Music: A Taste of Honey











		「池上曽根資料室」に入ると、刳りぬき井戸に用いられたクリの木のレプリカが正面に見える。横から中に入る事も出来るし、
		ステップを上がって上から中を覗き込む事もできる。見れば見るほど大きな木だ。こんな大木が何本も生えていた光景を思い
		浮かべると、縄文から弥生にかけての居住区以外の場所は鬱蒼とした森で、人々はこれを共同作業で切り倒しながら生活圏を
		拡大していった様が目に浮かんでくる。
 


















		この遺跡のシンボルのようになった「鳥」の模型。鳥居の原型は朝鮮半島にあり、今でも、棒の先に鳥の模型を付けて、門の
		代わりに道の両側に立ててある光景を見ることがある。「鳥」は自由の象徴であり、いずこからか飛んできて、またいずこか
		へ去って行く神の使いだったのかもしれない。
 

 

 
		このドラゴンも有名になった。既に弥生中期に「龍」のイメージがあったのだ。これは明らかに、大陸系統の思考の伝承だろう。
 
		蛸壺は縄文時代には見られない。弥生時代になって、特に大阪湾沿岸の遺跡からは夥しい数で発見されている。瀬戸内海には
		すごい数のイイダコが生息していた事が見て取れるが、縄文時代には食べてみる人が居なかったのか、それとも、海に潜って
		食物を得るという発想が無かったに違いない。潜水の習慣を持った民族が西から近畿にやってきたのだ。
 

 

		出土した柱とそれを支えた礎板。福岡県甘木市の「平塚川添遺跡」も弥生中期の遺跡だが、あそこの建物群もしっかりした
		礎板を持っていた。富山の「桜町遺跡」は縄文時代後期の遺跡だが、そこではもう「ほぞ」を使用した建物があるし、考えて
		みると、石器時代から縄文時代にかけて何万年と代わらない人々の生活習慣が、変化する時にはアッという間に代わっていく。
		これは明らかに技術や習慣が伝播したのではなく、技術を持った人々が移動していったと考えた方が納得できる。稲作の伝播、
		古墳が日本中に広まっていくスピードは、その様式が人を介して広まっていったのではなく、習慣を持った人々が、古墳時代
		だとおそらくは騎馬に乗って、日本中を駆けめぐって行ったのだろう。だから熊本県から福島県にかけての広範囲に同じよう
		な古墳があり武具があるのだ。




 

 



		
		年輪年代法でB.C.52年に伐採された事が判明した柱。近畿圏の学者は一斉に「弥生中期にもう大型集落があったのだ。」、
		「近畿には他にも多くの国々があったはずだ。」「やっぱり邪馬台国は近畿だった!」と叫び、九州説の碩学達は「伐採して
		すぐ建物に用いるはずがない、何十年か寝かせるはずだ。」とか「邪馬台国=近畿説にとって何の証明にもなっていない。」
		とかやり返している。		


金属器が入ってくるまでの武器や狩猟具は、縄文時代と同じく石器が中心である。

 

 





















 

 

 

 

 





		
		各地の弥生遺跡から発掘される農耕具のたぐいは、見事なくらい画一化している。スコップがあり鍬があり、田下駄がある。
 







 



 











		
		「稲作が日本人に与えた影響は計り知れないものがある。」とか、「稲作によって日本人の生活慣習は大きく変化して行った。」
		という教科書的な考えを、私もつい最近までは持っていた。しかし今ではこう考えるようになった。

		日本人が稲作を持ってきたのだ。金属器も日本人が持ってきた。日本人はその多くが中国大陸の華北・華中・華南から、朝鮮半島
		を経由し、或いは南方の諸島伝いに、或いは東シナ海を横切って直接に、海からこの列島へやってきた。そして数少ない「縄文人」
		達を仲間にしながら或いは排斥しながら、急速にこの列島内に繁殖していったのだ。その過程で日本語の原型も確立した。

		つまり、彼らが新しい技術や慣習を持ち込むまでは、この列島には「日本人」はいなかったのだ。居たのは「縄文人」であった。





邪馬台国大研究・ホームページ / 弥生文化博物館 /himiko@zeus.eonet.ne.jp