平成12年11月23日、(財)大阪府文化財調査研究センターの主催する「郷土の文化財を見学する会」は、11月例会として三 重県伊勢地方の文化財を訪ねた。この嬉野町歴史資料館を皮切りに、松阪市文化財センター、宝塚古墳、斎宮跡、斎宮博物 館と巡って、帰路事故のため3時間ほど遅れたが、午後10時頃大阪に戻ってきた。総勢約100名。バス2台を連ねての小旅行 だった。
三重県嬉野町中川の片部遺跡は古墳時代前期の遺跡で、ここから出土した土器に4世紀前半とされる日本最古の文字が発見 された。土器は口径約 12cm、高さ約7cmで、土師器と呼ばれる素焼きの壺で、口の部分に墨と筆で書かれたと見られる文字 が確認された。 これまで日本最古の文字とされていたのは、千葉県稲荷台1号墳出土の鉄剣に刻まれていた銘で、5世紀半ばとされている。 これより古いものもあるが、それらはいずれも大陸から伝来したものである。墨書文字は更に新しく、7世紀の奈良県の木 簡が最古とされてきた。今回嬉野町で見つかった墨書文字は、それらを 300年ほども遡り、古代の文化水準に対する認識の みならず、古代史そのものの再検討もあり得る大発見となった。考古学の専門学者による検討委員会は、平成8年1月に文 字が「田」である事、4世紀前半という古い時代に日本で作られた土器であることなどを発表した。 4世紀は歴史的文献資料が少なく、「謎の時代」とも呼ばれているが、日本と大陸との交流は古く、当時の日本で漢字が広 く用いられ、文字が意志の伝達手段として普及していた可能性を窺わせる。
片部遺跡(嬉野町中川) 古墳時代の大規模灌漑遺跡。農業用水を川から周辺の水田へ分配するために、丸太や板を大量に川底に打ち込んだ複雑な構 造の堰跡で、木製の井堰や土師器、壺などが多数出土している。当時、周辺にはかなりな規模の集落が在ったことが推定で きる。井堰については、各地で弥生時代からのものが発見されているが、稲作が弥生時代急速に拡大していった事が分かる。 愛媛県松山市の古墳時代遺跡、「古照遺跡」は有名である。
福岡県前原市にある、<伊都国前原歴史資料館>には3世紀の、文字が刻まれたという壺が展示されている。私も見学した が、当時はちょっと「これがほんまに文字かいな?」という気がした。「博物館巡り」のコーナーにある「伊都歴史資料館」 を参照して頂きたい。 そこには当時の私のコメントを、 「この壺形土器は、高さ59cmで1978年に三雲遺跡から発掘されたものであるが、発掘から20年後の今年(1998:平成10年)福 岡県教育委員会から鑑定を依頼された国立歴史民俗博物館の平川南教授はこれを文字であると発表した。 「この土器に記銘されたものは明らかに文字であり、・・・(略)・・・、一つの解釈として「竟」の可能性を想定できる。 (略)」 この記事は各紙に記載され大きな反響を呼んだ。3世紀の土器に漢字が書かれていたという事になると、当時既に少なくと も伊都国には漢字を読み書きできる者が居たという事になる。我が国漢字文化の起源を探る上でも貴重な資料となる。もし 教授の言うようにほんとに文字であれば、渡来した中国人がもたらしたものに違いないが、どうも私自身はこれが文字だと は思えないような気もする。更に、ほんとに文字が使用されていたのなら、もっとまともに書いた資料が他にも発掘されて しかるべきではなかろうか? これだけでこれを文字だと判定するのはちょっと危険な気もする。」 と書いている。しかし最近(2000:平成12年)、これはほんとに文字かも知れないと思うようになった。断定は出来ないし、 またそれを裏付ける資料も未だなんら出現していないのであるが、日本人社会にも3世紀に文字があったのではなかろうか と最近思うようになった。弥生からもそのうち文字が出現するのではないだろうか。
