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三島市郷土館

二階展示場(民俗・三島暦)




 









 

 


	   日本では明治6年(1883)正月から、主に西欧諸国で用いられていた現在の太陽暦と24時間新時刻法が採り
	   入れられた。これにより、1年が365日、1時間が60分と、時間や曜日、各月の日数などの暦が定まった。
	   日本人の生活スタイルは、学校も汽車も工場も、それまでののんびりしたものから、時刻に正確なものとなっ
	   ていくのである。
	   ではそれ以前の時間や暦はどのようなものだったのだろうか。明治5年以前は、日本では太陰太陽暦に基づい
	   た「旧暦」だったので、月ごとの日数は月の運行に合わせた29日か30日(大か小)とし、これに約3年に
	   1度の閏年を入れることによって、地球の公転日数を調節した太陽暦を組み合わせて季節のずれを防いでいた。

 

 


	   そしてそのための暦が、長い間日本人に親しまれてきた旧暦だった。日の出が「明け六つ」日没が「暮れ六つ」、
	   その間を6等分して時間を決めるため、季節により1時間が異なっていた。月の満ち欠けで1ヶ月が定まるた
	   め、1ヶ月が29日であったり30日だったり、あるいは1年が13ヶ月の年もあり、毎年の暦は暮らしに欠
	   かせない必需品だったのだ。






	   月の運行を基にする太陽太陰暦の計算は、天文学と数学の高度な知識が必要である。古代より1年の暦を発行
	   する事はその地域の時空間を支配することと同じで「大和朝廷」は国内の時・暦を一元的に支配していた。
	   ところが、鎌倉幕府が成立すると、幕府は武士のための独自の暦を作成することを望む。このようにして鎌倉
	   幕府の後押しで中世の東国に広く普及していたのが『三島暦』である。この「三島暦」を明治まで発行し続け
	   たのが三嶋大社の東にある河合家だった。河合家の伝承では、祖先は奈良時代宝亀10年(779)に伊豆三島
	   へ移り住み、貞観年間(859〜)から貞享年間(1684〜)までは河合家で暦を編纂したと伝えられている。






	   50数代続くと言う河合家は、江戸時代初期、幕府に暦を編纂して献上する重要な役割を担っていた。江戸時
	   代に各地で地方暦が作られはじめても、三島は暦の故郷として知られ、多くの旅人がみやげものとして買求め、
	   その為「三島」の名前は全国に広まったとも言われる。やがて、伝統ある「三島暦」も、明治6年の太陽暦の
	   採用で、その役割も終りを告げたのである。 

 




	   三四呂人形の作者、野口三四郎は、三島市大中島に今から100年前に生まれ、韮山中学校(韮山高校)から、
	   写真家をめざして上京、昭和3年頃(1928)日本橋三越にあった早撮り写真の技師となる。写真師の道を進ん
	   だものの、朝鮮博覧会の写真技師として派遣された京城(ソウル)での体験が絵師・人形師としての三四郎を
	   目覚めさせる。三四郎は、朝鮮の自然と人々から強いインスピレーションをもらい、これを何かに表現したい
	   と考えた。生来芸術家肌の三四郎は三越をやめ、表現方法を模索して、出会ったのが張子の技法である。
	   張子の虎からヒントを得て、その技法を習熟し、あたたかみある人形として完成させる。昭和12年37歳で
	   亡くなるまでの約7年間に、子供の世界や家族愛をテーマとした作品を残したが、朝鮮の人々と暮らしを題材
	   とした作品も数多く生まれた。


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