Music: All together
中国・河姆渡遺跡展 2000.5.4(木)福井県三方町/三方縄文館にて



 



	
	上海の南に河姆渡(かぼと)という遺跡がある。1973年から78年までの文化大革命のさ中に、ここからB.C.5
	千年の地層から栽培稲の稲束が発見されて、世界中は騒然となった。世界4大文明と称される中国の「黄河文明」と時を
	同じくして、長江(揚子江)流域にも古代文明が存在していた事実が明らかになったのである。発見された稲束は、10
	cm〜80cmに及ぶ厚みを持った稲籾(もみ)とわら束だった。
	この膨大な量から、これらの稲は外部からの転入ではなくここで栽培されていたものであることが明らかであった。この
	発見は、文明の発祥のみならず、稲の発祥についても、これまで言われていた学説を覆した。これまでの稲の発祥に関す
	る学説は、日本の植物学者である渡部忠世氏が唱えた「インド・アッサム地方−中国・雲南省が稲の起源」というものが
	ほぼ定説だった。
	中国の考古学者達はこれに異論を唱えていた。考古学的な証拠がない、雲南省の稲遺跡は紀元前3000年くらいで、稲
	はもっと古くから栽培されていたはずだと。そして河姆渡遺跡の発見である。今から7000年前に稲があったのだ。
	さらに、これらの稲は野生種ではなく、日本の縄文時代におそらくは焼き畑で栽培されていたと思われている熱帯ジャポ
	ニカと同じものであることを、同じく日本の植物学者が証明した。このホームページでは頻繁に名前が登場する、静岡大
	学農学部助教授、佐藤洋一郎氏である。しかも佐藤氏は渡部博士の弟子である。弟子がDNA分析という最新技術を用い
	て、師の説を訂正したのだ。「DNAが語る稲作文明」(日本放送出版協会)

	遺跡からは、野生種「ルフィポゴン」も見つかった。栽培の元になった野生稲である。これで、ここが稲の栽培源流地で
	あることがほぼ確定したと言える。現在野生種はこの地方には生育していないが、水牛や象の骨が発掘されているので当
	時はもっと気温が高く、上海の北あたりまで野生種は生えていたと考えられる。河姆渡遺跡発掘の後、長江流域で次々に
	遺跡が発掘され、今の所一番古い遺跡は14000年前の「仙人洞遺跡」とされるが、これは栽培稲の測定はされていな
	いので、今の所学会定説としては「稲は、長江流域でほぼ10000年前くらいに栽培が開始された。」と言うことで合
	意をみているようである。細かい年代測定については諸説あるが、栽培稲がインドではなく、長江中下流域で生まれたと
	いう説には反対意見はないようだ。

	これらの遺跡の発見は、古代、米を基盤とした文明がこの流域にあったに違いないという推測を生み、予想通りその後か
	ら、B.C.4500−B.C.2000にかけて、城壁のある都市が長江流域一帯に建設されていたことが判明した。
	下流の良渚(リョウジョ)文化は、黄河文明の「夏・殷・周」に最高の社会的身分制度を表わす「鼎(てい)、豆(とう)、
	壺(こ)」という青銅器三点セットを伝えたことも分かってきた。まだ文字の発見はないが、(発見は)時間の問題とい
	う学者もいる。

	日本への稲のルートについても、朝鮮半島経由というのがこれまでの主流だったが、日本最古と言われる岡山県朝寝鼻遺
	跡のプラントオパールは、水田稲とも陸稲とも区別が付かない「河姆渡」型の稲であり、起点と終点が同じと言うことに
	なれば、必ずしも朝鮮を経由していない稲がある可能性も俄然高まったといえる。またかって柳田国男が唱えた、いわゆ
	る第三のルートといわれる「南からの海上の道」についても、このルートを通ってきた稲が熱帯ジャポニカであることが
	佐藤助教授の分析で明らかになっている。
	つまり稲は、3つのルートの全てから日本列島にもたらされたことになるのだ。それにしても、静岡大学の佐藤先生は国
	際的に活躍している。全く「泣く子も黙るDNA」である。


