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奈良市美術館


2004.11.14(日曜)



		毎年行われる文化庁主宰の発掘速報展。今回も、2003年に全国各地で行われた発掘調査で注目を浴びた
		新発見の数々が展示されている。開催10周年記念のテーマ展示「あの遺跡の今」として、これまでに展示
		された遺跡の中から、特に話題となった遺跡が紹介されている。この速報展は全国を行脚しており、今年い
		っぱい掛けて各地の博物館・美術館を廻る。

		  ● 会期・会場:
		   6月1日(火)〜2月20日(日)   江戸東京博物館(東京都墨田区)
		   7月13日(火)〜8月15日(日)  群馬県立歴史博物館(群馬県高崎市)
           8月21日(土)〜9月19日(日)  花巻市博物館(岩手県花巻市)
           9月25日(土)〜10月24日(日) 石川県立歴史博物館(石川県金沢市)
          10月30日(土)〜11月28日(日) 奈良市美術館(奈良県奈良市)
          ● 地域展
		  10月12日(火)〜12月27日(月) 奈良市埋蔵文化財調査センター(奈良県奈良市)
          12月4日(土)〜1月10日(月・祝) 高知県立歴史民俗資料館(高知県南国市)
           1月16日(日)〜2月20日(日)  神戸市立博物館(兵庫県神戸市)
  		  ● 入館料:開催館により異なる。







 


		奈良市立美術館は、長屋王の祟りで潰れた「奈良そごう」の後を引き受けた、イトーヨーカドーの中にある。
		元長屋王の邸宅があった場所である。ここの5階に奈良市立の美術館があって、今年の発掘速報展はここで
		開催されている。昨年は京都の園部までいったが、大阪高槻市の今城塚古墳から出た埴輪群がみものだった。
		しかし解せないのは、前回の園部文化博物館では撮影自由だったものが、今回は禁止になっていたことだ。
		この速報展は撮影自由になったものだとばかり思っていたが、どうやら会場となる博物館・美術館の裁量に
		まかされているようである。ここは撮影禁止となっていて、奈良国立博物館といい、橿原考古学研究所とい
		い、奈良は、文化財の多さの割にはその文化度は低いようである。
		今回の見学は、大阪府文化財センターの11月例会の一環である。ここを見た後、興福寺など奈良市内を巡
		って解散というスケジュールだったが、私は午後予定があったので、ここを見学した後大阪へ戻った。朝十
		時の開館すこし前に押しかけて並ぶ。撮影禁止の隙間をぬって数枚撮影したが、とても全部はカバーしきれ
		ない。まったく写真撮らせて何を損するっちゅうんじゃ!
		と言うわけで、ここに掲げた写真の一部は、以下の文化庁編・朝日新聞社発行の「2004発掘された日本列島」
		からSCANした。



 






		会場入口を入ったところの正面に、群馬県吉井町II遺跡一号墳から出土した、古墳時代の埴輪が立っていた。
		「発掘された日本列島」展は今年で10回目を迎えるが、今回は全国35の遺跡から842点に上る出土品
		を選び、展示されている。また期間中地域展として「奈良市発掘速報展」が開催されている。






 
		【石器接合資料】 旧石器時代、早坂平遺跡出土
		早坂平遺跡は、後期旧石器時代後半(約2万年前)に石刃が大量に生産された石器製作工房跡地。昨年度ま
		での発掘調査により、遺跡の全体像が次第に明らかになってきた。写真は、石刃・剥片26点と石刃核1点
		が接合した資料。泥が固まり石化した黒色頁岩が素材で、石刃を剥離する際に、打撃する打面を上下に変え
		ながら連続的に石刃が生産されたもの。この石刃から当時の人びとがナイフ型石器など様々な石器を作って
		生活していたことがわかる


