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日本人の源流を探る旅 第二弾! −百済の旅−



2002.10.25(金)




		【定林寺((チョンリムサジ)址】
		百済の最後の都だった扶余の街に入る。ビルに囲まれた扶余郡庁前のロータリーに、唐・新羅連合軍に5000人の軍隊を率いて黄山
		で最後まで抵抗した、愛国の武将として知られる「階伯将軍(ケベクチャングンサン)の像がある。戦いに望んで妻子を殺し、討ち死
		に覚悟で戦った人物である。車はその脇を抜けて定林寺跡に着く。池と五重の塔と南門跡,そして高麗時代の石仏が残っている。
		本来はもっと多くの建造物があったようだが、660年の唐・新羅連合軍の百済攻略の際すべて破壊されたという。






		仏教文化が栄えていた百済の代表的寺院跡で、中門、塔、金堂、講堂が南北一直線に並ぶ伽藍配置は日本にも伝わり、四天王寺式
		伽藍配置となった。創建当初のものと言われる五重石塔が残っている。この塔は石塔としては初期の物で,木造の様式をそのまま石
		で作ったものである。この五重石塔の初層の塔身に百済を攻めた唐の将軍蘇定方が、戦勝を記念して刻んだ「大唐平百済国碑銘」に
		諸将の功績や百済滅亡の歴史などが刻まれているそうだが、今は風化して殆ど判別できなかった。

 



 


		1942年の発掘調査の際、「定林寺」という文字が刻まれた高麗時代の瓦片が出土したことにより、定林寺と呼ばれるようになっ
		た。寺の跡地の全面的な発掘とともに、多くの遺物と寺の規模が明らかになった。その結果、金堂と講堂が南北に一直線上に配置さ
		れた典型的な百済時代の伽藍配置である事が分かった。 

 

 




		現在、この寺院の跡地には百済時代の石塔である定林寺址5層石塔(国宝第9号)と定林寺址石仏座像(国宝第108号)が残されている。 
		百済建築様式の代表的形態とされる定林寺址5層石塔は、木造塔の構造を石材に換えて表現してあり、全体的に荘重で明快な雰囲
		気が漂い、格調高い気品が感じられる。 また御堂の中に安置されている石仏座像は、高い台座の上に座っており、現在では火災と
		激しい摩耗によって仏身は相当痛んでいる。毘盧舎那仏であると推定されているが、この御堂が建つまでは、5層石塔と南北になら
		んで屋外にあった。痛みがひどいのは多分そのせいだろう。





 


















		■場  所 : 扶余郡扶余邑東南里 
		■交  通 : 扶余市外バスターミナルから徒歩で10分 
		■入場料  : 600 ウォン 
		■時  間 : 6:00〜19:00(11〜2月までは7:00〜18:00) 



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