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馬韓の旅 潘南古墳群 2004.11.21(日)








	例によって、目覚めてから朝食の間までに、服部さんと附近を散歩した。昨夜着いてからも少し歩いたが、今朝は一寸
	遠くまで歩いてみることにした。木浦(モッポ)には、かって日本人町があったそうなので(大正・昭和初期?)年配
	者たちは懐かしいかも知れない。しかし私は、山登りをしているときに天気図を作るため、NHKラジオ第二放送で聞
	いた、「モッポでは、南南西の風、風力3・・・」という言い回しの方が記憶に残っている。長いこと、モッポてどこ
	なんやろうと思っていた。


 




	日本の植民地時代(1910―45年)、木浦はコメと綿花の、日本への積み出し港として栄えた。当時の人口は6万
	人。日本人が2万を占めた。旧市街を歩くと、日本家屋、町工場、遊郭だった建物などがそのまま残り、「日本時代の
	匂(にお)い」が濃密に漂っている。 
	1935年に「木浦の涙」のレコードが発売されると、哀切な歌は全国の人々の心をつかんだ。各地のレコード店は歌
	を終日流し、店頭には歌を覚えようと耳を傾ける人々が並んだといわれる。 
	「私たち韓国人にとって『木浦の涙』は亡国の悲しみの歌です。望郷の歌、恨みの歌でもあります」。木浦文化院の郷
	土史研究専門委員、金貞燮さん(69)は端正な日本語で語る。文化院自体、1900年に日本が領事館として作った
	洋館をそのまま使っている。 
	日本の植民地下、各地で日本人地主が急増。反面、土地を持てず、満州移民に追い込まれた朝鮮の人々が多く出た。
	渡日した人々も多かった。別れ別れになった人々の心情が、この歌に共鳴したという。「木浦の涙」の2番はこう歌う。 

		300年の恨み抱いた露積峰の下		あなたの影がくっきりと せつない操 
		儒達山の風も栄山江を抱く		あなたをしのんで泣く心 木浦の歌 





	
	儒達山は木浦市と多島海を一目に見渡せる228mの山で、屏風のようにそびえ立つ奇岩絶壁が幾重にも重なっている
	様子から、「湖南のゲゴル(冬の金剛山)」とも呼ばれる。儒達山公園内に位置する蘭公園には全国各地の春蘭、豊蘭
	などの韓国蘭と東洋蘭が展示されており、隣接する儒達山彫刻公園の彫刻とともに、木浦の見所となっている。

 

	
	韓国の観光客がやっていた撮影スタイルを真似て我々も同じように写して貰った(上左)。上右奥の石像は、秀吉軍を
	蹴散らした李舜臣(イ・スンシン)将軍の像である。首都ソウルのメインストリートのまん中にも、将軍の像が日本の
	大阪方面を向いて立っていた。秀吉の朝鮮出兵は知ってても、李舜臣という名を知る日本人はあまりいない。しかし、
	朝鮮半島では南北を問わず、その名を知らない者はいないほどの英雄である。李舜臣は、秀吉の水軍を壊滅状態に追い
	込んだ朝鮮水軍の提督であった。水軍の壊滅により、日本からの補給はひどく不自由なものとなった。そもそも中国征
	服を目的とした秀吉がまず朝鮮に攻め込んだのは、大軍を運ぶほどの船舶がなかったからであった。日本に近い朝鮮を
	上陸地とする計画が根本からくずれ、日本軍にとって戦局の悪化は避けられない情勢となった。待ち望んだ明軍は碧蹄
	館(ピョクチェグァン)で加藤清正に大敗するなど、必ずしもたよりにならなかったが、義兵たちの戦いは朝鮮軍を大
	いに立ち直らせた。兵員の三分の一を失った日本軍は引きあげ、「文禄の役」はおわった。そして再度の出兵となった
	「慶長の役」は、日本軍にとってはじめから敗色の濃い戦いであった。文禄の役のとき朝鮮半島の北端にまで達した日
	本軍は、今回はソウルに達することもできなかった。



儒達山から眺める木浦市街。「日本の町ににてるでしょ。」と朴さん。
そういえば長崎に似ているような。所々に日本庭園のような庭を持った家が見える。







潘南(パンナム)古墳群

徳山里古墳群

	羅州市潘南面所在地を経て、伏岩里、徳山里、大安里の紫微山の低い丘陵一帯には40余基におよぶ古墳群が分布して
	いる。栄山江流域で栄えた馬韓時代の古墳であり、5基の甕棺とともに、土器、硝子玉、青銅輪が出土した。1917
	年に発掘調査された徳山里9号墳からは12基の甕棺と金剛冠(国宝第295号)、金銅靴。金指輪、土器などが出土
	している。新村里6号墳は、かつては前方後円墳とも推測されたが、発掘の結果否定されたという。しかし9号墳から
	埴輪が出土しており日本との深い関係が窺える。昨日の多侍面・伏岩里古墳に続き、今日は、藩南面・徳山里古墳群と
	内洞里古墳群等を見学した。






	<藩南面古墳群>

	羅州市の西南栄山江支流の三浦江沿いに位置し、標高98.3mの紫微山を取り囲むように分布する古墳群である。
	分布範囲は広大で行政区画上の徳山里、新村里、興徳里、大安里、石川里と5つの行政区にまたがっている。
	
 



 





 


	徳山里3号墳。空は晴れ渡り、保存された古墳の芝が輝いている。日本の古墳のように周濠を持つ大型の円墳である。
	紫微山の北西に位置する徳山里支群の一基で、紫微山から伸びる低丘陵上の平坦地に立地する、直径23m、高さ9
	mの円墳で、墳丘には段築や葺石は見られないが、周囲には周濠が確認されている。埋葬施設は墳頂面から深さ2.
	5mの断面U字形の墓壙の中に甕棺3基が確認されている。3基の甕棺は頭部を北向きに長軸を同じ方向に向け配列
	されていた。築造年代は5世紀中期と推定される。