	
	これまで黄河文明は中国古代文明の代名詞とされてきた。中国北部では、狩猟、採集生活をいとなんでいた旧石器時代の
	遺跡が山西省丁村(ていそん)などで発掘されている。旧石器時代の人々は水辺でキャンプ生活をし、石器を使用していた。
	のちには植物栽培や家畜飼育もはじまる。1970年代には前6000〜前5000年にさかのぼる磁山文化や裴李崗文
	化という新石器時代早期の遺跡が黄河中流域でみつかった。だが近年の中国考古学の成果は、黄河流域以外の地域にも存
	在した多様な地方文化の実態を明らかにし、中国文明の起源を一元的にみなしてきた旧来の解釈はすでに過去のものとな
	っている。
	中国の稲作の起源は諸説あるが、前7000年頃の長江中流域の彭頭山(ほうとうざん)遺跡から籾痕(もみこん)のある
	土器、同じく長江中流域の遺跡から前6000年前の栽培稲1万2000粒、さらに長江下流域の河姆渡(かぼと)遺跡
	で大量の稲籾が発見され、三星堆遺跡からはさらに大規模な農業王国とでも呼べる痕跡が報告され、農耕に基盤をおく長
	江文明の存在が明らかになった。日本文化とふかい関りをもった江南の文化遺跡の各時代はつぎのように整理される。

		河姆渡遺跡   約7千年前から5千5百年前
		馬家浜文化   約6千年前から5千年前
		良渚文化    約5千2百年前から4千2百年前
		馬橋文化    約4千年前から2千7百年前

	これは日本の文化区分にあてはめると、縄文時代の早期から弥生時代前期にあたる。河姆渡遺跡は、中国浙江省にある長
	江下流の新石器時代の遺跡で、1973〜78年の2度の調査で、黄河文明と同時期に長江文明とでも呼ぶ一大文明が、
	河南地方に存在していたことが明らかとなった。今の所、中国最古級の新石器文化である。浙江省にあり、7000〜
	5000年前に稲作をおこなっており、稲の籾が大量に出土した。
	動物の肩甲骨や木で作った鋤で土地を耕し、貝殻で作った刃物で稲の穂を摘んでいた。木で作った杵が見つかっているの
	で、籾を臼に入れて脱穀していたようだ。米は甑を使って蒸して食べていた。飼っていたブタは食料であり信仰の対象で
	もあった。石斧で木を切り削って高床式の建物を低地に建てて住んでいたと考えられ、その形態は佐賀県菜畑遺跡の有様
	と酷似している。杭州市にある同省文物考古研究所によると、河姆渡遺跡では1970年代の発掘調査で、5千9百年か
	ら6千4百年前の層から赤漆塗りの椀、7千年前までの層から漆塗りとみられる筒が出土したほか、ウルシの花粉や漆が
	塗られたとみられる土器なども見つかっている。
	現在日本の漆工品で最も時代が古いとされているのは、福井県三方郡三方町の縄文前期遺跡である鳥浜貝塚からの出土品
	で、約6千年前の朱塗りの櫛だが、世界最古の漆工品は、約7千年前の河姆渡遺跡から出土した朱塗り椀という事になっ
	た。
	河姆渡の人々は、狩猟採集とともに稲作を行っていた。その暮らしの中で、どのように漆を発見したのかそれはいまだに
	謎だが、固まった漆には強い接着力があるから、初めは接着剤として用いたのかもしれない。現に河姆渡遺跡から、漆で
	接合したとみられる農耕具が見つかっている。

 






































	中国浙江博物館は歴史文物をメインにした綜合的な人文科学博物館で、西湖に浮かぶ孤山の中山公園内に位置して、陶器や
	工芸、古銭、書画などに分かれて、およそ10万点の文物が収蔵されているという。勿論河姆渡遺跡からの出土品もあるが、
	清の時代に書かれた中国史上最大の百科全書「四庫全書」が有名である。河姆渡遺跡からの出土品は、新しく建設された
	「河姆渡遺跡博物館」に展示され、面積約4万平米の遺跡から出土した数多くの文物が、現代科学技術を利用して7000
	年前の河姆渡人の生活模様を再現している。この遺跡と博物館にはいつの日か絶対行ってみたい。こここそ日本人の源流だ!


	
	約2300年頃前、西日本には、縄文人とは形質の異なった人々が出現する。渡来系弥生人とよばれる人々である。彼らに
	よって、水田稲作の技術と金属器の文化が大陸から伝えられ、人々の生活は大きく変化していく。渡来してきたと考えられ
	る弥生人の骨が最初に見つかったのは、山口県の日本海に面する土井ヶ浜遺跡である。彼らの人骨は、これまで発見されて
	いた縄文人の人骨とはまったく異なっていた。彼ら渡来系弥生人は、当初朝鮮半島から渡ってきたと考えられていたが、中
	国大陸のどこからやって来た可能性もあるのだ。
	最近の調査により、水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部も有力視されている。黄河下流と長江下流に挟まれた地
	域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人によく似た人骨があいついで見つかっている。この時代の中国は、政治的に動乱の時代
	であり、諸民族は戦乱の中にあった。日本にやって来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのかもしれな
	い。