		九戸郡山形村早坂平遺跡(はやさかたい)現地説明会資料後期旧石器時代後半(約2万年前)の石材原産地遺跡
		日時:平成14年9月14日(土)13:30〜
		財団法人岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター
		(はじめに)
		岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センターでは『地方特定道路整備事業』の施工に伴い、土地改変によって
		早坂平遺跡の一部が消滅するため、遺跡の記録保存を目的とする緊急発掘調査を行っています。早坂平遺跡
		は古くから地表面に露出した遺物の採取によって、その存在が知られていましたが、1989年の早坂平遺跡調
		査団による調査及び当埋蔵文化財センターによる2001・2002年度調査によって遺跡の全体像が次第に明らか
		となり、これまでに旧石器時代と縄文時代の遺構・遺物が発見されています。
		(調査概要)
		 所 在 地    九戸郡山形村大字川井第4地割37-5他
		 事 業 名    地方特定道路整備(代行)
		 調査予定期間   平成14年4月8日〜10月31日
		 調査対象面積   1280平米
		(遺跡番号・略号) J F46-0039・HST-02
		(調査担当者)   文化財調査員 北村忠昭・長村克稔・米田 寛
		(協力機関)    山形村教育委員会
		(委託者)     久慈地方振興局土木部
		(遺跡概要)
		早坂平遺跡は山形村役場から北東に約3km離れた岩手県九戸郡山形村川井第4地割に所在し、川井川と遠別川
		によって形成された標高220〜240mの河岸段丘面上に立地します。遺跡の周辺は旧地名でr沼袋」と呼ばれて
		いますが、これはかつて遠別川に存在した滝によって水の流れが緩やかとなり、遠別川と川井川の合流地点
		付近に水が溜まりやすい状況だったことに由来します。地名からも遺跡周辺での豊富な水資源のあり方を思
		い描くことができるでしょう。さて、遺跡周辺では石器づくりに適したガラスのようにパリパリと割れる石
		が豊富に産出します。これは泥が固まって長い年月を経過して石化したもので、「黒色頁岩」と呼んでいま
		す。早坂平遺跡では旧石器時代に黒色頁岩を利用して巧みに石器をつくりだしていました。しかし、縄文時
		代に入ると前期前半(約6000〜5500年前)と中期の終わり頃(約4000年前)には集落が営まれるようになります
		が、なぜか黒色頁岩はあまり利用されていません。それ以隆遺跡は土地傾斜に沿って陥し穴を設けるワナ猟
		の場として利用されていたようです。
		(遺跡に堆積した土は何を語る?)
		皆さんのお家にはゴミ箱があるでしょう。空っぽのゴミ箱に毎日ゴミを入れ続けていっぱいになった時、か
		なり前に捨てた物とつい最近捨てた物ではゴミ箱をかき混ぜていない限り、「古い物は下に、新しい物は上
		に」あるはずです。遺跡を大きなゴミ箱と考えてみるとこれと同じことが言えます。遺跡では大抵古い土や
		石器が下に、新しい土や石器が上にあります。では、早坂平遺跡ではどのような土や石器が新旧関係を持っ
		て存在するのでしようか。
		(土の堆積)
		早坂平遺跡ではかつて川が流れていた頃(3万年以上前)の砂や礫を多量に含む層や沢状の窪地によく見られ
		る粘土層、厚い岩盤の崩落によってできた層、十和田火山(現十和田湖及びその周辺)を給源とする火山灰が
		多量に含まれる層など、様々な土層を見ることができます。これらの土層が遺跡の中でどのような広がりを
		もっているか識別するために上(新しい方)から順に番号を付けて見ました。ここではXV層まで紹介します。

		I・II層 黒褐色〜黒色土層
		     表土層。砂利石や植物の根などが見られる。畑として利用したときの耕作土を含む。
		III 層 黒褐色〜暗褐色土層  縄文時代の住居跡や陥し穴の検出面で、土器・石器などが見つかる。十和
			 田火山を給源とする火山灰(十和田中掫To-Cu)を含む層。約5500年前に降り積もったと考えられ
			 ている。
		IV 層  暗褐色〜黄褐色土層  十和田火山を給源とする火山灰(十和田南部浮石 T o-N b)を含む層。
			 約8600年前に降り積もったと考えられている。
		V 層  褐色土層    遺跡内のごく一部に見られる。
		VI・VII層 黄褐色土層  十和田火山を給源とする火山灰(十和田八戸火山灰 To-H)を含む層。約12650年
			 前に降り積もったと考えられている。旧石器時代遺物の包含層で「荒屋型彫刻刀形石器」が出土
			 している。
		VIII層  褐色土層       遺跡内では東側のごく一部のみ見られる。
		IX層   明褐色土層      しまりのある粘土層。沢筋によく見られる。
		XI層   明褐色〜褐色土層   黒色頁岩で作った石器が多量に出土する層。水の影響を受けているとこ
			 ろでは若干暗い色合いに変色する。
		XI層   黄褐色〜褐色土層   花崩岩礫が多量に含まれる層。岩盤の崩落が起こっていたことを示す層。
		XII〜XIV層  褐色土層     それぞれ遺跡内では部分的にみられる。灰白色粒子を含む場合がある。
		XV層  黄褐色〜褐色土層    十和田火山を給源とする火山灰(十和田大不動火山灰 To-Of)を含む層。
					    約30000年前に降り積もったと考えられている。

