Sound: moonriver



奈良国立博物館 2

平成16年正倉院展



	全館撮影禁止はそのままだと思うが、私の、「博物館の写真撮影禁止について」(博物館巡りの「吉備路郷土資料館」を
	参照されたし。)を読んで共鳴してくれている、北九州の添田さんが、平成16年の「法隆寺展」に行った記録をCDで
	送ってくれた。SCANした画像も含まれていたが、一般の常設展と併せてここに掲載する。
	(その後聞いたところではやっぱりまだ撮影禁止で、なんと公式には筆記具も展示室内には持ち込み禁止だという。絶句
	してしまう。なんという・・、何のための博物館なのかと呆れる。)


	奈良国立博物館・本館。明治27年に建てられた、全館レンガ造のフレンチルネッサンス様式の建物。重要文化財。壁面
	の黄土色は、東欧に多いメディチ家の色、マリアテレジアイエローに仕上げてあり、奈良には数少ない西洋建物である。
	平成10年まで2年掛かって内外装をリメイクしていた。下は、毎年正倉院展が行われる新館。




	近鉄奈良駅から奈良公園を目指し、興福寺を通り抜けて5分ほど歩いた所にある奈良国立博物館は、東京国立博物館・京
	都国立博物館と並んで日本の三大国立博物館だったが、来年開館する九州国立博物館を加えて都合、4大歴史博物館とな
	る。しかし、先進諸国のなかでは国立博物館としては一番すくない数である。韓国には国立博物館が11もある。
	しかも数年前から、小泉内閣の行政改革のあおりをくらって、4博物館とも、もはや国立博物館ではなく、独立行政法人
	となった。全国平均所得の倍近い高給取りの官僚達はそのままにして、こういう文化度の高い機関の予算を削ってしまう
	小泉内閣の施策は、全く国民を馬鹿にしているとしかいいようがない。それに怒らない国民も国民である。

	毎年秋、10月から11月にかけて「正倉院展」が開かれ、今年で56回目になる。正倉院とは東大寺寺域の西北に位置
	する宝庫で、東大寺にある財宝類を納めた蔵であり、北倉・中倉・南倉の三倉から成る。国宝の薬師如来坐像など、ここ
	へ来なければ見れないような文化財がひしめいているが、この正倉院展は地方巡回を行わず、短期間この博物館でしか開
	催されないので、近畿圏に住んでいる人はもっとありがたがって見に行くべきかも知れない。

 



 


東大寺大仏開眼法要で使われた伎楽(ぎがく:中国南方伝来の舞踊劇)の面。

 


	赤漆欟木胡床(せきしつかんぼくのこしょう) (床高42.5cm、背もたれ高48.5cm) 

	肘付きと鳥居型の背もたれが付けられた四本脚の大型いす。正倉院宝物として伝わるいすは、これ一つだけだ。材質はケ
	ヤキで、4本の脚には角材を使用。脚と背もたれに貫きを通して装飾と同時に補強を図っている。また、肘付きの四隅に
	和様の欄干で見られる擬宝珠(ぎぼし)を付け、脚や座面の角材などは金銅製の金具で装飾している。
	全体は、木地をマメ科の木の煮出し汁で赤褐色に染めてから透漆(すきうるし)を塗り、木地の色と木目を美しく見せる
	「赤漆」の技法が使われている。このいすは、明治期に宝庫から発見された部材をもとに復元されたもの。欠損していた
	脚部の金具や籐(とう)編みの座面などは、残った部材を参考にして新たに作られた。
	製作当時は、まだ生活の中でいすを使う習慣はなく、儀式の際などに中心的役割を担う相当に位の高い人物が用いたもの
	と考えられている。座面が現代のいすと比べて広いのも、足を垂らした状態で座るのではなく、この上で足を組んでいた
	ことを物語る。(奈良新聞)




	楓蘇芳染螺鈿槽琵琶 (かえですおうぞめらでんそうのびわ) (長さ97cm、最大幅40.5cm)

