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★☆★明石文化博物館★☆★  − 明石原人の謎にせまる − 1999.3.14(日)






	地質学の成果から、明石は200万年程前には大きな湖の底だった事が判明している。その頃この湖の畔に住んでいたアカ
	シゾウやシカマシフゾウ(大型の鹿)等の化石が、明石の海岸では数多く発見されており、現在でも明石海峡で漁をする船
	の網からこれらの化石が引き上げられる。





 




	人類の起源についての研究は今「花盛り」である。詳細は「科学する邪馬台国」の中の、「日本と日本人の起源」で考察す
	る事にしたいと思っているが、ここでは従来の通説に従って解説する事にしたい。
	以下の図は、人類の起源と発生を発掘された人骨に基づいて表したものである。学校の教科書には殆ど載っている図である
	から、義務教育を受けた人なら必ず一度は目にしているはずだ。



又、右の図はその発見場所である。これらからも解るように、人類が地球上に出現したのは今から約400万年前だと言われている。人類は、猿そのものから猿人、原人、旧人、新人と進化してきたとされているが、 日本列島にいつ頃から人類が出現していたのかを巡る問題は今も論争中である。その問題は別のコーナーで検証するとして、ここではいわゆる「明石原人」の問題を見ていく事にしよう。

1931年(昭和6年)4月18日、大蔵谷で病気療養中であった在野の考古学者直良信夫(なおらのぶお)氏は、明石市大久保町西八木海岸の海面より1メートル程上の崩壊土(前日の大あらしで崖がくずれていた。青粘土層。) の上に出土していた一つの骨を発見した。氏は以前から、この海岸一帯でアカシ象やナウマン象、シフゾウ等の化石、および石器らしい物をいくつか見つけ、旧石器人がいたのではないかと考えていたし、またその可能性についての論文も書いていた。 発見した骨を、彼は人骨、それも地層から考えて旧石器人の寛骨(かんこつ:腰骨)ではないかと考え、東京大学の人類学教室の松村瞭(あきら)主任に送り判断を仰いだ。しかし当時の考古学会は、日本には縄文時代(1万年)以前に人は住んでいない というのを定説にしていて、 日本に原人が住んでいた可能性など誰も考えていなかった。まして資料など皆無だった東京大学では、結論を出せないまま骨を直良氏へ返却した。骨は東京の直良氏の自宅に保管されていたが、 1945年(昭和20年)の東京大空襲で焼失してしまう。
この時代の在野の研究者達がたどった数奇な運命と不屈の精神は、今日我々に深い感動を与える。発見後の直良青年も、専門家の学者達の嘲笑や罵倒、世間からの冷たい罵詈雑言を浴びせられる事になる。発見した骨は自殺者のものだと言った中傷にはじまり、詐欺師、山師呼ばわりまでされた。 しかし、東京人類学会、日本解剖学会は、前代未聞のこの発見について、その疑義は後世に委ねるという注をつけて直良論文を「人類学雑誌」に掲載した。

戦後、昭和23年、東京大学の人類学者長谷部言人(はせべことんど)は、東京大学に残されていたこの骨の写真と石膏模型を検証して「北京原人」にも匹敵する旧石器人の骨であると発表し、ニッポナントロプス・アカシエンシス(明石原人)と名付けた。 直良の発見から約20年が経過していた。この発表は大きな反響を呼び、日本に原人が居たか否かを巡って一大論争がまき起こり、厳密には現在でも決着はついていない。



 



  


	1982年(昭和57年)、東京大学の遠藤萬里(ばんり)と国立科学博物館の馬場愁男(ひさお)は、世界各地から出土した人
	骨と明石原人骨との比較を行い、明石原人は縄文時代以降の新人の骨であると言う説を発表した。




	これに対し、自らも明石海岸で石器を採集した経験を持つ国立歴史民族博物館の春成秀爾(はるなりひでじ)は、1985年
	(昭和60年)3月1日〜21日の間、西八木海岸の再発掘調査を行った。この調査には、全国から地質学、考古学、人類学、解
	剖学等々多数の研究者達が参加した。
	この調査で、直良が骨を発見した層(洪積層:西八木層)から、人が加工した木器が発見された。この事により、6〜7万年
	前の旧人に相当する人類が、明石の地に存在していた事が確実となったが、しかしはたして「原人」に相当するかどうかに
	ついては今持って確定していない。





 

 







発掘の結果については、「国立民俗学博物館研究報告書」第13集(昭和62年刊行) に詳しく報告されているが、ここには「明石人骨の化石問題について決着をつける事はできなかった。」 と記述されている。又、春成も、明石原人について「筆者はあえて結論を保留する立場に立っている。」 という微妙な発言で結んでいる。











	現在の明石市西八木海岸には、明石原人発見の碑が建っている。300mばかり近くには明石ゾウの発掘現場も残されている。
	JR明石駅より山陽電車各駅停車に乗り「中八木駅」下車、徒歩約10分。



再発掘された現場の目の前には、春の陽を受けてひねもす穏やかな明石海峡がひろがる。(99年3月14日撮影)

 



以下は2001.4.28 歴史倶楽部例会で明石を訪ねた時のもの


歴史倶楽部第11回例会・明石方面の遺跡を訪ねる。






	発掘現場に立つ歴史倶楽部メンバー。この前、足下が再発掘された場所である。立て看板も新しくなっていた。論議を呼ん
	だ明石原人論争だが、現在、「原人」ではなく「旧人」だろうという事に落ち着いたように思える。しかし或いは、新発見
	までもう何も論争したくない、というのが学会の姿勢のような気もするのである。










松本清張は、直良信夫をモデルとした小説「石の骨」の中で、貧困の考古学青年が辿った運命を描写し、偏狭な学会や世間に対し警鐘を鳴らしている。その小説で主人公が述べる最後の言葉は、「私は学者的良心をもって断じて嘘は申し上げない。それでもなおかつ、認めていただけなければ、容れられる時期まで耐えるよりほかはない。」というものである。

直良信夫は、明治35年(1902)1月10日臼杵市 二王座(におうざ)に生まれ、 臼杵尋常小学校 入学、高等科2年在学中、東京都王子尋常高等小学校に編入した。大正7年(1918)岩倉鉄道学校入学、同9年3月卒業と同時に農商務省臨時窒素研究所に勤務する。大正13年直良音と結婚。音は良き理解者で、彼女に支えられながら考古学の研究を続けていた昭和六年の春、直良は旧石器時代の人骨をついに発見する。 その後は失意と非難に耐えて研究の日々を送るのであるが、長谷部が明石原人説を発表した頃、直良は早稲田大学二部に入学し、昭和七年同大学の獣類化石研究室の研究員となる。19年には早稲田大学理工学部講師になり、昭和32年学位を取得した。昭和35年早稲田大学教授に就任する。 昭和60年11月1日、明石市より直良に対して明石市文化功労賞が送られ、代理で出席した長女の三樹子は、すぐさま出雲へ飛んで帰り病床の信夫に、生涯でただ一度の賞を手渡した。それを見てかすかにほほえんだ直良信夫は、その翌日11月2日永眠した。享年83歳。

明石原人の腰骨のレプリカはここ明石博物館と、東大研究室および生まれ故郷の臼杵市にある。








	明石にあったものは「原人」だけではない。石器時代を経て、縄文、弥生、中世、江戸、そして明治から現代へと続く、
	綿々とした人々の営みがここにもあるのである。
	平安時代には明石や須磨の海岸は、月の名所として知られ「源氏物語」にも登場する。又、土器に端を発した焼き物は、
	明石焼きとして知られている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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