この博物館は函館市内西南の、木々に囲まれた小高い岡の上に建っている。初代の博物館、二代目の博物館の建物も、建物だけが そのまま展示されている。夏休みに、WIFEと北海道旅行(殆どが遺跡・旧跡めぐりの旅なのだが。)に来て、大船C遺跡、五稜郭 を見た帰りに立ち寄った。涼しい北海道の夏は爽やかで、小学生の団体が2組ほど夏休みの見学に訪れていた。
訪れたときはちょうど、発掘されたアイヌ文化の特別展をやっていた。北海道に度々訪れるようになる前は、九州で生まれ大阪で 暮らしている人間にとっては、アイヌはある種遠い異文化のことのような感じがしていたが、実際に北海道に来てあちこちの遺跡 を見学して廻っているうちに、実感としてアイヌを身近に感じるようになる。何よりも、日本オリジンの縄文人だと思うと、妙に その生活や文化の発生過程を知りたいと思うようになってきた。遠くオホーツクの海の向こうから、シベリアの凍土から、遙か黒 竜江の流域から、太古の人々がサハリンを経てこの北の大地へやってきたのだ。その光景を思い浮かべるだけでも胸が躍る。
北海道では縄文文化以後、本州が取り入れた稲作農耕が伝播せず、引き続き狩猟・漁労・採集を中心とした「続縄文文化」に移行 して独自の文化を歩み始める。擦文(さつもん)文化は、本州など南からの影響ばかりでなく、大陸やオホーツク沿岸など北から の影響も大きく受け、アイヌ文化へのつながりを感じさせるものが出土している。
15世紀中頃、本州から渡ってきた「和人」が函館から松前・上ノ国にかけての沿岸沿いに、館を築いた。コシャマインの戦い以 後、勢力を伸ばした上ノ国では、勝山館が築かれ、北海道西海岸の交易を掌握していく。 近年の発掘で、和人の館とされてきた勝山館から、アイヌの人々が使ったらしい狩猟用具や、和人の墓のなかからアイヌ墓が発見 された。勝山館が廃絶した直後の遺跡から、シロシと呼ばれる、アイヌ独特の印のある祭具も見つかっている。和人地とされてき たところでも、アイヌの人々が混住していたのではないかとする考えも出てきた。
1980年代以降、日高地方西部の沙川流域や新千歳空港敷地内にある美々8遺跡、あるいは千歳市長都のユカンボシ遺跡群では、こ れまでに類例をみないアイヌ関連資料が多数出土した。これらはアイヌの遺跡を代表するチャシ(砦)跡や船着き場跡、建物跡、 物送り場跡、金属製品、骨角器など貴重な遺物ばかりである。このような発掘出土品は、文献資料だけでは不十分だった中世から 近世にかけてのアイヌの生活を再現し、その変容過程を紐解く貴重な情報をもたらしている。
沙川流域の遺跡群では、数多くの鉄製品が発掘され、当時のアイヌの人々が、我々の想像を超える盛んな交易を行っていたと考え られるようになった。シカなどの角や骨を素材にした製品は、その後のアイヌ伝世資料と比較すると興味深いものがある。墓も発 掘され、太刀や中柄、煙管などを副葬していたことも明らかとなった。 またチャシは砦としてばかりでなく壕によって区切られた「聖域」、また「まつりの場」、「話し合いの場」、「見はり場」、 「食料獲得と関わる場」などに使われたと考えられるようになってきた。
美々8遺跡では、アイヌ期の大量の木製品が出土した。形はのちのアイヌ民具に共通性を見いだせるものが多いが、使われている 材質や製作技術などに特徴がある。渦巻文や線刻など、アイヌ文様とみられるものが刻まれているものもある。発掘されたこれら 木製品の保存は、かっては難しいものだったが、(保存科学)技術の進歩によって可能となった。
【サクシュコトニ川遺跡】 札幌市の北海道大学構内から確認された。遺跡は、サクシュコトニ川と旧コトニ川の支流の一つである、埋没河川となったセロン ベツ川との合流地点に位置していた。周辺には擦文文化の遺跡が多数存在しており、サクシュコトニ川遺跡も続縄文時代中期後半 (4世紀)から擦文時代(9世紀代)の文化層が3層確認された。 擦文時代の文化層からは、竪穴住居・土壙・集石遺構・焦土と炭化物集積ブロックが検出され、そこから「夷」の文字が刻まれた」 土師器が出土している。またサケ科魚類を中心とする魚骨片、多種多量な栽培種子が検出され、9世紀代の原初的農耕集落の姿が 浮き彫りとなった。集落跡の南部に接する幅12mの旧河川から、魚類を捕獲するための柵列遺構が木製銛、金属製魚釣鉤(マレク) などの漁具をともなって発見されている。
ここでの解説の多くは、平成13年(2001)6月2日、(財)アイヌ文化振興・研究推進機構編集、(社)北海道ウタリ協会発行の、 「よみがえる北の中・近世−掘り出されたアイヌ文化−」と、函館市立博物館で行われた同展解説パンフレットから転載・参照し ました。記して感謝の意を表します。 【2002年1月3日】