	西アジアを起源とする国産の四絃琵琶(しげんのびわ)。琵琶本体にはシタン材が用いられる例が多いが、これはカエデ
	製。マメ科のかん木の煮出し汁で全体を染め、シタンの色に似せている。ただし重量までは真似できず、ずっしりと重い
	らしい。また、貝をはめ込んで装飾する螺鈿(らでん)の材料には、通常南洋産の夜光貝が使われるが、正倉院宝物の中
	で唯一、日本近海で採れるアワビを使用している。
	そんな違いはあるが、全体の装飾は他の宝物同様豪華そのもの。表板の絃をはじく部位には、皮を張って日本固有の白色
	顔料を塗付。その上に、山や渓谷を背景にした白像に乗る大陸の楽人らが山水画のように描写される。さらに背面には、
	アワビと琥珀(こはく)をはめ込む手法で、唐花や飛ぶ鳥の文様が華やかに描かれている。
	主体部から伸びる柄は、絃を張る部品の手前で直角に折れ曲がる。ゆるやかな曲線を描く形状に変化する中国製の琵琶に
	対し、以後日本独特の形式として定着する。実は、現代の琵琶は形、大きさとも天平の琵琶とほとんど変わらない。
	天平期に国産琵琶の原型が出来上がっていた。もっとも、正倉院の琵琶ほどの装飾までは伝承されていない。(奈良新聞)

 

 


	紫地鳳形錦御軾 (むらさきじおおとりがたにしきのおんしょく) (長さ79cm、幅25cm、高さ20cm) 

	聖武天皇が愛した600点を超える品々は、死後に東大寺の盧舎那仏(るしゃなぶつ=大仏)に献納された。その際の献
	納目録が「国家珍宝帳」。これは、そこに記されている2つの肘付きのうちの1つ。内部の状態は長らく不明だったが、
	エックス線を使った調査で明らかになった。芯(しん)は、植物繊維を編んで薄い畳状にしたものを何層にも積み上げた
	構造。それを綿や布で包んだ後、さらに麻や絹の布でくるんだ手の込んだ作りだった。
	外側に張られた紫地の錦は、経(たて)糸が単色で、横糸は緯(ぬき)糸に色系を使って文様を描く緯錦の手法で織られ
	ている。文様は、羽を広げた鳳凰(ほうおう)を葡萄唐草(ぶどうからくさ)文で囲んだものが主体。周囲には唐花文を
	描く。華やかな印象を与える文様は、奈良時代に好まれた様式をよく伝えている。
	奈良時代の肘付きは、通常は体の正面に置き、両ひじを同時につく形で使用された。けれども、この肘付きはそうした肘
	付きに比べると、高さが低くやや小ぶり。脇に置いて片ひじをついたり、現代のクッションのように使われたのではない
	かとされ、天皇がくつろいでいた様子がしのばれる。(奈良新聞)

 


	鳥獣背八花鏡(ちょうじゅうはいのはっかきょう) (直径43.1cm、厚さ1cm) 

	周囲が8つの花弁型をしていることから八花鏡と呼ばれる白銅鏡。銅とスズ、鉛の割合から中国鏡と推定される。正倉院
	に伝わる鏡では6番目の大きさだが、八花鏡で直径が40cmを超えるものは院外のものを含めても極めて珍しい。
	鋳上がりのいい背面の文様は迫力を持つ。文様を描く面に内、外区といった区域を設けず、通常の二倍程度の比率、一枚
	絵の形式で鳳凰(ほうおう)や霊獣を表現しているためだ。また、霊獣が旋回する天地左右があいまいな形式ではなく、
	天地が明確な図柄にしたことも、どっしりとした安定感を与えている。
	2頭の鳳凰は帯状の装身具をくわえ、片方の羽を上方に広げ、一方を下げた形態で向かい合う。他の部分を見ると、片足
	は唐草のつるをつかみ、尾を巻き上げている。この意匠は隋や唐の工芸品でも見られるが、全体的におとなしい。鳳凰の
	意匠は時代とともに簡略化の方向に向かうが、この鏡のものは簡略、定型化する過渡期の姿と考えられている。
	霊獣の方は、上方に麒麟(きりん)、下方に獅子(しし)が描かれる。流れる雲の文様の間を四肢(しし)を広げて疾駆
	する姿と均整のとれた表情からは、雄々しさとともにりりしさも伝わってくる。(奈良新聞)
 
 


	平螺鈿背円鏡 (上右:へいらでんはいのえんきょう) (経26.8cm、重さ2365g)

	白銅鋳造製の円鏡の背面を、螺鈿や琥珀で飾った宝飾鏡で、「国家珍宝帳」に「円鏡一面 重大三斤八両 経九寸渋皮箱
	平螺鈿背 緋綾親盛 緋施帯」と記載されているのがこれであろうとされる。鏡背文様は連珠文帯によって内外二区に区
	画され、内区には鈕を中心に小花文を配し、外区には宝相華を四方に配してその間に小花文や蕾などを散らしている。文
	様はいずれも螺鈿技法を用い、細部に毛彫りを加えて表現しているが、花弁や花芯には朱彩を施した上に琥珀を貼るなど
	伏彩色の技法も見られる。また文様の間地には、トルコ石や青金石などの破片をちりばめている。この鏡は、鎌倉時代の
	寛喜二年(1230)十月二十七日の盗難により大破したが、値維持29年の修理により原状復帰したものである。
	(昭和63年、正倉院展図版)
	