		(発見された遺構)
		(陥し穴) 
		動物を捕らえるために掘られたと考えられています。ワナ猟の代表的な遺構です。昨年度は遺跡全域で陥し
		穴が96基近く見つかり、今年度も北側調査区で7基発見されました。すべて縄文時代の構築物と考えています。
		河川合流地点に向かって山側から獲物を陥し穴の密集地帯に追い込んだのでしょうか。過去に穴に落ちた獲
		物はどのような動物だったのでしょうか。なお、発掘調査中にも、ネズミ、モグラ、カエルなどが穴に落ち
		ていました。
		*当遺跡では、縄文人が絶妙な場所に陥し穴を設置しているため、危険をともなう場所がありますので遺跡内
		では足下に十分注意してご見学下さい。
		(発見された遺物)
		2001・2002年度の発掘調査で出土した遺物は縄文時代の土器・石器(早期から晩期で前期・中期中心)と旧石
		器時代の石器です。昨年度の調査では縄文時代の遺構・遺物を中心に調査しました。今年度は旧石器時代調
		査がメインです。ナイフ形石器・彫刻刀形石器・スクレーパー・細石刃・石刃・石核などが見つかっていま
		す。さて、旧石器時代の遺物についてご紹介します。早坂平遺跡では少なくとも2時期の生活痕跡が確認さ
		れています。一つは旧石器時代末に東北・北陸や東北の日本海側で産出するr頁岩」を利用するr荒屋系細石
		刃石器群」です。現在まで岡山県や南関東でも発見されている石器群ですが、太平洋側での類例は少なく東
		北北部では非常に貴車な資料と言えます。約12,650年前に堆積したと考えられる十和田火山を給源とする火
		山灰(To-H)の直下とその中から出土しました。
		もう一つは今年度調査の主体である在地の黒色頁岩を利用した石刃石器群です。黒色頁岩で作られた道具は
		極めて少なく、遺跡に残るのは石器作りの過程で残った石核・剥片・砕片などいわゆる残津が主体です。
		これに対し、おそらく奥羽山脈方面から運ばれた石材はナイフ形石器・掻器・彫掻器など、道具が多く見つ
		かっています。
		(終わりに)
		早坂平遺跡は現在も調査中で、毎日新しい情報が得られております。今後新しい成果を公表できるよう努力
		していくとともに皆様のご助言・ご指導を賜りたくお願い申し上げます。近くにお越しの折りは気軽にお立
		ち寄り下さい。最後になりましたが、今回の調査にご協力頂いた久慈地方振興局土木部並びに山形村教育委
		員会をはじめとする諸機関、並びに地元住民の方々に御礼申し上げます。

		
		早坂平遺跡出土ナイフ形石器と荒屋型彫器(縮尺2:3)


		
		早坂平遺跡遺構配置図




 

 




		【異形台付土器】 縄文時代後期、井野長割遺跡
		2003年に第7回、第8回の調査が行なわれ、直径160メートルの環状盛土の発掘がすすむ井野長割遺跡の土器。
		環状盛土とは、人工的につくられたドーナツ状に盛り上げた小さな山。縄文時代にも大規模な土木工事が行
		なわれていた。特殊な形から「異形台付土器」という名がついたこの土器は祭祀や儀礼との関連が考えられ、
		どうしてこのような環状盛土がつくられたかを解明する手がかりとなる。