嬉野町にも、縄文以来、各時代において人々の営みの後が数多く残されている。特に古墳時代には多くの古墳が作られ、中 でも4世紀には向山古墳(国指定)、西山古墳、錆山古墳、筒野1号墳、庵の門1号墳などの5基の前方後円墳が作られて いる。さらに奈良時代にはいると、天花寺廃寺、一志廃寺、上野廃寺、嬉野廃寺といった大きな寺院が造られ、これらの寺 跡からは多くの瓦やせん仏等が発見されている。
鴟尾(しび) 国指定の文化財。嬉野町釜生田地区の辻垣内瓦窯跡から出土した二基の鴟尾は、白鳳時代のもので日本最大級である。鴟尾 とは宮殿や寺院の屋根の両端を装飾するもので、当時この地方に大きな寺院が在ったことがわかる。鴟尾は後世、平城にお けるシャチホコへ発展するようである。
片部・貝蔵遺跡(中川地区)は、弥生時代から古墳時代前期の遺跡で、近鉄中川駅の東、海抜4mの低地にある。片部遺跡で は、水田跡のほか大規模な灌漑施設が見つかった。大きな溝のなかは堰と水路からなっている。堰は大量の杭を打ち込んだ後 に横木を渡し、さらに戸板を並べる構造をとっている。大溝からは、墨書土器の他にも大量の木製品が出土した。先端を加工 した杭、板材などの、堰を構成する部材をはじめ、杭を打つのに使用した横槌(よこづち)や土を掘る鍬などの農機具である。 一方貝蔵遺跡の大溝からも堰が確認され、大量の壺・高杯・瓶などの土器と供に墨書土器も出土している。両遺跡から出土し た複数の墨書土器により、筆と墨の使用が推定できた事は、極めて重要な出来事となった。
片部遺跡の墨書土器は、4世紀初頭の小型平底鉢と呼ばれる小型の土器の口縁部に、墨で「田」の字が書き込まれていた。当 初この文字に対しては、1字欠画している事などから他の文字ではないかという意見や、文字ではなく記号ではないかという 指摘などもあった。その後、文字の使用と推定できる例が、福岡県三雲遺跡、長野県根塚遺跡、三重県大城遺跡、熊本県柳町 遺跡などから出土し、これらは2世紀から3世紀に掛けての文字の使用と推定できるものもあった。しかしほんとにその時代、 たとえ一部ではあったにせよ、日本列島内で文字が使用されていたという事になると、これは古代史を塗り替えかねない出来 事であるため、まだまだ学会においても、慎重論も根強い。
東日本最古の墨書土器発見 2004年3月23日 毎日新聞 -------------------------------------------------------------------------------- 千葉県流山市の市野谷宮尻遺跡で発見された、左上部に「久」と書かれた墨書土器 「久」部分を拡大した赤外線写真 千葉県教委は23日、同県流山市西初石5の市野谷宮尻(いちのやみやじり)遺跡から、東日本では最古の3世紀末に、墨と 筆で文字が書かれた土器を発見したと発表した。「墨書土器」と呼ばれ、漢字で「久」と書かれていた。これまで東日本で出 土したものの多くは7世紀前後で、県教委は「文字を使用していた大和朝廷の文化が関東にまで及んでいたことを示す貴重な 資料」と話している。 県教委によると土器は土師器無頚壷(はじきむけいつぼ)の一部で、胴部から底部が失われている。竪穴式住居の1軒から発 見された。推定口径は7.9センチ、推定器高は9.0センチ。墨で書かれた「久」の字は横2.5センチ、縦約2センチで、 土器上部に筆ではっきりと書かれていた。 土器に書かれた文字は「墨書」と「刻書」があるが、墨書については現在、三重県嬉野町の「貝蔵遺跡」で95年12月に発 見された2世紀末とみられる土器に書かれていた「田」と読める文字が国内最古とされる。【江畑佳明、曽田拓】