 



 


	金剛合子 (上右:こんごうのごうす:南倉) (総高12.8cm、経8.8cm、重505g)

	蓋に二重座を持つ宝珠形の鈕を備えた印籠蓋造りの合子で、身に高台を付す。用途ははっきりしないが、宝庫に伝世する
	いわゆる塔毬形合子と同様香合として用いられたものだろう。銅鋳造ののち、轆轤(ろくろ)でひいて形を整え、と金を
	ほどこしている。(昭和63年、正倉院展図版)

 

 


	赤漆小櫃(石室のこびつ:上右) (総高33.0cm)

	カヤ材を用いた被蓋造(かぶせぶたづくり)の、四脚を備えた唐櫃である。櫃の側板は合欠組(あいがきぐみ:2枚組)、
	身の側板は五枚組と言われる組手接合法を用い、釘打ちしている。箱の内面は、蓋・身ともに素地のままであるが、表面
	は赤漆(せきしつ:材を蘇芳(すおう)等で赤く着色し、透き漆を塗って木目の美しさを出す塗り方)で、稜角の部分は
	一定の幅で四周に黒漆を塗る蔭切りの手法を用いて飾る。脚はヒノキ材で黒漆塗りとし、それぞれの脚には菱形鋲を3個
	打ち、また各2個の紐通し用の刳孔をあける。(昭和63年、正倉院展図版)
	
 

 

 




	佐波理匙 (さはりのさじ)

	匙面が円形と木葉形の二種の匙を一対とし、これを十組あつめて一束とした貴重な例。いずれも佐波理製の品で、おそらく
	踏み返し鋳造法を用いて、総体を平板の形で作り、匙面と柄はさらに打ち出し技法を使って整形し、鏨(たがね)で削り仕
	上げを施したと思われる。匙面、柄の長さ、厚みなど、各匙の間に多少の相違があり、そのあたりにも手作業ならではの趣
	が感じられる。類似の遺物は、統一新羅時代の遺構とされる、韓国慶州の雁鴨池、あるいは中国唐時代の遺構・陳西省慶山
	寺舎利塔基からの出土品にも見られる。(昭和63年、正倉院展図版)

 

 









 

 


	組帯 (上右:くみのおび)(長132.2cm 幅4.7cm)
	宝庫伝存の組帯は残片を含めると数千条に達する。種類は角組と平組に大別され、用途は、帯、幡の吊緒、服飾・調度の
	飾りなど多岐にわたる。またそれらの文様は、技法よりして、襷(たすき)、山道(ジグザグ文様)、矢羽根など、概ね
	幾何学的な直線模様に限られているが、さまざまな暈(うん)げん配色によって、文様の単調さをカバーしている。
	このような寒色系は比較的珍しく、殆ど損傷が無く、今造られたのではないかと思えるような鮮やかな色調を保っている。

 


	東大寺の創建に尽くした聖武天皇は、退位後の756年に激動の生涯を閉じた。遺愛の品々は、光明皇太后から大仏に献納
	された。これが先例となり、皇室と上層貴族の奉納も続いた。もともと正倉院は巨大寺院・東大寺の倉庫群の一つだった。
	このため、経典をはじめ同寺の財物や仏具、記録類もある。戦乱、地震などで大仏殿は再三、被災したものの、正倉院は奇
	跡的に災害を免れた。宝物の総数は計約9000件、10万余点にのぼる。織物や木工、皮革製品、紙など、注意を怠れば
	損壊するものも多く、保管、維持に長年、努力が払われてきた様子がうかがえる。また献納品の詳細な帳面や銘文などの記
	録があり、由緒来歴が確かなことも特徴だ。文書も多く、美術工芸の精髄であるとともに、歴史を復元するうえでも欠かせ
	ない重要資料である。

	<正倉院宝物はどう守られ、現代に伝えられたのか。>
	平氏の南都焼き討ちや戦国時代の兵火の際にも類焼被害を受けなかった。しかし、そうした幸運以上に、営々と宝物を守り、
	維持のために尽くしてきた役人や僧らの姿を想像したい。棟の続く3つの倉で構成される正倉院が、すべて皇室のものにな
	ったのは明治以降。それまでは、皇室分(北、中倉)を歴代天皇、東大寺関係を寺院関係の中央政府の行政機関・僧綱が、
	それぞれ「勅封」「綱封」という形式で厳重に管理したという。僧綱は、僧尼の人事や資財管理など仏教行政に当たった。
	ところが、古代国家の体制が衰退。中世以降は美意識の変化に伴い関心が低下して不測の事態が起きにくかった、との指摘
	もある。そんな時代にも耐えて、実質的には長く東大寺の役僧らが管理と運営を支えてきた。「文化史上の奇跡」正倉院。
	それは、東大寺による偉大な業績ともいえるのである。(2002年10月2日(水)朝日新聞)