		第8次調査(平成15(2003)年8月1日〜29日)(財)印旛郡市文化財センター

		第8次調査区は、第7次調査で見つかった2基の大きな柱穴の性格を探ることを主な目的として実施した。
		また、第6次調査で推定された西側盛土の限界部分まで調査区を拡張して遺構の分布を確認した。表土下20
		センチメートルほどは第7次調査区と同様に学校建設の破壊を受けていたが、その下には縄文時代の遺構が良
		好に残っており、約600平方メートルを掘り下げた。調査区の北西から南東に向かって帯状の空白部分が認め
		られ、その両側から遺構が検出された。遺構空白部分を北西側に追いかけていくと谷に至ることから、谷か
		ら集落へ通じる「縄文の道」と推定される。
		北側で検出されたピット群は住居の柱穴と考えられる。その中で、深さ180センチメートルにもなる深い柱穴
		(10,11号土坑)が2基確認された。第7次調査区で発見された柱穴と規模・形状が酷似し、一定の間隔に位
		置していること、出土する土器片も類似することから、全体で建造物を構成する柱穴と推定される。
		南側で発見された土坑群は、貯蔵穴と墓穴と考えられ、複数が重複している。南西側の土坑は貯蔵穴と推定
		される円筒形の大型土坑で、底面中央に小さなピットが掘り込まれる特徴がある。これらはどれも深く掘り
		込まれているが、中でも9号土坑は深さ3メートル近くにもなり、中ほどから後期末葉の瓢形(ひさごがた)
		の注口(ちゅうこう)土器がほぼ完形で出土した。
		一方、北西側に向かうにつれて楕円形の浅い土坑が目立つようになる。これらは「縄文の道」に沿って一列
		に並ぶように配置されていること、完形の浅鉢型土器などが出土することから、墓と推定される。
		「縄文の道」は南側でも発見されていることから、谷から集落へ通じる道は何本かあり、沿道に墓を配置す
		る風習があったと推測できる。こうした事例は中期の青森県三内丸山遺跡にあるが、それ以外では類例が見
		当たらない。後・晩期では初出の事例である。
		面的な調査により、沿道に墓を連ねた「縄文の道」をはさんで住居群と土坑群が展開するという遺跡構造の
		一端が明らかになった。同時に、遺構が造られるのは盛土部分周辺と考えられることから、「縄文の道」の
		南北にそれぞれ独立した盛土があった可能性が高くなった。失われた盛土を復元する手掛りを得ることがで
		きたのは今回の調査の大きな成果である。









 

 











 


		<奴国の首長墓の発見、安徳台遺跡の巨大甕棺墓> 弥生時代中期、安徳台遺跡群

		安徳台遺跡は福岡県那珂川町にある遺跡である。那珂川町は福岡市の南に位置し、吉野ヶ里遺跡などが近く、
		過去6年の発掘調査により弥生時代の集落跡が発見された。そして2003年5月、弥生時代中期後半で全
		国最大級の円形住居跡(竪穴住居)が見つかった。首長とみられる人物の甕棺墓も発見された。同遺跡群は
		『魏志倭人伝』に記され、この発見は福岡平野で栄えた奴国の中でかなり有力な拠点集落の首長の墓で、奴
		国解明の大きな手がかりになるといわれている。
		巨大な二基の甕棺からは、髪飾りに使われていたとみられるさいかん(塞杆)状ガラス製品が、頭骨近くに
		2本ずつあり、男性人骨があった甕棺からは権威の象徴とされるゴホウラ貝輪43点が右腕の骨にはめられ
		た状態で見つかった。台地上から発見された10基の甕棺墓群には多くの甕棺があり、現在展示中のものは
		最も古く、高さ115センチもある巨大なものである。
		展覧会では、巨大な甕棺とともにこの管玉、匂玉、ガラス器などの装身具の副葬品も展示されている。安徳
		台遺跡の甕棺墓の一帯は首長クラスの墓地と考えられ、「奴国」の中心的な集落であることと推察される。

 

福岡県の安徳台遺跡群から出土した甕棺。奴国の首長らしき男性がこの中に埋葬されていた。




















		【埴輪群】 古墳時代、中原U遺跡
		中原U遺跡の円墳の横穴式石室入口から出土した埴輪。約1500年前の古墳時代のもの。すべて樹立した状態
		で発見された。馬形埴輪は、背中の鞍、馬にのる人が足を踏みかける鐙、革ひもなどの細部や、装飾文様に
		も注目される。馬形埴輪は高さ102.8センチ。人物埴輪も一番大きなものは、83.2センチにも及ぶ。 











墨書人面土器 宮城県多賀城市・市川橋遺跡 約1200年前(奈良時代末〜平安時代前期)












