Music: 夜明けのスキャツト(由紀さおり)
甘木歴史資料館・常設展
我が街にも縄文遺跡があった。古くから開けていて、人々が暮らしやすい土地だったのだろう。筑後川北岸の、稲作にも適した場所
で、弥生時代にもまた多くの人々が暮らしていた。その痕跡の、日常生活用の土器・祭祀用の丹塗り土器・青銅製品などから、古代
の食生活や祭りの様子がうかがえる。
古墳時代には、渡来してきた新しい焼き物である「須恵器」がここ朝倉地方で焼かれ、ほぼ北九州全域に流通した事が確認されてい
る。国内でもいち早く須恵器生産が始まる地域のひとつとして、「朝倉窯」の存在は近年耳目を集めているし、また、装飾古墳の「
仙道古墳」から出土した「盾持ち人形埴輪」なども、資料的価値の高い埴輪である。中世以降では当時のタイムカプセルでもある経
筒、朝鮮鐘、また、中国大陸との交流が伺える陶磁器などが展示されている。
縄文時代
弥生時代
「朝倉は筑紫の宝庫である。」と述べたのは、鏡山猛元九州大学教授であるが、まさに朝倉は弥生から古墳時代にかけての考古学上の
遺跡展示場の感がある。福岡県では、糸島郡(現前原市含む。)と甘木・朝倉がその古代遺跡の数では群を抜いている。
これは明らかに、この地方が古代において権力を有していたからに他ならず、甘木・朝倉=邪馬台国説もあながち的外れではなさそう
である。最近までこのような博物館もなく行政に学術部隊もいなかった甘木・朝倉においては、地元の文化財調査を一心にコツコツと
担当していたのは、朝倉高校の史学部であった。その為残念な事に、これまで多くの文化財が散逸し、アチコチの博物館(東京国立博
物館、九州歴史資料館、太宰府資料館、大阪弥生文化博物館、等々)にこの地方の遺物がある。
以下の写真は、上野の東京国立博物館に展示されている夜須町の「東小田七板遺跡」から出土した「丹塗磨研土器群」である。
「東小田七板遺跡出土品 一括」 ○丹塗磨研壷。同高坏。同器台。同瓶。同蓋付小壷。
福岡県夜須町東小田七板 弥生時代中期 福岡・夜須町教育委員会
古墳時代
仙道古墳出土「盾持武人埴輪」(下)
神藏古墳
茶臼塚古墳
池の上古墳・古寺古墳群
池の上・古寺墳墓群出土品
池の上墳墓群は昭和53年、甘木中学校(甘木市大字堤)の建設に伴い、また隣接する古寺墳墓群は昭和56〜58年、運動公園
(甘木市大字菩提寺)の建設にともない発掘調査が行われた。古墳時代(4世紀後半〜5世紀中頃)および奈良時代(8世紀中頃
〜9世紀前半)の墳墓群であり、大手山(おおてやま)から派生した舌状台地の丘頂部にあり、古墳は幅広く標高の高い部分を占
地し、他の土壙墓・火葬墓群はその間の狭い尾根に営まれる。
古墳時代の墳墓群からは、初期須恵器をはじめとする土器類、鉄製馬具、剣・鑓等の鉄製武器、斧・鋸・鎚等の鉄製農耕具、管玉
・勾玉・耳環等の装飾品など質量ともに秀逸かつ豊富な副葬品が埋葬される。これらの副葬品から、朝鮮半島との深いつながりが
うかがえる。
奈良時代の火葬墓群からは土師器、須恵器の蔵骨器が出土し、中でも中国長沙 製陶器を模した土師質の白袖緑彩器は逸品である。
以下は、2001年6月に滋賀県安土町の安土考古館で行われた「韓国より渡り来て」展のコーナーに記載した「池の上古墳・古寺古墳群」
についての記事である。その出土地の情報という事でここに再録する。
福岡県甘木市。ここが私のふるさとである。ここの城下町「秋月」で私は生まれ育った。
その甘木(朝倉地方含む)は、昔から古代遺跡の宝庫だった。私の学んだ朝倉高校の史学部は、昔から地域の文化財発掘とその保護に
努めており、その活動は九州ではちょっと有名であった。元九州大学教授で考古学専攻だった、故鏡山猛氏も「朝倉は筑紫の宝庫であ
る。」と述べている。弥生時代から古墳時代にかけての遺跡がゴロゴロしており、近隣の浮羽郡・三井郡と併せて広大な古代文化圏を
誇っていたものと思われる。
