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東京都埋蔵文化財センター

2004.1.10(土)


縄文時代草創期

 


	縄文時代草創期は、今から約1万3千年前から9千年前までの、旧石器時代最終末から縄文時代が始まる時期にあたる。一
	般に縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期とに分けられる。この区分に異を唱える研究者もいるがごく少数
	で、この分類法はほぼ定着していると言ってよい。
	今から約2万年前の氷河期、最も寒冷な時期には海面が現在より135mほど下降していたと考えられており、それ以後、
	約6千年前の「縄文海進」に向かって温暖化に移行する。草創期は海面が現在より40m程低い位置にあった時期といわれ
	ている。前田耕地遺跡は、あきる野市野辺1丁目1他、に所在し、昭和51年から59年まで調査され、この遺跡で作って
	いた狩猟用の石槍などが大量にみつかり、平成2年にその石槍を中心とした石器類が、国の重要文化財に指定された。

 

 

 

 


	多摩ニュータウン開発は、高度経済成長下にあって、激増する東京都市圏への就労者住宅を確保するため、行政が主導とな
	って進めた多摩丘陵の一大開発プロジェクトであった。昭和38年(1963)、「新住宅市街地開発法」が公布され、多摩都
	市計画区域が決定した。開発のマスタープラン第1次〜3次案が策定され、住宅公団は用地買収を開始し、翌年、都・公社
	も用地買収を開始した。多摩丘陵地は、明治以降研究者によっていくつかの遺跡調査が実施されていたが、大規模開発は当
	初から数多くの遺跡の存在が予測された。八王子市、町田市、多摩町、稲城町の2市2町(当時)にまたがる約3千ヘクタ
	ールに、ニュータウンを建設しようという壮大な計画だったが、当然開発は同時に破壊ももたらす。自然団体や環境保護の
	立場からは、開発に難色を示す意見も出されたがプロジェクトは進められた。その発掘調査は、全国に例を見ない長期的か
	つ大規模なものとなることが予想されたが、所管部署である東京都教育庁には、当時一人の発掘担当者もいなかったという。





 


	昭和40年9月、開発者である東京都、日本住宅公団、都住宅供給公社は、文化庁と図って任意団体「多摩ニュータウン遺
	跡調査会」(調査員6名)を発足させ分布調査を行った。その結果、開発地域内の遺跡数は243か所にものぼったが、予
	定の5年間で調査された遺跡総数は約140か所、3分の1が未調査のままだった。その後遺跡は相次いで発見され、昭和
	47年に再度実施した分布調査では512ヶ所に増加し、最終的には964ヶ所にまで及んだ。
	(平成15年末現在、旧石器時代から近世にかけて、各時代にわたる総数964ヶ所の遺跡があるが、発掘調査は現在ほぼ
	終了しているので、新たな発見がない限り、この数で確定するものと思われる。)



 




	多摩丘陵の、大規模かつ長期にわたる遺跡調査は「多摩ニュータウン方式」と呼ばれ全国の遺跡調査の手本となった。しか
	し、「多摩ニュータウン遺跡調査会」には、どうしても任意団体であるがゆえの限界があり、長期化するに従って調査員の
	身分保証やその数の確保が難しい現実となってきた。昭和55年、開発の整合をはかる目的で、「財団法人東京都埋蔵文化
	財センター」が設立される。ほとんどの運営経費を事業者が負担することになり、センターは当分の間、ニュータウン区域
	内の遺跡だけを調査することとなった。職員の雇用条件が改善され、機材を導入、調査人数も大幅に増えて機動力も高まっ
	た。それからの発掘調査は順調に進んでいった。縄文時代を中心に多摩丘陵一帯に、最終的には1000ヶ所近くにも及ぶ
	膨大な遺跡発掘の作業、整理、復元、記録などの仕事を、多い時で毎日千人くらいの人たちが手伝った。その中で、土の扱
	いに慣れ、昔の地形を熟知している地元の人々は、調査員たちにとって力強い味方となった。
	世界的に見ても、3千ヘクタールという広大な地域に存在する遺跡群を、これだけ隅々まで調査した例は、多摩ニュータウ
	ンしかない。遺跡調査の結果、約3万年前の旧石器時代から近世まで、多摩丘陵地に生活した人々の悠久なる歴史が明らか
	になった。
	これらの遺跡からは、各時代の住居跡や墓などが発見されているほか、縄文時代では狩猟用の落とし穴、古墳時代以降では、
	製鉄や木工、窯業などに関連した遺構や遺物も多数発見されている。 遺跡は全て連番がふられ、NO.192遺跡などと呼
	ばれて整理されている。

 

 

 

 



 

 

 

	以下のグラフからも明らかなように、多摩ニュータウン遺跡には圧倒的に縄文時代の遺跡が多く、特筆される成果の一例と
	してNO.192遺跡やNO.343遺跡などから出土した縄文時代早期後半(紀元前5000年前頃)の良好な土器資料群や、
	NO.343遺跡やNO.351遺跡からの、石鏃に伴って多量に出土したチップ(石屑)などは、石器製作の様子の解明に
	光明をあてた。
	その他、弥生時代中期および古墳時代初頭の集落(No.920遺跡)や、古墳時代の横穴墓群(No.192遺跡)、古墳時代から平
	安時代にかけての集落やこれに伴う木器や、その未製品、そして中世から近世の集落( No.243・244遺跡)など、重要な遺
	跡の全貌が次々に明らかとなりつつある。また、それらの報告書も順次刊行されている。

	3万年にわたって営々と人々が暮らしてきたこの丘陵は、たった40年で恐るべき近代都市の衛星地帯として生まれ変わっ
	た。多摩ニュータウン自体は、開発が始まってから40年、入居から30年が過ぎようとしており、今や大きな転換期を迎
	えていると言ってもいい。行政の主導の元に建設が進められて来たということから考えても、これからが住民の手によって
	ベットタウンではない、本当のニュータウンを作りあげていく段階に来たと言えるのかもしれない。




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