	
	稲は、中国の長江中・下流域で、約1万1000年前に栽培が始まったといわれる。その後、稲作は、この地域から北上し
	て黄河流域まで一部伝わり、さらに東進して朝鮮半島には約4000年前頃伝わったとされる。日本には、約2500年前
	に稲作の技術を身につけた人々が朝鮮半島から渡来して水田稲作が始まったとする考えが、土器や石器あるいは人骨の研究
	から有力であった。
	しかし、見てきたように最近では、稲のDNAの研究によって、中国中南部から直接渡来したという考えが提唱されており、
	また、縄文時代にすでに陸稲の稲作が一部にあったとする説が定着しつつある。1万年近く前の長江の中・下流域の遺跡か
	らイネ資料が集中して発見され、そのDNAを分析してみると、ジャポニカという品種で、これは日本の弥生時代の遺跡で
	も多数確認されている。
	縄文時代前期(約6000年前)の遺跡からも、イネのプラント・オパール(土壌中のイネの葉の細胞のガラス成分)が検
	出されているので、縄文人の中にはすでに食材の一つとして米を用いていた人々がいたと考えられる。そして、やがて温帯
	ジャポニカと熱帯ジャポニカの混合により耐寒性のある早生ジャポニカの品種が誕生したと考えられているのだ。













	●河姆渡文化 かぼとぶんか

	浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の東部地区に分布している。河姆渡
	遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河
	姆渡文化層で,上の両層よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,低
	温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,土器を黒色にしている。夾炭黒陶
	は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優
	となる。第4層の土器の主なものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と装飾が
	最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。
	第3層出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,東アジアに特徴的な穀物
	を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。
	遺跡層が地下水面下にあったため,多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
	組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。第4層には骨器が非常に多く,石器は少ないが,第1層に至るほ
	ど,石器が漸増して骨器が漸減し,河姆渡文化では骨器の比重が大きかったことが知られる。
	骨器には鏃・針・管状針・梭形器・笛などあるが,大型哺乳動物(水牛?)の肩胛骨を加工した多くの耜が注目をあびた。
	石器は小型のあらい磨製で,斧・手斧・のみ・紡錘などがある。第4層の住居址に,多くの稲の穀粒・茎葉の堆積が発見さ
	れた。栽培稲のセン(注1)は、亜種晩稲型水稲と鑑定され,紀元前約 5000年のもので,現在のところ,東アジアにおける
	水稲の最古の実物標本といわれている。
	また,とち・ひし・桃の実,ヘちま・はとむぎや,なつめの一種なども出土している。家畜には犬と豚がおり,水牛もいた
	ようである。土器面に豚,または豚と稲穂の刻まれたものがあり,小型の陶豚もある。ほかに,多種類の獣・鳥・魚などの
	骨も出土している。当時の河姆渡地域では,すでに骨耜・木耜などによる稲作農耕が行われ,家畜を飼育し,狩猟・漁労や
	採集もかなりの比重を,占め,種々の生産・生活の器具を作り,紡織も行われていたのである。住居は大きな材木で構築さ
	れた高床式で,柱をくりぬいてはりや板をはめこむなど,やや高い技術が用いられている。
	素朴な芸術品も多く,木彫の魚,骨彫の匙・こうがい,陶製の魚・人頭像,象牙彫の鳥などのほか,玉製の管・珠・ケツ・
	コウの装飾具がある。また朱紅色の漆器の木碗もあり,生漆と鑑定され,中国で最古のものといわれる。出土した50余種属
	の動物の生態および植物遺存と花粉分析が明らかにした植生の状態から推測すると,当時この一帯は,現在よりも温暖多湿
	で,現在の広東・広西等の地区に近く,山麓に接した大小の湖沼が散在する草原灌木地帯であったようである。河姆渡文化
	の年代は,ほぼ紀元前5000年ごろにあたるといわれ,揚子江下流域における最古の新石器文化であり,黄河中流域や山東地
	域の文化と並んで,中国の早期新石期文化の一つの中心である。 
	【中国社会科学院考古研究所編著『新中国的考古発現和研究』1984,文物出版社】


平成10年12月29日(火曜日)毎日新聞朝刊


富山県小矢部市の桜町遺跡で見つかった縄文時代中期末(約4000年前)の高度な
木組み工法が、中国浙江省の長江沿いにある河姆渡(かぼと)遺跡から出土した
約7000年前の建物の建築技法と一致していることが、同市教委の伊藤隆三・文化
課長補佐の調査で分かった。日本の建築技術のルーツを探るうえで貴重な手掛か
りとなりそうだ。
河姆渡遺跡は、大量の稲もみや炭化米が出土した世界最古級の稲作遺跡として知
られ、見つかった高床建物用の木材も中国では最も古い例とされている。
伊藤課長補佐は今年11月、同遺跡の出土品が保存されている浙江省博物館(杭
州市)で学術調査。木材同士に凹凸を刻んで組み合わせる「ワタリアゴ」という
技法が、現地ではツバメの尾にたとえた「燕尾木隼(えんびしゅん)」と呼ばれ、

