Music: All my loving

唐古・鍵遺跡資料室
2003.10.19(日) 発掘速報展 2003



 



 

 

 





 


		唐古・鍵遺跡で2001年に見つかった、褐鉄鉱容器に入った勾玉が、弥生時代で最大級のひすい製品と分かった。勾玉は2つ
		あり、1つは長さ4・64cm。弥生時代のひすい製品では全国で10番目の大きさ。もう1つは長さ3・63cmと小ぶりだ
		が、鮮やかな緑色で光沢があり良質のひすいと判明した。田原本町教委は「褐鉄鉱に入れた意味は分からないが、司祭者や首長
		層の持ち物だろう」としている。褐鉄鉱容器は、集落の中枢部とみられる建物群付近の溝で出土。土器片15点をつなぐと、容
		器の口にぴったり合うという。紀元前1世紀のかめのかけらと判明した。

 

 


		森浩一・同志社大名誉教授の解説  (C) The Yomiuri Shimbun Osaka 2001
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		奈良県田原本町には弥生時代の大集落として知られている唐古・鍵遺跡がある。大集落というより、その地域の中心地で中国の
		史書のいう国邑(こくゆう)に相当すると僕はみている。弥生時代の大集落をあげると、長崎県壱岐の原ノ辻(はるのつじ)、
		福岡県前原市の三雲、それと佐賀県の吉野ヶ里などの遺跡があって、唐古・鍵遺跡はそれら九州の遺跡にくらべても遜色(そん
		しょく)はなく、四大弥生遺跡といってよかろう。そのうちの原ノ辻遺跡は、『魏志』倭人伝にでている一大国(壱岐国)の国
		邑、三雲遺跡は伊都国の国邑と推定されているが、近畿の場合は国名まではまだ追求できない。
		今回、唐古・鍵遺跡で出土した二個の硬玉ヒスイ製勾玉の容器になっていた褐鉄鉱(かつてつこう)、いわゆる鳴石(なるいし)
		は、弥生人の精神というか知的レベルを知るうえで、僕はこの五十年間で最大の地下からの贈り物だとみている。

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		この鳴石の容器は、見たところジャンボいなり寿司のご飯を取り出したような形と大きさで、内部は空洞である。褐鉄鉱と砂粒
		や黄色土などが固まってできた自然物である。僕が感じたのは、これと同じ物が発掘で出土しても、自然物として捨ててしまう
		のではないかということであった。内部に勾玉があったからとはいえ、このような自然の創造物に気がついたのは、発掘チーム
		の普段からの努力の結果であろう。
		鳴石は、中国で禹余粮(うよりょう)(糧)とか太一(たいつ)余粮とよばれた仙薬であり、不老長寿(不死)を理想とする神
		仙思想の薬として珍重されてきた。発掘担当者が中国での仙薬だと気付いたのは、見事というほかない。
		禹余粮や太一余粮については、多くの現代人に知識はなかろう。ところが、江戸時代に小野蘭山が著した『本草綱目啓蒙』には、
		明代の『本草綱目』によりながら日本での研究を加え、禹余粮と太一余粮を解説している。
		学者だけではない。大和の郡山藩の重臣であり、さまざまの芸術面でも活躍した柳里恭(りゅうりきょう)=柳沢淇園(きえん)
		=は、随筆集『独寝』において、生駒山で禹余粮の出ることに触れ、中国でどのように珍重され、どのように薬効があるかにつ
		いて詳述している。最近の学界は、科学的な方法を多方面で取り入れている。もちろんそれは必要だが、かつての漢字文化圏の
		教養の大切さを僕は今回改めて味わった。昔から中国と日本に共通している教養を知らずに、弥生文化を見ようとしていた。
		禹余粮については、葛洪(かつこう)の『抱朴子(ほうぼくし)』のなかに仙薬の上なるものとして太乙(たいつ)禹余粮が出
		ている。今のところ中国で四世紀初めの『抱朴子』以前に禹余粮についての知識があったかどうかはわからないが、『抱朴子』
		以後は各時代に論及したものがある。

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		硬玉ヒスイの勾玉は、新潟県の姫川ヒスイ製であろう。姫川ヒスイで作られた勾玉が長寿についての呪的な力のあったことは、
		古墓や古墳での出土状況や『万葉集』の歌(三二四七)などで明らかとなっているから、『抱朴子』以後の鳴石と仙薬との関係
		をさかのぼって当てはめると、今回の出土遺物は二重の意味で神秘性が強調されていることになる。
		見通しとしては、中国での禹余粮的なものへの神秘感が漢代までさかのぼるのであれば、弥生時代において中国から仙薬的な知
		識が近畿にまで入っていたことになり、弥生人の知的レベルの見通しが進むだろう。だが、現時点においては難問がある。鳴石
		(禹余粮)が珍重されていたのがわかる最古の例は唐古・鍵遺跡の勾玉の容器であり、『抱朴子』を著した葛洪の時代とは、約
		三百年の隔たりがある。明代の『本草綱目』に、禹余粮は東海の池澤や山島に生ずと述べている。この東海に日本列島が含まれ
		ているかどうか。そういえば倭人伝の冒頭に倭人、東南大海中、山島がキーワードになっている。以上二つの見通しのどちらに
		傾くか。僕もさらに検討したい。(考古学) 





 

 

 

 





 

 









 

 









 




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