Sound: A Taste of Honey



特別展 朝鮮通信使の世界 2001.12.1





	
	特別展600円は高い。常設展と会わせると 1,200円である。博物館の入場料としては全国でも1,2位だろうと思う。こ
	れれイカン。こんな値段で、こんな体制で、しかも展示物は少なくなって、そのうち誰も来ず、閑古鳥がなくようになるの
	ではと、心配してしまう。


	
	大阪歴史博物館は、常設展示に限って、ノンフラッシュで写真撮影OKである。これは以前の大阪市立博物館からの慣行を
	そのまま継続している。しかし、特別展は他の進歩的な博物館同様「写真撮影禁止」である。進歩的でない博物館は常設展
	も含めて、建物すら写させない所もあるくらい前近代的である。この特別展も、当然撮影禁止だろうと思っていた。
	ところが、手にしたカメラを見て寄ってきた係員のお姉さんは、フラッシュを焚くな、デジカメならいいと、撮影をOKし
	てくれた。さすが大阪市の博物館、新規一装してますます柔軟になったわい、と喜んで写していたが、その内先ほどのお姉
	さんがやってきて、「すみません、私の勘違いでした。特別展は撮影禁止でした。」と謝ってきた。やはりそうだったか、
	おかしいと思った。でもわざわざ気にして聞きに行ったお姉さんに謝意を表して、おとなしくカメラをしまった。

	そういうわけで、ここに掲示した写真はそれまでの間に写した数点の映像のみである。もっともっと山ほど資料はあったの
	だが、興味を引いた方は、後はご自分でお調べいただきたい。近年、この「朝鮮通信使」は徐々にその存在が知られてきて
	いるし、結構あちこちで展覧会・展示会も行われているようなので、今後ますます関係資料を目にできる機会は増えていく
	と思われる。
	また、資料の一部は、平成14年9月10日(株)講談社発行「再現日本史 第67号 江戸VD」から転載させていただ
	いた。その際、字句が画像にかぶさっている部分は字句を取り除くという修正を施した。お詫びとともに、記して謝意を表
	明したい。



 

 

	
	江戸時代、鎖国体制下の日本で、諸外国との交流を持っていた場所として長崎県の「出島」は有名である。当時東アジアへ
	の布教活動を展開していたイエズス会や、それに付随して日本から金・銀・銅などの貴金属原材料を輸入したいオランダや
	イスパニアの商人達が、ここを拠点にして、日本との接点を持っていた。
	しかし、それは殆どがこの「出島」の中に於ける活動で、一般庶民がこれらの外国人を見たり交流したりという事はなかっ
	たのである。もしかしたら、当時の長崎市民の中には、町を歩く異人さんを見た人が居たかも知れない。

	しかし実は鎖国下といいながら、日本人は江戸時代に「出島」以外であと2つ、異国との交流を持つ機会があった。
	その一つは、薩摩の島津氏が強く幕府に要請して実現した「琉球王国」の慶賀使・謝恩使派遣である。幕府はこの慶賀使・
	謝恩使受け入れにはあまり乗り気ではなかったようであるが、琉球に対する支配力・影響力を強化したい島津氏に押し切ら
	れる形で要請を受け入れた。使節団は全員中国服を着るよう島津から指定され、異国情緒漂わせて市中を行進し将軍に拝謁
	した。

 
	
	もう一つがこの「朝鮮通信使」である。琉球は当時、幕府からは薩摩藩がその支配権を認められてはいたが、琉球は琉球で、
	「清」に対しても宗主国として礼節を尽くしていたのである。しかも、清には薩摩との関係は伏せたままであった。大国の
	狭間にある外交の典型を見る思いがする。そんな中で李王朝の朝鮮国は、徳川幕府が正式な外交関係を継続した唯一の国と
	言って良い。
	家康は朝鮮との友好回復を本気で願い、対馬藩の宗氏を通じて交渉にあたらせる。「通信使」制度そのものは、室町時代足
	利義満が希望し、その時に始めて使節が派遣されたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵以後は当然ながら途絶えていた。宗氏の懸命の
	努力が実って朝鮮側は、秀吉の出兵に対する謝罪と、その時朝鮮から日本へ連行された人々の帰還を条件に使節の派遣を受
	け入れる。日本側は直ちに謝罪の国書を送り、連行された人々の送還も始まった。正式な国交回復前に、事前調査に朝鮮か
	らの使者が京都へ来ると、家康は自ら京都へ出向き、国交回復を訴える。その結果、慶長12年(1607)本格的な使節団が
	来日し、誠信・対等・平和を掲げた、正式な朝鮮(李氏朝鮮)との国交が回復した。上記の目的のため、最初3回(慶長12
	年、元和3年、寛永元年)の使節団は通信使ではなく、「回答兼刷還使」となっていた。