		【和鏡】 平安時代後期〜室町時代、阿豆佐和気命神社遺跡
		阿豆佐和け気命神社=延喜式神名帳に名を残す式内社=境域の発掘調査で出土した和鏡。これによって伊豆
		諸島において鏡を用いた祭祀が中世まで続けられていたことが判明した。本遺跡は、利島がどのように位置
		付けられたかを解明する中世祭祀遺跡として高く評価されている。 





 









 
















		【金箔押し瓦】 安土桃山時代〜江戸時代初期(約390年前) 大坂城遺跡
		昨年12月、大坂城遺跡では、慶長19年(1614)の「冬の陣」後に埋められた堀跡と遺物が多量に出土した。
		これまではっきりとしなかった大坂城三の丸の位置も判明し、堀の底に埋め立て用の道をもうけて一気に埋
		め戻された様子がわかる。写真の金箔瓦は、豊臣期の大坂城を飾っていたもの。金箔の残りが極めて良質で
		ある。 







 

 

 

 







 

 

 



 

 

 







 

 







 

 

	
	    『遺跡保存方法の検討−水中遺跡−』文化庁 平成12年 より
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		【鷹島海底遺跡の既往の調査】
		
		昭和55年度(1980)〜昭和57年度(1982)
		文部省科学研究費特定研究「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」のうち「水中考古学に関する基礎
		的研究」による調査   茂在寅男「水中遺構・遺物の探査並びに保存に関する研究」(1984年)
		※音響測探機による海底探査やダイバーによる遺物の引き揚げ作業を行った。また、海底上の砂泥を吸い上げ
		るエアーリフトを試作し、使用実験を行った、

		昭和58年度(1983)7月25日〜9月23日
		床浪地区港湾事業(防波堤建設)にともなう緊急発掘調査(460u)
		鷹島町教育委員会・床浪海底遺跡調査団『床浪海底遺跡』(1984年)

		平成元年度(1989)6月8日〜8月6日
	  	床浪地区港湾事業(埋立て・浚渫)にともなう緊急発掘調査(1400u)
	  	試掘調査1988年9月1日〜20日  鷹島町教育委員令『鷹島海底遺跡』(1992年)
	  	※海底のシルト層をエアーリフトにより吸い上げる排土作業をともなった、初めての本格的な海底発掘調
	  	査となった。
	  	平成元年度(1989)〜平成3年度(1991)
	  	文化庁による調査研究事業「遺跡保存方法の検討」による調査

		平成元年度(1989)〜平成3年度(1991)
		文部省科学研究費補助金(総合研究A)「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する
	 	基礎的研究」(研究代表者西谷正九州大学文学部教授)による調査
	 	『平成元年〜三年度科学研究費(総合研究A)研究成果報告書』(1992年)

		平成4年度(1992)7月20日…9月5日
	  	床浪地区港湾事業(防波堤建設)にともなう緊急発掘調査(2400u)『鷹島海底遺跡U』(鷹島町文化財
	  	調査報告書)第1集(1993)  ※水深25mの位置から縄文時代早期の遺跡を発掘調査した。

		平成6年度(1994)10月11日〜12月12日

		平成7年度(1995)7月17日〜9月7日
	 	神崎港改修工事(防波堤建設)にともなう緊急発掘調査(2400u)『鷹島海底遺跡V』(鷹島町文化財調
	 	査報告書)第2集(1996)


 



 

 














		<地域展のご紹介>
		「発掘された日本列島展2004」の開催中は、「地域展 出土遺物から見た奈良市の歴史」として、奈良市の
		発掘調査のなかから、縄文時代〜室町時代の各時代を代表する遺跡物を中心に展示します。中核展示にも出品
		されている「大安寺」の瓦など、中核展示の遺物と関連性のあるものを中心に展示しますので、比べてみるの
		もおもしろいでしょう。
		なお、奈良市埋蔵文化財調査センターでも、地域展「出土遺物から見た奈良市の歴史―奈良市指定の文化財―」
		として、奈良市の指定文化財についての展示を行いますので、こちらも同時にご観覧ください。
		(奈良市美術館 学芸員 川口拡之) 



 

上右は、唐古・鍵遺跡のヒスイの勾玉、と、下は推古天皇母子の墓とされた植山古墳からの出土物。

 




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