飛鳥時代、推古天皇は大陸からの使節を迎えるため、難波の港から飛鳥の都に至る「大道」を築いた。太古から、二上山 のサヌカイトを得るために続いていた細い道が整備され、我が国初の「官道」となった。(日本書紀、推古天皇二十一年 (613))この道は「竹内街道」(たけのうちかいどう)と呼ばれるようになり、その後も聖徳太子の眠る「上ノ太子」 を目指す人や、大和と難波を行き来する商人達、伊勢参りや西国三十三所巡礼の人々で賑わったが、次第に街道としての 重要性は低くなり、現在はひっそりとした山間の集落を抜けていくハイキングコースの趣がある。しかしその歴史性故に、 街道を訪ね歩く歴史ファンも多い。孝徳天皇陵はこの街道筋にある。 現在の竹内街道は、堺市の大小路(おおしょうじ)から河内平野を東へ向かい、二上山の南・竹内峠を越えて、奈良県當 麻町(たいまちょう)の長尾神社に至る約26kmの街道であるが、大部分は推古天皇時代の「官道」と重なっている。飛鳥 時代に、優れた中国や朝鮮の文化は、この街道を通って飛鳥の都へ到達したのである。我が国初の本格的な文化国家であ った飛鳥時代は、この道を通っていったのだ。文化を携えた渡来人や、我が国から大陸への使者・遣隋使・遣唐使達もこ の街道を利用していたし、シルクロードからの、まさに終着点として華やかな賑わいにあふれていた事であろう。
「万葉集」 おおさか ふたがみに 大坂を 我が越え来れば 二上に もみぢ葉流る しぐれ降りつつ あすかがわ かつらぎ いま 飛鳥川 もみぢ葉流る 葛城の 山の木の葉は 今し散るらし
このシルクロードの終着点・外交の道として栄えた街道に、太子町がある。名前のごとく現在では聖徳太子の御陵の町と して有名だが、他にも推古天皇陵や大化改新時の孝徳天皇陵、遣隋使の小野妹子・大臣の蘇我馬子などの墓(推定)をは じめ、大小の古墳が30基ほどあり、「磯長谷(しながだに)古墳群」とか「王陵の谷」などと呼ばれている。我が国最初 の国道は、外交路という他に、飛鳥の都で政務にあたった人々の墓に通じる葬送の道でもあった。
栄えていた「大道」も、都が 710年に奈良の平城宮に遷されると、次第に外交路としての意味を失い衰えはじめる。しか し、聖徳太子信仰が盛んになるにつれて、街道沿いにある聖徳太子墓やそれを護る叡福寺が霊場となり、太子信仰の場と しての性格を強めていく。中世末に、堺が自治都市としての繁栄を謳歌している頃、堺と大和を結ぶ経済の道として再び 脚光を浴び現在の竹内街道の礎ができあがる。
江戸時代には、竹内街道に残る道標の多くが、当麻寺・壺坂寺・長谷寺・上の太子(叡福寺)・伊勢・大峯山などを指し 示している事から見て、庶民宗教の道としての性格を持つようになっていったと推測できる。この時代、「笈の小文」の 紀行で松尾芭蕉がこの道を歩いている他、幕末には吉田松陰や富田林の水郡善の祐(のごりぜんのすけ)ら南河内の郷士 が多数参加した天誅組の残党なども竹内街道を利用している。街道には、「ぐみ茶」を出す茶店や旅籠が軒を並べていた 事が文献に残っている。 明治になって大阪南部が堺県となり、やがて堺県が奈良県を併合するとこの街道の重要性が増し、この頃竹内街道の大改 修が行われ、その記念碑が今も峠に残されている。おそらく「竹内街道」という呼び名もこの頃に定着したものと考えら れる。 作家の五木寛之が「風の王国」にえがいた竹内越えの改修事業や、十津川大洪水で故郷を捨て北海道へ集団移住した人々 の思いが詰まった竹内街道も、明治25年、大阪−奈良間に鉄道が開通すると次第に衰え、街道沿いの茶店や旅籠も姿を消 しはじめ、昭和初期には全くみられなくなった。
戦後、南大和と大阪を結ぶ道としてそれなりの役割を果たしてきたが、昭和末に国道166号線となり、整備され街道の姿 は一新した。しかし今でも旧街道沿いに残る道標や伊勢灯籠などが、かっての竹内街道の賑わいを物語っている。