 

	
	以後、文化8年( 1811)までの約200年間に、合計12回の使節団が来日し、京都伏見(元和3年: 1617)と対馬厳原
	(文化8年:1811)までで帰還した年を除けば、残り10回は江戸まで赴き将軍に拝謁した。多くは将軍交代や世継ぎ誕生
	を契機として、朝鮮国王からの国書を携え、数百人( 500〜600名:100名前後は大阪に残留)規模の、正式な外交使節団が
	日本を訪れている。幕府もこの使節団を誠心誠意厚遇し、一説には100万両(約500億円)を投じたともいわれ、大名
	行列以上の、国家をあげての破格の待遇であった。近江では、通信使のために専用道路まで作られた。また、釜山に「倭館」
	と呼ばれる拠点をもうけ、朝鮮との外交・交易センターとして大いに栄えた。ここには、対馬藩宗家の武士達が 500〜600
	人常駐し、朝鮮国内旅行は禁止されていたが、10万坪という敷地の中で大いに朝鮮文化の取得・吸収に努めたのである。
	ちょうど長崎出島制の反対に相当するが、長崎の出島はわずか 4000坪の広さしかなかった。





	
	【朝鮮通信使行列図絵巻】
	慶賀に訪れた一行を描いたもの。鮮やかな民族衣裳、はためく色とりどりの旗、異国の調べを奏でる珍しい楽器の数々。
	壮麗な朝鮮通信使の大行列は、沿道の人々の異国への興味をつのらせたことだろう。紀州徳川家から幾多の手を経て、辛
	基秀氏が入手したこの絵は、この展示会を契機に、氏から大阪歴史博物館(大阪市)へ寄贈された。



	何故にそこまで徳川幕府がこの使節団を厚遇したのかについては、今後研究が進めば次第に明らかになると思うが、幕府
	は国内統一の為に自らの政権が国際的に是認されたものであることを示す必要があったとも、国交の窓口が徳川幕府唯一
	であることを国内外に知らしめる必要があったからとも言われる。しかし、もともとは幕府自体が鎖国政策を選択してい
	る訳で、国際的な体面だけでこの交流を継続させたとは思えない。その出費の多さから、新井白石などは「通信使廃止」
	の建白書を提出したが、老中土屋政直はこれをはね除け、神君家康公の思し召しであるとして、むしろ歓迎の体制を強化
	するのである。家康が願ったように、誠心誠意をもって国是とする朝鮮なら、善隣友好の相手として好ましいと考え、損
	得抜きの純粋な国際交流を求めたのではないかと考えたい。







	
	使節団の中には正使、副使をはじめとして、役人、楽隊、絵師、学者、医者、などが含まれており、鎖国状態で他国との
	交流のなかった日本人が異国文化に触れる最大の機会であった。一行は、対馬から壱岐、筑前を経て瀬戸内海に入り、瀬
	戸内沿岸の諸都市で宿泊・休憩しながら(主な寄港地は、厳原、壱岐、神宮、下関、上関、下蒲刈、竹原、鞆、日比、牛
	窓、室津など。)大坂で下船、川船で淀に入り東海道、中仙道を経て垂井宿から美濃路を行き、再び東海道へ出て江戸に
	向かった。
	通信使は、全国各地の津々浦々で休憩しあるいは宿泊しながら進んだので、日本の文化人にとって通信使との交際は、触
	れたことのない異国の文化を知るいい機会だった。それは一般民衆にしても同じであった。通信使の宿舎に馳せ参じ、面
	談しては漢詩を作り、書画を書き求めて署名を乞い、儒学、医学上の疑問点などを問答したのである。朝鮮側の記録には、
	その訪問客の余りの多さに、食事の時間もなく、いささかうっとうしいと書かれているほどである。江戸城で将軍に謁見
	した後、通信使は同じ道を帰路につき、再び朝鮮に帰国するまで数か月日本に滞在した。朝鮮通信使は国家間の国際交流
	ではあったが、その文化面での交流が幕府や諸大名・有力者にとどまらず、庶民に至るまで繰り広げられたという意味合
	いでは、まさに真の意味での友好文化交流であった。余談であるが、キムチに唐辛子が入るようになったのは、この通信
	使が日本から唐辛子を朝鮮へ持ち帰ってからだそうだ。辛いキムチというのは、日本の唐辛子があったからこそなのであ
	る。



