材を置く。この上に北倉と南倉は校木(あぜぎ)という断面三
	角形の材を20段重ねて壁体をつくり、校倉造とする。ただし、中倉のみは校倉造ではなく、柱と柱の間に厚板を落とし込んだ「板倉」
	で、構造が異なる。なぜ、中倉のみ構造が異なるのか、当初からこのような形式であったのかどうかについては、諸説ある。奈良時
	代の文書には、正倉院宝庫のことを「双倉」(そうそう、ならびくら)と称しているものがある。このことから、元来の正倉院は北
	側と南側の校倉部分のみが倉庫で、中倉にあたる中間部は、壁もなく床板も張らない吹き放しであったため「双倉」と呼ばれたとす
	るのが通説だったが、年輪年代法を用いた鑑定により、当初より現在の形であった事が判明している。

	校倉の利点として、湿度の高い時には木材が膨張して外部の湿気が入るのを防ぎ、逆に外気が乾燥している時は木材が収縮して材と
	材の間に隙間ができて風を通すので、倉庫内の環境を一定に保ち、物の保存に役立ったという説があった。しかし、実際には、重い
	屋根の荷重がかかる校木が伸縮する余地はなく、この説は現在は否定されている。現存する奈良時代の倉庫としてはもっとも規模が
	大きく、また、奈良時代の「正倉」の実態を伝える唯一の遺構として、建築史的にもきわめて価値の高いものである。
 
	校倉造の宝庫は長年、宝物を守ってきたが、1952年に鉄筋コンクリート造の東宝庫、1962年には同じく鉄筋コンクリート造の西宝庫
	が完成し、翌1963年、宝物類はそちらへ移された。現在、宝物の大部分は西宝庫に収納、東宝庫には修理中の品や、西宝庫に収納ス
	ペースのない、大量の染織品が収納されている。現在、勅封はこの宝庫に施されている。
 






	
	・修理

	大正2年に解体修理が行われた。 
	2010年8月31日に正倉院を管理する宮内庁は、1世紀ぶりに正倉院の施設整備工事を行うことを目指し、平成23年度予算の概算要求で
	工事費として3億6,000万円を盛り込んだ。施設整備工事は平成23年〜平成26年の予定。改修は2011年9月1日より始まり、拝観停止と
	なっている。一部希望者は期間限定で工事見学が出来る。













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