Music: Tankou-busi






	
	この博物館は、従来の博物館と違って現代的なビルディングの中にある。福岡市の西区が大規模に開発された時(福岡
	ドームや福岡タワーもここに建設され、海岸線は従来より1km近く後退した)、博物館もここに移ってきた。まるで大
	きなコンサートホールのようなエントランスを持ち、空調・照明・電気設備など最新技術を採用した未来的な建物でも
	ある。常設の展示室とは別に大規模な特別展が開催できる部屋も沢山備えている。
	古代史の世界では、博多は「奴国」として知られている。地理的な位置関係を見ても、この地が昔から大陸との交流を
	持っていた事は間違いない。脚光を浴びてくるのは弥生時代に入ってからだが、旧石器・縄文期においても大陸との交
	渉は行われていたと考えられる。
	歴史展示の形態としては、<奴国の時代>から<福岡の近代化>までを時代順に並べてあり、歴史とは別に民俗資料の
	展示も多い。又福岡黒田藩時代の展示物も多い。


「常設展示室の入口と、そこにある9面のマルチ映像」





「奴国」以前 



 

	
	マグロなどの外洋性大型魚を採るための漁具(結合釣り針や石鋸など)が、西・北九州と朝鮮半島で共通である。又、
	縄文前期の曽畑式土器と朝鮮半島の櫛目文土器は、形や模様が非常に似通っており、製作の根源は同じもののようであ
	る。これは、縄文時代には既に、北西九州の漁民と朝鮮半島の漁民との間で技術授受を含む交流があった事を物語って
	いる。

 

 

上左の写真に見られる石器や、下の写真の磨製石剣・石包丁などは、韓国松菊里遺跡から出土した石器類と全くそっくりである。




「奴国」時代 



 

 


	「奴国」はBC.100年頃には、福岡平野の中にあって青銅器の一大生産地で、その製品は中国・四国地方にまで供給され
	ていたと考えられている。出雲の加茂岩倉遺跡から出土した300本の銅剣も、その粗形は北九州であろうと考えられる。
	又、従来九州には無いとされていた銅鐸も、その原型は朝鮮、北九州を経て中国・近畿へ伝播していったもののようで
	ある。

 


右は金隈(かねのくま)遺跡の甕棺墓ジオラマ。金隈遺跡は一般の集団墓地で、多くの甕棺が密集して埋められ、副葬品はほとんどない。従って、貴人の墓群ではなく、一般大衆の墓地であったろうとされる。


下は板付遺跡(国指定史跡)のジオラマ。板付遺跡は日本最古の農耕集落の一つ。水田は台地の下にあり、水路・給排水施設(堰と水口)や畦(あぜ)を備えた本格的な水田である。水田跡からは弥生人の足跡も発見された。

両遺跡とも、現地へ行けば復元・保存処理後の遺構を見学できる。







「奴国」以後 




 

 

 





「中世」 


 

 

 



	[一言]
	
	この博物館も、近代的な建物とは相容れず考え方は前近代的である。即ち「撮影禁止」である。ここに掲げた写真は
	監視員の目をかすめ、或いは居ない時を狙って撮影した。もっともっと沢山の紹介したい遺物があるのに残念である。
	大体、福岡市で出土した(他の都市でもそうだが)からといって、2000年前の遺物に著作権などあるハズがない。
	発掘者が公的な機関であろうとなかろうと、古代の遺跡などは国民全体の資産である。それを福岡市(他の都市も同
	様)の予算が使われているからと言って、福岡市民の持ち物であるかのような管理体制はおかしい。「吉野ヶ里展示
	室」などは、「写真撮影?どうぞ、どうぞ。」であった。撮影を禁止する事の意味を福岡市博物館に強く問いたい。
	炭坑節に見られるような、おおらかな筑紫人の魂は今どこにある。





この写真を見ると驚く。これが博物館である。これだけの物
を造って「撮影禁止」などという文化度は疑わざるを得ない。





2009.12.13

























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