 

	
	「朝鮮通信使」については、実はこの展示会のサブタイトルにも「辛基秀コレクション」とあるように、青丘文化ホール
	の辛基秀(シンギス)代表を初めとする最近の研究に負うところが大である。辛基秀氏は大阪市在住で、長年の朝鮮通信
	使に関する研究の功により、平成9年度に第32回大阪市民表彰を受けた。同氏の収集した通信使関係資料は有名で、この
	度コレクションのうち、3件が大阪市に寄贈され、この特別展はそれを記念して開催されたのだ。

	江戸時代、あれほど純粋な国際交流として根付いていた「朝鮮通信使」の記憶は、明治時代になるとその朝鮮政策もあっ
	て歴史から消されてしまう。幕府と朝鮮王朝とが対等な立場で 200数十年間も、友好関係を続けていた事実を、明治新政
	府は押し隠し正史から悉く抹消してしまうのである。そして朝鮮との関係を「友隣」から「征韓」に変えてしまった。一
	般的に明治維新は、それまでの封建的、前近代的社会制度を一新させ、より近代的な社会へ移行した画期として知られる
	が、実は江戸時代のほうがほるかに優っていた政策も多々あるのである。





	
	「朝鮮通信使」の存在が広く注目されるようになったのは、ここ20年ほど前からだ。先述した辛氏らの研究により、徐
	々にその実体が判明してきた。老中土屋政直の命により、対馬藩が町絵師を数十名雇って道中の絵図を描かせたことや、
	各地に様々な「鮮通信使記録」が存在することもわかってきた。福岡県立図書館には「福岡藩朝鮮通信使記録」(もと黒
	田家文書:50冊)なども残っている。対馬藩で対朝鮮交流の窓口担当者として活躍した「雨森芳洲」が、ハングルばかり
	か方言までも覚えて、真の韓国理解を図ろうとした事などは、今日韓国でも高く評価されている。また各地の絵師や、名
	のある画家達によって描かれた多くの「朝鮮通信使」一行の行列図や風俗画は、研究・調査の結果、ボストン美術館、シ
	カゴミュージアム、ニューヨーク・パプリック・ライブラリー、フィラデルフィア、ロンドン大学、大英博物館などにも
	所蔵されている事が判明している。朝鮮通信使の存在が次第に浸透して行くに連れ、通信使が宿泊したりした全国のゆか
	りの地では、その歴史を見直そうという動きが広がっており、各種講演会や展示会などが催されている。








東京国立博物館の「朝鮮通信使」関係資料









	
	「寛永13年(1636)の通信使の行列を見た平戸のオランダ商館長、ニコラス・クーケバッケルは、行列全体が通り過ぎ
	るのに5時間かかったと日記に記していますが、これは決しておおげさではなく、事実と考えられます。行列は前後2km
	くらいになったでしょう。」「朝鮮国王の国書を携えた三使と、その世話をする人など使節団が五百人、さらに全行程を
	警護する対馬藩士八百人が、八ケ月から一年にわたる旅をするのですから、その荷物も膨大でした。それを運ぶために馬
	1000頭を集めたという記録もあります。」 徳島大学埋蔵文化財調査室長定森秀夫(さだもりひでお)氏

	沿道は綺麗に整備され、厳しい警護が敷かれたが、民衆は珍しい異国の文化に触れようと押し寄せ、物陰から或いは小高
	い丘から、せめて一目なりともと興味津々で見入っていた。江戸市内の沿道では、商家が桟敷席を設けて料金を取って見
	物させる所もあった。



	
	「幕府が招待した朝鮮通信使の費用は、すべて日本側が持ちました。幕府はその費用の大部分を各大名に押しつけ、大名
	は領地内の百姓に負担させました。一説には、一回の使節を迎えるのに、百万両くらいかかったとも言われます。」
	京都造形芸術大学客員教授仲尾宏(なかおひろし)氏
	反対に、日本から朝鮮への使節派遣については、幕府は再三朝鮮側へ要請したようであるが、朝鮮側からやんわりと婉曲
	に拒否され、一度も実現していない。「秀吉出兵」のしこりは、日朝双方に色濃く影を落としていたのである。
	幕末期には政情が不安定になったことと、幕府・諸藩の財政も苦しくなり通信使を迎えることが困難になった。結局文化
	八年の通信使が、最後の朝鮮通信使となったのである。
	「文化八年の国書伝達が対馬で行われたのは、経費削減を考えてのことでした。その後も幕府は何度か招聘を企画し、天
	保八年(1837)に家慶(いえよし)が将軍になった時には、大阪で聘礼(へいれい)するすることを計画しますが、老中
	水野忠邦の失脚などで先延ばしになっています。」前出:仲尾氏