 

 



 

 

なんか変な形の古墳やなと思って近づくと、古墳の一部が地滑りを起こしていた。こんなのは始めて見た。

 

 




	徳山里から新村里古墳群へ向かう。廻りは田圃である(上)。下、遠くに新村里古墳群が見えているが、その手前の
	畑の中に現代の古墳が見えている。前2回とも土葬の墓を見たが、この全羅南道は特に土葬の土饅頭が多い。朴さん
	も驚いていた。そのうち韓国の山はほんまに墓だらけになるな、こりゃ。





木の後ろが新村里9号墳。右の方の石碑は8号墳と書いてあったが古墳がない。取り壊したのかそれとも林の中だったのか。









1917年藩南面新村里9号墳(上・下)から出土した5〜6世紀の金銅冠(レプリカ、本物はソウルの中央博物館)









内洞里古墳群
	
	霊岩郡は102基に至る甕棺墓が集中的に分布している地域である。1つの墳墓は複数の甕棺墓と土壙墓からなり、
	副葬品として玉類、鉄器、土器が出土したという。その中心地の1つである始終面・内洞里の双墓を見学する。この
	地は風水思想で「梅の花の落ちる所」といわれ縁起のよい地とされている。双墓は馬韓時代の支配階級の墓と考えら
	れている。

	全羅南道の古墳群には、前方後円形墳(前方後円墳ではない!)の築かれる地域と築かれない地域があり、分布に差
	のあることがわかる。実際に古墳を間近に見ると、日本の古墳のイメージとは大きく異なる点がある事に気づく。
	前方後円形墳については、墳丘が高く・墳頂平坦面がほとんどなく・前方部前端が急斜面を呈する、日本では見られ
	ない形態のものが存在し、平面形だけでは捉えきれない相違点がある。方墳・円墳に関しても、急勾配の高い墳丘を
	持つものと、不慣れであれば見落とすほどの低平な墳丘を持つ二者があり、日本の古墳の作りとはかなち異なってい
	るのがわかる。

 





<内洞里双墳>左は1号墳、右は2号墳。1号墳は長さ56m。韓国では長鼓墳というが前方後円墳ではなさそうだ。









1号墳から眺める双墳古墳。まるで鯨の背中のようだ。佐賀県にある、
弥生時代の古墳と言われている久里双水古墳がなんかそっくりのような。

 

	
	昼食はカルビ湯(タン)だったが、地元の人はイイダコのゆでた奴がはいったものをたべていた。松ちゃんが生を頼
	んだら、コマギレにされたイイダコが皿に乗ってきて、いずれもぐにゃぐにゃ動いていて、口の中に入れてもまだ動
	いていた。「それがうまいんよ。」と松ちゃんは言うが、ちょっと引いた。



	参考資料 :(土生田純之氏 2002.11.3 シンポジウム 、朝日新聞 2000.10.21 奈良版。)
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	韓国の前方後円墳日本固有の墓制と考えられている前方後円墳が韓国にも存在し、これが日本の前方後円墳の源流で
	あると韓国の研究者が主張し、話題になったことがある。その後の調査でこの古墳は3基の古墳が連接したもので、
	前方後円墳でないことが分った。しかしその後、確実に前方後円墳であると考えられるものが11基も確認され、新
	たな議論を呼んでいる。
	これらの前方後円墳は、1つを除いて全羅南道にあり、5世紀後半から6世紀中葉までの限られた期間に造営された
	という。また、日本固有ともいえる円筒埴輪(韓国では円筒型土器という)も出土している。現在では「前方後円墳
	日本起源説」が定説となっているようである。では、なぜある時期ある地域で前方後円墳が造営されたのだろうか。

			
			前方後円墳の所在地

	 1 竹幕洞遺跡   2 ウォルゲ古墳   3 新徳古墳   4 月桂洞古墳    5 明花洞古墳
	 6 咸平長鼓山古墳 7 チャラボン古墳  8 龍頭里古墳  9 海南長鼓山古墳 10 造山古墳
	11 松鶴洞古墳

				
	「在地首長の墓」説:全羅南道は栄山江流域に当り、百済に領有されるまでは政治的に自立していた。高句麗に攻め
	られた百済は475年に今のソウルから公州へ都を移すと、南方へ進出を図った。この結果、独自性を保っていた栄
	山江流域も百済の圧迫を受けるようになった。そこで、かねてより倭(日本)と交流が深かった在地の有力首長が、
	百済の領有化に抵抗するため、倭の勢力と通じていることをアピールしようとして採用したのが前方後円墳だったと
	いう説である。
	「有力倭人の墓」説 :
	当時百済に移住して百済王の臣下になった倭人が多数いた。百済は直接支配はしていなかったが、拠点的に領有地には
	有力倭人が派遣されていた。彼等が故国の墓制にしたがって、前方後円墳を作ったという説である。

	どちらの説を取るにしても、当時の日本と韓国の間の密接な交流の証拠として、前方後円墳の存在は興味深い。
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	今回、韓国で前方後円墳といわれているものの幾つかの古墳を見たし、英語の説明にも Japanese Keyhole  Toombs と
	あったのだが、日本の前方後円墳とは異なる物というのが私の印象だった。他の古墳を写真で見ても、日本で言う前方
	後円墳とは違うと思う。いみじくも英語の「keyhole」というのが言い当てているように、あの形状に前方後円墳の特
	徴があるのであって、韓国のそれはあくまでも「双墳」である。



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