筑後川の下流、筑紫平野の福岡県三潴郡三潴町高三潴出土の弥生土器(上右)。口径22.3cm、高さ38.8cm、 頚部に1条の刻目のある突帯がめぐる。土器の内外面は細かい刷毛目が見られ、北九州地方では後期に編年される土器 である。この土器の下部には小さな穴が開けられており、甕棺として使用するためではないかとの意見もある。
国府遺跡は前述したように、南北約5kmの洪積層台地の北端に位置する、約2万年前の旧石器から縄文・弥生・古墳へ、 更に中世にもわたる複合遺跡である。旧石器時代・縄文時代の遺跡としても特筆すべき点がいくつもあるが、弥生時代 にも多くの人々が生活していた痕跡は色濃く残っている。 国府遺跡は允恭天皇陵の脇に所在し、飛鳥時代には衣縫廃寺が建立され、又奈良時代には河内国の国府が置かれたこと から「国府遺跡」と名付けられたと言われるが異説もある。
唐古・鍵遺跡は、弥生時代前期に始まり、古墳時代前期まで600年間以上継続した、近畿地方の代表的な弥生遺跡で ある。発見当時は(昭和11年)近畿では珍しい巨大な環濠集落だったため脚光を浴び、さらに平成3年に発掘された 楼閣絵画土器は、古代建築史上も画期的な発見であった。原始的な建物しかなかったと考えられてきた弥生時代に、3 階建て以上の高層建物があったことを初めて証明した。唐古池の隅に、その絵画土器から推定復元した「楼閣」がそび えている。
上右、右から2番目の銅剣は「重要美術品」に指定されている。愛媛県新居浜市萩生出土の広峰銅剣で、長さ46.7cmで、 全体的に非常に薄く、茎も短く実用性に乏しい。同一遺跡から出土した数本のうちの1本と見られているが、後は不明。
以下は大阪府堺市の「四つ池遺跡」から出土した蛸壺。蛸壺は弥生時代になってどっと、近畿では主に瀬戸内海沿岸か ら大阪湾沿岸に掛けての弥生遺跡から出土する。蛸壺が出土する同時代の遺跡としてはこの遺跡の他に、広島県「玉津 田中遺跡」、兵庫県加古川市の「溝の口遺跡」、同県加古郡播磨町の「大中遺跡」、神戸市西区の「池上口ノ池遺跡」、 同市東灘区の「桜ヶ丘B地点遺跡」、同府和泉市の「池上遺跡」などがあり、タコ壺がかなりまとまって出土している。
タコの捕獲方法としては、浅い場所なら手取り、突き刺、引鈎ぎなど、やや深い所ではタコ壺や釣り、より深い場所で は、底曳網がある。タコ壺漁は、タコが暗いところを好む性質を利用したもので、海底の岩礁地帯の岩穴や、砂泥地帯 では、タコは穴を掘って潜り、外敵から身を隠している。穴の代用として壺に縄を付けて海底に沈め、タコに身を隠す 場所を提供し、安心しているところを引き上げて漁獲するのがこの方法である。しかし、不思議なことに縄文時代には 蛸壺は全く出土しない。 土器を使って行うそのような漁法を知らなかったのか、それともそういう漁法の技術を持った連中が、弥生時代にどっ とこれらの地方へ移り住んだのか? 一般的には後者の説が有力視されている。 「四つ池遺跡」 泉北丘陵を流れる石津川の中・下流域は、縄文時代後期から弥生時代には人々が定住し、稲作水田が広がっていた。そ の遺跡は戦前から四つ池遺跡として知られ学会でも有名だったが、近年隣接の和泉市で「池上曽根遺跡」が発見され、 次第にその存在は忘れ去られようとしている。大きな神殿跡や聖なる井戸が発掘され、耶馬台国の女王・卑弥呼との関 係も話題になっている池上曽根遺跡に比べると、確かに地味で目立たない弥生遺跡ではあるが、その学術的な価値は高 い。