	朝鮮通信使秘話
	
	この朝鮮通信使を巡る歴史には様々な秘史がある。秘史と言うくらいだから、あまり一般に知れわたる事はないのだが、
	ここで対馬の宗氏にまつわる話を3つほど。

	【国書改竄】

	対馬の宗氏は、その地理的位置関係から朝鮮と日本の間の通商をほぼ独占してきた。徳川になって、改易や国替えが盛ん
	に行われても、宗氏は朝鮮貿易のノーハウの故にその所領は安泰だったのである。そんな宗氏にとって、豊臣秀吉の朝鮮
	出兵は、はなはだ迷惑な話だった。戦後、宗氏は独自に朝鮮と日本の関係修復を試みる。そして家康の後押しもあり、慶
	長14年(1609)、明治に至るまでの朝鮮との基本条約ともなる「己酉(きゆう)条約」が締結される。
	国書の改竄(かいざん)はそんな中、外交上のテクニックとして始まったと言えよう。もっとも、宗氏はそれまでも何回
	か類似の行為を行っていたふしがあるので、現在の「公文書偽造」のような罪の意識は薄かったと思われる。

	発端は、李氏朝鮮側の講和条件にあった。
	(1).朝鮮侵略の際、朝鮮国王の墓を荒らした犯人を引き渡せ。
	(2).国書は日本から先に差し出す事。
	朝鮮側としてはしごく当然の要求であるが、宗氏には難問だった。宗氏はいずれも偽造する事を決断する。(1).には対馬
	の罪人をあて、(2).は日本国王印を偽造して国書を造ったのである。朝鮮側でもこの国書は疑問視していたようだが、と
	もかく慶長12年(1607)、「回答兼刷還使」を派遣する。前述したように、回答というのは宗氏が偽造した国書に対す
	る、朝鮮側から謝罪の要求等々を列記した回答書の形式を持っていた。宗氏にとってこれまた難局だった。宗氏は、正式
	な国書を元に改竄した国書を用意し、江戸城内で、電光石火すり替えたと伝えられる。この使節が持ち帰った幕府の国書
	には、「日本国王」の文字が無かったため大問題となった。先の国書にはあった文字がないのである。朝鮮は前回同様
	「王」の文字を要求する。徳川幕府では、朝鮮に対しては日本国某とは書いても、日本国王とは書かなかったのだ。これ
	以降、宗氏は日本の国書も改竄する。それから数次の国書交換、2回(計3回:2回目は京都から引き返す。)の「回答
	兼刷還使」来日が行われるが、寛永10年(1633)対馬藩にお家騒動が持ち上がり、これが幕府の知る所となった。そし
	て国書の改竄が発覚するのである。

	3年に渡る審議の結果、宗氏は存続と採決された。日本・朝鮮それぞれの思惑を一手に背負った事に対する情状酌量、古
	くからの各種儀礼の調整役として必要な存在と判断されたのだ。これ以降、使節団の名前は「通信使」と改められ、国書
	には「日本国大君」の称号が使われた。宗氏はもう改竄の必要がなくなったのである。


	【鎖国下での海外旅行】

	江戸時代、長崎の出島および朝鮮通信使の来日で、日本国民は僅かながら異国の風を嗅ぎ取る事ができた。しかし鎖国下
	にあっては、海外旅行など夢のまた夢だった。唯一、対馬の宗氏関係者が、釜山にある倭館へ行くことを許されていただ
	けである。それとても、館内から外へ出る事は許可されていなかった。それは秀吉による2度の朝鮮侵攻、即ち文禄・慶
	長の役(朝鮮では壬辰・丁酉倭乱)に際して、日本使節の上京路が秀吉軍の侵攻路として使われたという苦い経験からく
	る措置だった。

