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日本人の源流を探る旅 第二弾! −百済の旅−

夢村土城 2002.10.24(木)



 


	ソウルの新都心・江東区・江南地区には高層マンション・高層ビル群が林立している。これらの高層建築物群の中に、「三国史記」にいう
	百済初期の都「漢城」の中心都城「河南慰禮城」とみられる夢村土城がある。現在、夢村土城はそれが取り囲む広大な敷地がオリンピック
	公園として整備され、市民の憩いの空間となっている。1988年に開催されたソウルオリンピックのメイン会場だったところである。広いエ
	リアが、公園としてだけではなく、オリンピックの施設をそのまま残した、サイクル競技場、室内プール、重量挙げとフェンシング競技場、
	テニスコートなどのスポーツ施設村としても健在である。周りには高層ビルやモダンな建物が建ち並び、現代的な施設が公園内の古代遺跡
	の夢村土城とうまく溶け合っている。 しかし、城と言っても日本のような城ではない。土城と言うように、土を盛って市街地を取り囲んだ
	いわば「堤防」である。

 


	【夢村土城(ムンチョンドソン):(史跡 第297号)】

	「百済前期」遺跡はソウル東南郊、漢江東南岸の沖積地と丘陵一帯(蚕室地区)に集中している。平地に石村洞古墳群と可楽洞1・2号墳、
	背後の丘陵上に可楽洞3〜6号墳と芳夷洞古墳群、東方に夢村土城,その北方の漢江沿いに風納洞土城がある。この付近の城址には,この他、
	漢江南岸の平地に三成洞土城があり、山城には阿旦山城(北岸)・二聖山城・南漢山城(南岸)等があるが、ある程度考古学的調査が行な
	われたのは風納洞土城・夢村土城・二聖山城のみである。
	夢村土城は、漢江南岸にある漢城時代の平地邑城として、軍事的・文化的に非常に重要な遺跡であり、平野の上の自然丘陵を利用し、その
	上に土を固めて城壁を築き、低い丘陵部分や途切れた部分、出入口の左右の壁に版築をほどこした土城である。南北最大730m、東西最
	大540m,最大比高25mの楕円状をなし,丘陵が切れるところは北門址,南門址等と呼ばれている。


 


	1983年以前の夢村土城には,成周鐸の踏査〔1983〕等を除くと,ほとんど考古学的調査の手が及ばず、文献上の百済都城との対応が考
	古学的に証明されたことはなかった。1983年の城壁調査に始まり、1984年、夢村土城発掘調査団としてソウル大學校・崇田大學校・漢陽大
	學校・檀國大學校の各博物館が合同調査し、1985年には同調査団としてソウル大學校博物館が土城内全域に試掘坑をめぐらした。これまで
	に版築城壁、土壙墓、甕棺墓、竪穴住居址、地上建物址、貯蔵坑、積石遺構、蓮池遺構等と多量の遺物が確認されている。

	夢村土城は、5世紀前葉からの遺構が確認されているが、遺構以外で4世紀に遡るべき遺物が土城内にみられることも事実であり、土城内
	に未知の「4世紀の遺構」が存在した可能性は残っている。5世紀後葉から土城内に高句麗土器が現れ、土城内に小積石塚や土壙墓が造営さ
	れ、5世紀前期とは土城の機能に若干の変化があったようである。5世紀前期から中期にかけての墓制の変化ともあわせて,当時の社会変動
	を憶測させるが、6世紀半ばまでで土城は廃絶したらしく、土城内で新羅土器はみられなくなる。これは、高句麗・長寿王の南征、漢城の
	陥落と百済・蓋鹵王殺害、百済・文周王の熊津遷都という一連の乙卯の変(475年)と対応するのかもしれない。「三国史記」の乙卯の変前
	後の記述にみられる地名・城塞名も「漢城」は、蚕室地区周辺と夢村土城を指すと思われる。

 


	百済では、漢江流域と錦江流域で文化の違いがあり、墓制や土器がいくぶん異なっているが、百済土器を特徴づけるものとしては三足杯と
	瓶が知られる。
	長崎県上県郡(対馬)峰町・恵比須山7号石棺出土の壺は、肩にめぐらした波状文などから、ソウル市・夢村土城などにみられる百済直口短
	頸壺と考えられる。5世紀後葉以後にみられる文様であり、出土した石棺も5世紀後葉とされている。

	佐賀県神埼郡神埼町・野田遺跡の古墳時代大溝からは、百済に特徴的な三足杯が出土している。確実な三足杯の国内出土例は今の所この1
	点のみである。福岡県三井郡大刀洗町・西森田遺跡からも、5世紀後半の須恵器高杯とともに溝に廃棄された百済土器高杯が出土した。
	野田遺跡の事例とともに、福岡県甘木市の池の上遺跡は、ほぼ確定的に渡来人の墓である事が判明しており、すぐ近くからは日本最古の馬
	具と言われる轡(くつわ)も出土しており、5世紀後半までの筑紫平野の一部に一時期百済系渡来人が居住した可能性を強く示唆している。