近年、「吉野ヶ里遺跡」「原ノ辻遺跡」と併せて北九州における弥生時代の三大環濠遺跡である「平塚川添遺跡」が出現して、ますま
すこの地方の古代は、各方面からの照射を浴びているといってよい。吉野ヶ里を発掘し一躍考古学会に名前が売れ、佐賀県副教育長か
らいまや大学教授となった高島忠夫氏も、「平塚川添遺跡」の出現を知って「今度北九州で何か出るとすれば甘木朝倉だろうと思って
ました。」と述べている。
さて、そんな甘木朝倉(* 注)地方に、古代韓国との強い結びつきを示す古墳時代の遺跡がある。この展覧会にもきっちり出土品が展示
されていた。遠く琵琶湖のほとりで、ふるさとの遺跡から出たものを見るのは何とも感慨深い。
「池の上・古寺墳墓群」は古墳時代初期の墳墓群で、現在の甘木中学校が移転された際、その工事中に発見された。
79基の墳墓で構成されており、大半が4〜5世紀の築造である。竪穴式や横穴式の石室はなく、石蓋土壙墓(いしぶたどこうぼ)が多
い。墳丘の規模も小さく副葬品も「池の上6号墳」を除けばさしたるものもなく、発見当時はさほど注目を浴びることもなかった。
ただ、「池の上6号墳」出土の馬具(轡)は、学者によっては日本最古の馬具ではないかとの意見もある。この墓からは他にも鍛冶
具等が出土しており、この墳墓群の中では突出しているため、この地方の首長だったのではないかという見方もある。遺跡の場所そ
のものは現在中学校の敷地の中で、どこに墳墓があったのか、どこから馬具が出土したのか、案内板もなく、皆目わからない。
5世紀になると、副葬品の中に伽耶系陶質土器等が多量に出土するようになり、しかもそれらの多くは伽耶の風俗をそのまま踏襲する
ように土壙墓のなかに副葬されている。近年、それらの中に近傍の「朝倉窯跡群」産の初期須恵器が多量に含まれている事がわかっ
てきた。「朝倉窯跡群」は、韓国から渡ってきた人々が住み着き、北九州における須恵器生産を開始した所である事が最近判明した
遺跡であるが、池の上墳墓に葬られた人々も、おそらく伽耶から渡ってきて、朝倉地方の首長の指導の元、須恵器生産に従事してい
た人々だったのだろう。
池の上・古寺墳墓群には、朝鮮半島南部地域の女性墓と共通する葬送習俗の見られるものがある。
算盤玉形の陶製紡錘車を副葬した墓がそれである。池の上D1・19号墳は石蓋土壙墓で、前者では陶製紡錘車が被葬者の足付近から、
後者では右肩当たりから出土している。26号墳は土壙墓で、被葬者の頭付近から出土している。古寺2・3号墳では土壙墓内に副葬
され、9号土壙墓では壙墓西側供献されていた。副葬品中の土器の特徴から、これらは伽耶地域から渡来して、故郷の風俗を失うま
でに至っていない渡来人一世の女性墓と考えられている。
どういう経緯でこの一団が故郷を捨ててきたのかはわからないが、彼らはこの朝倉の地に根付いて、やがて伽耶人から日本人とな
っていったのである。もしかしたら私の友人達の中には彼女の子孫がいるのかも知れないし、ひよっとしたら私自身がこの渡来人
達の子孫なのかもしれない。
(* 注) 一般には「甘木・朝倉地方」と呼ばれるが、正確な行政区としては、甘木市は東西2つの朝倉郡に挟まれている。
もともとは広大な朝倉郡だったのだが、安長寺の門前町だった甘木が市制を敷いた時、朝倉郡は統合を嫌がり、現在東西に分離する
格好で存在している。甘木市の東側には杷木町・吉井町・小石原村・宝珠山村等があり、西側には夜須町・三輪町がある。幾度か統
合の話があったが、朝倉郡各町がその都度反対し現在に至っている。もし甘木・朝倉が合併したとすると、その大きさは福岡市、北
九州市につぐ福岡県第三の都市となるのであるが、現地ではそういう気運にはなっていない。ともかくそういう経緯で、甘木市の中
にある高校は、昔から「朝倉高校」「朝倉東高校」「朝倉農業学校」と全て「朝倉」が付いている。
邪馬台国大研究・ホームページ/ 甘木歴史資料館 /chikuzen@inoues.net