	そんな中江戸時代を通じての唯一の例外が、寛永6年(1629)に対馬から派遣された、規伯玄坊(きはくげんぼう)とい
	う僧侶を正使にした使節の一行である。そのころ朝鮮は、中国に興った満州族の国「後金」による侵入に苦しんでいた。
	2年前の寛永4年には、都の漢城(ハンソン=ソウル)まで侵入されたほどだった。その情報を知った宗氏は、朝鮮に恩
	義を売ろうと武器援助・援兵派遣を申し出て、幕府にも知らせた。幕府も賛成し漢城に使者を送るよう指示してきた。朝
	鮮側は国王が強く反対したが、北方の危機に備えるため対日関係を利用しようという意見が通り、例外的な措置として一
	行の上陸が許可されたのである。

	4月6日に一行19人は釜山の倭館を出発した。梁山(ヤンサン)−密陽(ミリヤン)−清道(チョンドク)−大丘(テ
	ーグ)−仁同(インドン)−善山(ソンサン)−尚州(サンジュ)−咸冒(ハムモ)−聞慶(ムンギョン)−忠州(サン
	ジュ)という行程を経て、ここから漢江(ハンカン)を舟で4日間降り、22日に漢城に到着した。18日間の旅だった。
	途中世話人に、当時朝鮮では珍しかった胡椒や煙草を贈るなどして使節団は気をつかい、朝鮮側も風呂好きな日本人の為
	に盥(たらい)を用意してくれるなど、ほのぼのとした交流があった。
	漢城で一行は25日に国王と謁見したが、日本からの援兵問題は断固拒否の姿勢が強いと見た使節は、幕府にも隠してい
	た本来の目的を切り出す。それは対馬藩による木綿の輸入許可であった。朝鮮側は、思いも掛けない使節の要求に驚き協
	議するが、結局拒否の方針を告げる。それを聞いた使節は、朝鮮側の慰留も聞かず直ちに漢城を出ると釜山へ向かった。
	勿論援兵など、もう頼まれても知らんぞと臭わせた事だろう。結局朝鮮側が折れて、釜山に帰り着いた一行に木綿輸入許
	可の知らせが届く。目的を達した一行は、朝鮮国内旅行の土産とともに、意気揚々と対馬へ引き上げたのである。


	【新発見!朝鮮通信使の舞台裏 対馬藩の”賄賂作戦”メモ】

	<対馬発>
	長崎県美津島町旧家の土蔵から、朝鮮通信使の舞台裏を物語る古文書が百数十点、発見された。この古文書は、江戸時代
	に朝鮮の釜山に置かれた日本の外交出先機関「草梁倭館」(チョウリャンわかん)で朝鮮語大通詞(だいつうじ:通訳の
	長)をつとめた小田幾五郎が記したもの。九州大学大学院教授松原孝俊(まつばらたかとし)氏らが平成14年1月発表
	した。
	朝鮮通信使は、江戸時代を通じて12回来日しているが、江戸に迎えると、約100万両もの巨費が必要だった。財政難
	にあった幕府は文化八年(1811)の通信使を迎えるに際し、国書交換地を対馬にしたいと申し入れた。しかし朝鮮側は旧
	例にこだわり、問題が紛糾。新発見の古文書には、この時、朝鮮と幕府の間に立った対馬藩の苦悩が綴られている。交渉
	が決裂すれば、幕府から支給されていた運営費が出なくなり、朝鮮貿易の権益も失いかねない対馬藩は、朝鮮側をなだめ
	るため「賄賂作戦」に出た。対馬藩が支払った金額は「二千数百両」と記され、朝鮮側からの残金四百両の催促状なども
	残っており、賄賂工作の跡が生々しくうかがえる。




<上記写真: 福岡市博物館>




 









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<ご冥福をお祈りします。>


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	朝鮮通信使:友好関係を望む文書が見つかり公開される 京都 2003年04月26日 

	朝鮮王朝が江戸時代、外交使節として幕府に派遣した朝鮮通信使が携えた「朝鮮国礼曹参判書契(れいそうさんぱんしょ
	けい)」が京都市内の民家で見つかり、26日、京都造形芸術大(京都市左京区)で公開された。礼曹は外務省にあたる
	役所で、参判は次官。江戸時代、朝鮮通信使は計12回(1607〜1811)来日したが、現存が確認されている書契
	(文書)は初期の3回分だけで、今回発見されたのは中期にあたる1719(享保4)年のもの。
	八代将軍吉宗の就任祝賀に派遣された通信使が携えたとみられ、楮(こうぞ)を漉(す)いた紙を使用。幕府老中あてで、
	新将軍就任を祝うとともに、両国の末永い友好親善関係を求めている。
	鑑定した同大学の仲尾宏・客員教授(66)=日朝関係史=は「初期だけでなく、後の代になっても善隣友好を両国首脳
	が願っていた証拠で、貴重な資料」と話している。28日から同大学で始まる特別展で展示される。 【中村一成】

