★ 菜 畑 遺 跡 ★



★ 稲 作 と 水 田 ★




★ 石 器 ・ 土 器 ★




★ 狩 猟 ・ 採 集 ★





★ 住 ま い ・ 倉 庫 ★



★ 世界の稲作・稲作の伝播 ★



★ 魏志倭人伝・末廬国 ★


★ 宇木汲田遺跡・桜馬場遺跡・柏崎遺跡・千々賀遺跡・久里双水遺跡 ★
★★ うきくんでん ・ さくらのばば ・ かしわざき ・ ちちか ・ くりそうすい ★★
地図を見れば一目瞭然なのだが、壱岐から最短距離で九州へ到達しようとすれば松浦半島が一番近い。魏志倭人伝にもその
航路が記述されている。又、遺跡地図を見ると、松浦半島東側からぐるりと唐津湾を取り囲んだ一帯は遺跡の宝庫である。
遺跡だらけと言ってもいい。大陸からの渡来人達は、まずこのあたりに居を構え、集落を作り、クニを形成していったもの
と思われる。
ここから、西へ行く集団、東へ行く集団、南へ行く集団等があったのだろう。東へ行った者は、やがて伊都に定着した者、
更に東へ行って奴国を築いた者、更には不弥国、投馬国等を作ったもの達とに分かれていった。
そして、そういう集団の中に「邪馬台国」を築いた人々もいたはずである。これらの国々のオリジンは大陸に違いない。今
の北部九州人は殆どが大陸人の末裔なのである。いやおそらく、西日本全体を見ても、その血脈は相当な割合で「日本人」
となっている事だろう。
私見では、北部九州からの連合国家の東への大移動により、これらの末裔達は中国、四国、関西にも伝播して行ったと考え
られる。それが「邪馬台国」の東遷であったのか、それとも「邪馬台国」に勝利した「狗奴国」の東征であったのか、はた
また数世代か後の末裔達による「神武東遷」であったのか、それは今の時点ではまだ謎である。その解答を得るにはまだま
だ多方面からの検証を必要とする。しかしながら、これらの渡来人達がここ唐津を中心とする東松浦半島一帯からその歩み
を始めたのはまず間違いない。これらの遺跡からの出土品は明らかにそれを物語っている。








99年3月22日歴史倶楽部で末廬国を再訪。



「博物館めぐり」ホームページへ戻る