【(*)注:この字は1字である。PCのATOK12の辞書機能にはしゅんとして
存在するが、html内に持ってくると?となり、うまく取り込めない。】

1997年に桜町遺跡から出土した高床建物に使われているのと全く同じ技法と分か
った。さらに、壁板のつぎ目を溝状に加工する「桶部倉矧ぎ仕口」や、木材に切
り込みを入れて固定させる「欠き込み仕口」の技法も共通していることを確認した。
伊藤課長補佐は「両遺跡に約3000年の年代差があるため直接の関係は論じにくいが、
全く同じパターンの工法だった。高温多湿な長江下流域の気候から生まれた高床建
物の技術が日本に伝わったとも考えられる。」と話している。
一方これまで日本の稲作は熱帯域から伝わったとするのが有力だったが、河姆渡
遺跡での発見は、その説に対抗する「長江ルーツ説」の有力論拠の一つとなってい
た。両遺跡の建築技術が一致したことで、稲作ルーツ論争にも影響を与えそうだ。
【皆木成美】
さらに日中比較を
宮本長二郎・東京国立文化財研究所国際文化財保存修復協力センター長(建築学)の話。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。ただし、日本の
高床建物は祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。
日中の比較研究をさらに進める必要がある。


	この記事は、まことにもって興味深い。桜町遺跡の発掘現場には数年前に行ったが、資料館でみた木工材料の加工度には驚
	かされたものだ。数千年前の技術は今の大工の技術と同じではないか、と思ったのを覚えているが、その源流は長江にあっ
	た! 長江でも、高床式建物の初期の用途は貯蔵庫だったのではないか。大量の米を貯蔵する、通気性の良い、賊や害虫・
	獣に襲われないための器として考案されたのではないだろうか?

	この頁最初の、邪馬台国研究入門編で鳥越憲三郎氏のコトを書いたが、高床式建物のルーツが長江にあったとなれば、いよ
	いよ氏の「倭族論」にも見直しが入るかもしれない。



	1万2千年前の栽培稲が出土 中国湖南省・長江中流域で

	中国の長江(揚子江)中流域の玉蟾岩(ユイチャンイエン)遺跡(湖南省道県)から出土した米粒が、1万2000年前の
	栽培稲だったことが明らかになった。国営新華社通信が28日伝えた。これまで稲作の起源は、長江中流域の別の遺跡から
	見つかった約8000年前の栽培稲が最古とされていた。最近、長江下流の浙江省の遺跡からは約1万年前の栽培稲のもみ
	殻が見つかったが、今回の発見で、稲作の起源はさらにさかのぼる可能性も出てきた。
	湖南省考古研究所と北京大学考古文博学院、米ハーバード大などの合同グループが玉蟾岩遺跡を調査した。同研究所や新華
	社の報道によると、昨年11月、地面から1メートル余りの深さの地層から、炭化した米6粒と小さな陶片一つが出土した。
	米粒は陶片の下の地層から見つかった。
	1万2000年以前の旧石器から新石器時代に移行する時期のものとみられ、さらに年代をさかのぼる可能性もある。
	米粒の年代は米粒そのものではなく、地層の年代測定から推定したという。調査グループによると、米粒の大きさ、重さ、
	長さが野生稲と異なっており、野生稲から栽培稲への過渡期に当たるものとされる。
	同遺跡からはこれまでにも、旧石器時代から新石器時代への移行期の石器や棒器、動物の骨、種子などが大量に出土してい
	る。湖南省考古研究所の袁家栄・所長は朝日新聞に対し「これまで見つかった中では世界最古の栽培米で、長江中流域では、
	1万年前にすでに稲作が存在していた証拠だ」と話している。【朝日新聞 2005年01月29日(土) 】





	岡山・6000年前の貝塚 縄文前期に本格稲作?  讀賣新聞WEB「いにしへ日本列島」

	◇稲の化石大量出土

	

	縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=
	が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大
	量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」とし
	ている。しかし、縄文晩期に大陸から伝わったとされるわが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることにな
	り、新たな起源論争が起こりそうだ。
	町教委が2003年9月から発掘調査。五つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2・5メートルの土壌から、土
	1グラム当たり稲のプラント・オパール約2000―3000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。主にジャ
	ポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30―60マイクロ・メートル(1マイクロ・メートルは千分
	の1ミリ)。
	調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は「稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は
	裏付けられるが、他の植物のものも確認され、栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証
	拠」としている。(2005年2月19日)


邪馬台国大研究・ホームページ /博物館めぐり/ 河姆渡遺跡展