	[毎日新聞4月26日] ( 2003-04-26-14:01 )






朝鮮人街道
滋賀県近江八幡市 2003.5.4

	5月連休の中日、滋賀県近江八幡市の朝鮮人街道へ行った。市立歴史館の前にその道はあって、今片方は商店街へ続いてい
	る。京街道、浜街道とも呼ばれるが、街道そのものは狭い道である。こんな所を500人もが行列していたのかと、驚く。

 

上左が近江八幡市立歴史館。元はきっと公的な建物だったに違いないと思って受付の女の子に聞いたら、「警察署です。」

 


	江戸時代、江戸を中心に五街道が発達するが、その一つに中山道がある。江戸の板橋宿から近江国(滋賀県)の草津宿まで
	69次、516kmで、部分的に美濃路、木曽路とも呼ばれた。朝鮮通信使は京都から東海道を江戸へ向かい、草津から中山
	道へ入る。
	多くの朝鮮通信使は、往時に中山道を行き、復路に東海道を帰ってきたようで、その理由は琵琶湖を見たかったからだとい
	う。朝鮮通信使が日本訪問でいちばん見たがったのは、琵琶湖と富士山だそうだ。いずれも、朝鮮半島には同規模のものが
	存在しないからだろう。亨保年間( 1719年)、第9回の通信使一行に混じって来日した、使節の製述官(筆談による外交担
	当)である「申維翰」の残した「海游録」には、雨にけむる琵琶湖の広さが描かれ、中国の 洞庭湖とどちらが美しいだろう
	かと記録されている。



以下は近江八幡市立歴史館の「朝鮮通信使」関係資料。




	京都を出て草津より中山道へ入った一行は、守山で一泊した後、野洲町の行畑から中山道を離れて道を左にとった。これが
	いわゆる「朝鮮人街道」と呼ばれる道である。中山道よりもずっと湖岸に寄ったこの脇街道は、野洲町の行畑を起点に、近
	江八幡、安土、彦根を経由して、先の鳥居本でふたたび中山道と合流する。その間が41kmあり、特別に「朝鮮人街道」と
	名づけられて、現在でもかっての異国行列の面影を偲んで歩く人たちが絶えない。しかし41kmをまるまる1日では歩けな
	いのでガイドブック等を見ると2回に分けてあったり、途中で1泊したりのコースになっている。




	近江八幡では往路・復路ともに、正使・副使および主要な使節達が本願寺別院(金台寺)で、その他の随行員達は朝鮮人街
	道筋(京街道筋)の町屋の家々で昼食をとった事が記録されている。「宝暦十四申年正月朝鮮人来朝の節下行請取目録」と
	題した古記録には、献立以外に、使節随行員の数、部屋割り、接待した役人の名前などが詳細に記録されており、接待に使
	用する器に信楽焼一式を準備したと書かれている。数百人分である。まさに官民一体となった接待で、朝鮮通信使一行はこ
	ういう饗応を行く先々で受けており、それが8ケ月〜1年に渡って続くのである。一回の来日に掛かる総費用が百万両とい
	うのもうなずける。

 

 


	朝鮮通信使の日本滞在は、途中の行程も含んで長い時には1年以上に及んでいる。12回の来日で10回は江戸まで来てお
	り、その一行は全て同じようなコースを通っているのに、なぜ近江の琵琶湖畔を通る道だけを朝鮮人街道と呼ぶのだろうか。
	朝鮮人街道は、元々は安土城築城の時に資材を運ぶ道として、それまでの農道を繋げて拡げて作った道で、安土城ができて
	からは商人達が通る道になり、安土城炎上後は商人達が安土から八幡へ移って来て、宿も多く往来の多い道だった。徳川家
	康が上洛した時もここを通行したので、以後「吉例の道」となり、そのため朝鮮通信使の大行列を受入れる道に指定された
	のだろうと思われる。この招聘が始まって、特に通信使通行のため新たに整備されたので、ことさら「朝鮮人街道」と呼ん
	だのかもしれない。

 

 
	ガラス張りの陳列棚に収まる朝鮮通信使の瓦人形。寺社仏閣入り口の仁王を思わせる。
 
	朝鮮人街道はここから安土へとつづいている。通信使一行は荒涼とした安土城址を左手に見て、一路彦根へ向かった。




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