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東京都埋蔵文化財センター

2004.1.10(土)


弥生時代


	今から約2300年前(最近、国立歴史民族博物館の春成教授らによって、3000年前という説もでたが。)、朝鮮半島
	から北部九州へ稲作が伝わり、金属器やその他の新しい技術とともに弥生時代が始まった。多摩ニュータウン区域では、弥
	生時代前期の住居跡は見つかっていないが、中期になると住居跡に沿って、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)がムラの
	そばから見つかるようになる。当時のムラの跡は、多摩ニュータウン地域では、西側の町田市相原・小山地区で30軒近く
	が見つかっている。まだ水田跡は発見されていないが、籾殻痕が付いた土器が見つかっている。
	土器の種類は、煮炊き用の瓶、貯蔵用の壷、盛り付け用の高杯・鉢などで、いわゆる無紋土器と呼ばれる、表面がつるつる
	した土器が用いられるようになるが、この時期の多摩丘陵は居住区域を除いて殆どが狩り場だったと想像される。出土する
	有孔磨製石鏃などから類推できる。縄文時代の石鏃は、黒耀石やチャート、頁(けつ)岩など硬質の石材を用いているが、
	弥生時代になると比較的軟質な粘板岩や片岩を加工して穴を開け、磨いたものに変わっていく。



籾状痕のある土器があるという事は、ここでも稲作を試してはみたのだろう。
しかし集落を作って大規模な水田経営を行うには至らなかったようだ。

 


	縄文晩期から弥生にかけての遺跡がほとんど無い事実は、おそらく、新しく入ってきた稲作に適した場所へ、人々が移り住
	んだからだろうと思う。そして低地に人々が移住し稲作技術が広く浸透した頃、新しい民族である古墳時代人たちがまた多
	摩丘陵へ戻ってきた。そして律令国家となっても、人々はそのままここに定住し現代を迎えることになる。










古墳時代


	古墳時代のムラの跡は、弥生時代の遺跡と同じく町田市相原・小山地区で多数見つかり、住居跡の数は240軒以上になる。
	上空から見ると、現代のニュータウン同様、軒を連ねた分布が見られるそうであるが、住居跡は1辺8mを超える大型のも
	のから4m以下の小型のものまであって、つのムラの中に混在している。
	当時は赤焼きの土器である土師器(はじき)が多く用いられたが、その種類は弥生時代と同じく瓶、壷、高坏、鉢などであ
	る。他にも器台や手づくね土器のように、祭祀用とみられる土器も発見される。ムラの側の方形周溝墓からは、土器以外に
	鉄器や管玉、ガラス玉なども出土する。
	古墳時代の後期になると、ムラは多摩丘陵の全域に拡がり、須恵器を焼いた窯も発見されている。住居の中には壁を彫り込
	んで竈(かまど)がつくられる。この地域では盛り土をした古墳は発見されないが、斜面や崖面に作られた横穴墓は町田市
	相原・小山地区の遺跡から多数見つかっている。NO.313遺跡では、都内でも最大規模の墓道を持つ横穴墓が見つかり、
	当時この地域に権力者がいたことを窺わせる。





 

 



 








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