常設展



坂本コレクション 中国古代青銅器

	世界に著名な美術商「不言堂」の坂本五郎氏が長年収集した中国青銅器380余点を奈良国立博物館に寄贈。そのなか
	から、爵・尊など商(殷)周時代のものを中心に様々な器種、240点が一般公開されている。坂本氏は、かつて「元
	染大壷」を1億8000万円余、又大阪市立東洋陶磁美術館収蔵の重要文化財「元染魚藻文壷」を8000万円余でオ
	ークションで入手して話題を呼んだが、それらを公共機関にそっくり寄贈した。なかなかできる事ではないが、庶民は
	そもそもオークションに参加することすらかなわない。
	坂本五郎氏については、日本経済新聞の「私の履歴書」に平成8年12月1日から31日まで連載されたものをまとめ
	た、「ひと声千両 おどろ木 桃の木 [私の履歴書]」坂本五郎著(日本経済新聞社発行)、がある。冒険とスリルに
	みちた出世ストーリーでなかなかおもしろい。

 

上右は饕餮文鼎。

 

上右、曲線文壺。西周後期(B.C.9〜B.C.8世紀)







爵、觚、長頸尊、觚形尊、方彝、罍、鼎、鬲、豆、盤、壺、鐘、扁壺、蒜頭壺、竈、博山炉、鎮子、鐃、ロ于などがずらりと並ぶ。




	中国の青銅器時代は紀元前2,000年ごろに始まり、夏(か)、商、周(しゅう)の三代を経て、紀元前3世紀(戦国時代後期)
	まで続きます。商・周時代の青銅容器は彝器(いき)とよばれ、世界の青銅器文化の中で最も発達したものと評価されて
	います。商(殷)代の彝器は主に祖先神を祭る宗廟の器で、それは祭器であり、礼器でもありました。
	周代に入ると祖先祭祀が形骸化し、代わって諸侯、卿大夫、士という身分秩序の象徴として所有する礼器の数が重要視
	され、また儀式用の音楽を奏するために楽器も発達しました。 
	饕餮文鼎  坂本コレクションには鳳凰文ユウ(商末周初期)のように美術作品として優れたものも少なくありませんが、
	商時代前半の二里岡期(B.C.17〜B.C.15世紀)から、商時代後期(殷墟期)、周時代を通して秦漢時代に至るまでの青銅
	彝器の大部分の器種が含まれ、各種の文様も観察されて、中国古代青銅器を理解する上で格好の作品群といえます。
	また中国古代史の歴史資料としても見過ごすことができません。(奈良国立博物館)









 

 


	奈良国立博物館

	[沿革・概要]
	--------------------------------------------------------------------------------
	 明治22年5月16日帝国奈良博物館を設立。
	 明治28年4月29日帝国奈良博物館開館。
	 明治33年6月26日奈良帝室博物館と名称変更。
	 昭和22年5月3日国立博物館奈良分館と改称、
	 昭和25年5月30日文化財保護委員会の付属機関となる。
	 昭和27年4月1日東京国立博物館奈良分館となる。
	 同年8月1日奈良国立博物館として独立。
	 昭和43年6月15日より文化庁の付属機関となる。
	 昭和47年3月31日新館完成。 旧館は京都国立博物館と同じく片山東熊の設計になるもので重要文化財。
	--------------------------------------------------------------------------------
	[所 在 地]	〒630 奈良市登大路町50
	[電   話] (0742)22−7771
	[開館時間]  9時〜16時30分(入館は16時まで)17時〜19時(火・金・修学旅行生の団体のみ申込要)
	[入 館 料]	平常展  大人420円 大高生130円 中小学生 70円
			特別展  大人790円 大高生450円 中小学生250円
	[休 館 日] 月曜日(月曜日が休日の場合は火曜日)、特別展前後に休館。12月26日〜1月3日休館。
	[交通案内]  JR奈良駅下車徒歩25分、または市内循環バス博物館前下車、近鉄奈良駅下車徒歩15分。
	--------------------------------------------------------------------------------





おまけです。近鉄奈良駅前の大看板。




邪馬台国大研究・ホームページ/ 博物館/奈良国立博物館