 


	これらの土器は、ソウル市夢村土城で百済土器と高句麗土器の共伴が始まる夢村1式の百済土器とされ、475年に百済の都・漢城が陥落
	した事と関係している可能性がある。熊本県玉名郡菊水町・江田船山古墳は、銀象嵌銘鉄刀で有名な、5世紀後葉〜6世紀前葉頃の前方後
	円墳と考えられるが、ここからも百済土器の蓋杯(ふたつき)が出土している。

	福岡県春日市・日拝塚(ひはいづか)古墳出土の格子目叩き長胴甕について、百済地域にみられる陶質土器であるとした意見もある。
	この古墳では高霊系とみられる垂飾付耳飾も知られている。




	瓶も特徴的な器種の一つである。奈良県橿原市・新沢千塚281号墳(5世紀後半〜6世紀初頭)、東京都足立区・伊興遺跡(5世紀後半
	以降)に出土例がある。岐阜県岐阜市・篠ケ谷出土の短頸壺は5世紀末から6世紀前葉に位置づけられている。また、大阪府藤井寺市・野
	中古墳出土の鍔付壺について、百済土器とする説もある。大阪府堺市・四ツ池遺跡第100地区では四足土器が出土している。
		
	以上のように、由来を漢江流域に限定できる対馬・福岡・佐賀の事例以外をみても、5世紀後葉頃のものが多く、この時期に西日本古代文
	化において一大画期が認められるのである。百済が南遷した事との関連を想起せずにはいられない。





 




	城の内部からは、住居址・貯蔵穴・土壙墓・積石塚・甕棺墓などが発見された。土城からは、壷・短頸壷・三足土器・器台・甑・円筒形土
	器などの各種土器、鏃・鎌・刀子・轡・鐙などの鉄器とともに、中国の西晋(265〜316)時代の灰軸銭文土器も出土した。
	百済土器・武器・釣り針・石臼などの様々な生活遺物も出土し、百済時代を研究する貴重な資料となっている。夢村土城は軍事的な性格が
	つよく、城内から高句麗系の遺物も出土しており、百済の熊津遷都以後、この城が高句麗にとっても重要な拠点となっていたと思われる。 
	ここがオリンピック競技場に指定され、ソウル大学博物館チ‐ムの5次にわたる発掘が行われるまでは、この土城についてはあまり知られ
	ていなかった。現在の土城は、発掘で得られた情報を基にして一部再建された。




	土城の全体は菱形で、城の東西南北は出入口が設けられている。城の東に小さな外城がある。全長は2.285mであり、城壁の高さは一定では
	ないが、約13〜17mである。外壁は、丘陵の傾斜面をけずって成形した後に段を作り、城壁の外の傾斜面には木柵を設置している。
	百済の城郭には木柵施設が多くみられるが、夢村土城の他にも、大田月坪洞、公州錦城洞、天安白石洞などでの調査例がある。 
	城の周囲には垓子(濠)をめぐらせ、北方に防禦用木柵を設け、城壁の四隅の高所では3〜5mの土壇を設けて見張り台の機能をもたせて
	いる。この城は北方から攻めて来る敵を防ぐように構築されているのが特徴である。

 





風納土城





	【風納土城(プンナントソン)】
	漢江の千戸大橋の下方に位置し、漢江の北にある峨嵯山城と川を挟んで向き合う形になっている。夢村土城と同様に、初期百済王国の防御
	施設で、漢江南岸に江と平行して形成された長方形の土城である。土城跡は周囲4kmに達するが、現在発掘された遺跡は2.2kmである。




	2002年3月9日、国立文化財研究所は、風納土城は紀元前後に築造されたんものではないかという見解を発表した。放射性炭素年代法による
	測定で、一部の出土物が、紀元前2世紀〜紀元後2世紀頃のものと思われるというのである。
	「三国史記」によれば、紀元前18年に百済が建国されたと書かれており、今回の測定はこれを実証しているのではないかと騒がれている。
	 風納土城は、百済建国時の「蛇城」と比定される。青銅製用具と多くの土器がこの一帯から出土している。

 


	百済文化は、都邑の変遷によって、漢城時代(4世紀初〜475年)・態津時代(475〜538年)・泗砒時代(538〜660年)に
	わけられる。漢城時代の行政中心地であった「漢城」、または「慰禮城」の正確な位置は明らかではないが、風納土城や夢村土城は有力な
	候補地とみられている。

 


	現在、土城は2,3の峠で道路により分断されており、中へ入らないよう柵が設けられていたが、乗り越えてガイドのキムさんと土城上に
	登ってみた。見た感じは、奈良の橿原市にある「益田の堤」と同じように、盛り土がずっと続いている堤防であった。

 



大韓民国国立金海博物館発行「同館案内目録−日本語版−」より転載。



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