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日本人の源流を探る旅 第二弾! −百済の旅−

水原華城 2002.10.24(木)






		仁川空港に降りたって、ソウル市内で昼食(故郷定食)を食べた後、高速道路に乗って水原市をめざす。今回の旅は「百済の旅」な
		のでソウルよりも公州、扶余に見所が多く、その途上朝鮮王朝(李氏朝鮮)時代の城塞都市「水原華城」を見て、儒城温泉に2泊し、
		またソウルへ引き返してソウルで1泊という予定である。
		ソウルを出発したバスは京釜高速道路を通って水原に向かう。京釜高速道路は当時の朴大統領が提唱して1970年2月、2年の歳月をか
		けて完成したものだ。旧盆の帰省時には大渋滞となるそうだが、今日のバスは快調に飛ばして行く。


		【京釜高速道路(国道1号線)】
		韓国内を縦断する高速道路はソウルと釜山を結んでいる国道1号線で、大田(デジュン)付近で忠清南道方面へ分岐している。この
		高速道路は朴大統領時代に作られ、国自体が貧しい時期だったせいもあって建造当時は悪評が高かったようだが、今では韓国内の主
		動脈となっている。我々のツアーもこれを通ってソウルから公州、扶余と移動した。この道路の建造当時の計画では、軍事道路とし
		ての性格が濃かったようだ。北との戦争勃発時の輸送路として、また、滑走路としても使用できるように設計されているそうである。
		現在では、産業道路としてはもとより、日本と同様にレジャーのための道路として、多くの国民がその恩恵にあずかっているが、ラ
		ッシュアワー時にソウル市内へ入ってくるレーンは、これまた日本同様毎日大渋滞である。

		韓国の葬制は土葬である。道路を走っていると丘の麓に小さな土饅頭がいくつも見える。そこに遺体が葬られている。韓国の人口4
		600万のうち、無宗教層が約50%、残りの約半分がキリスト教信者で、半分が仏教だそうだ。そして仏教は儒教の色合いが濃く、
		親の遺体を焼くという行為には強い抵抗があるらしい。しかし放っておけば韓国の山は墓だらけになってしまうので、政府は火葬や
		納骨堂収納を勧めているらしいが、依然として土葬は無くならないと言う。




		【水原華城(スウォン・ファソン)】
		大田(デジュン)の町は少し曇っていた。肌寒い。高速道路から下りると程なく、水原城が見えてくる。町全体が城壁で囲まれたも
		ので、日本で言う城のイメージではない。中世ヨーロッパの城壁都市を思わせる。実際、当時のヨーロッパの城郭の影響を受けたそ
		うである。広大な領域を石垣とレンガで囲い、中に邑がいくつもあった。要所要所に大砲や見張り所を配し、外敵の侵入にいち早く
		対応できるようになっている。この城は幾度にわたる戦禍で破壊され、近年修復・復元したものである。

		ここは百済の遺跡ではなく、朝鮮王朝(李氏朝鮮)時代第22代、正祖(チョンジョ)が2年9ヶ月をかけて1796年に完成させ
		た城郭で西洋技術を駆使した城郭都市だ。正祖王はここに遷都することを考えていたようだが、4年後に死去したため、その夢は果
		たせなかった。城壁の長さは5.8kmにも及び、東に蒼龍門、西に華西門、南に八達門、北には長安門がある。東西南北の四方に
		ある楼門、アーチ型の水門が美しい華虹門、市内を一望できる西将台などからなる。

 


		予定では今日はこの後「戦争記念館」を回るようになっていたが、これは大阪の旅行社の所長が是非とコースに入れたもので、我々
		は特に行きたい場所でもなかった。そこで金さんに頼んでそこはパスし、城壁の上を歩いて全部回りたいとお願いした。
		金さんは困っていたが、じゃそうしましょうと1時間以上費やして城壁めぐりをする事になった。「ここを全部回りたいという日本
		人なんか普通いませんよぉ。みんなちょっと登ってみて10分くらいで次へ行くんですけどねぇ。」

 



 

 


		世界文化遺産に登録されている水原(スウォン)市の華城(ファソン)は、長さ5.8kmの城壁が城であり、戦に備えた城として
		の機能を備えている上に華麗で荘厳さを保ち、近代城郭史上でも特記される城塞都市とされている。






		華城を築いたのは朝鮮王朝第22代正祖王(在位1777〜1800)で、自分の父が政争の犠牲になって王位にも就けず非業の死
		を遂げたことを悼んでいた。即位した正祖王は、風水の術で墓所としては最高の地と出た水原の南の花山に墓所を築造し父の遺骨を
		移した。同時に父の墓所のそばに住みたいと都を水原に移し、3年近い歳月を費やし華麗で雄大な華城を築いた。

 





 


		華城は長さ5.8mの城壁がぐるりと水原の街を囲み、城壁内の面積は約130haでその中に王宮などあった。城壁などの城郭築
		造には石とレンガを併用し、矢と槍、剣による攻撃を防ぐ古いタイプの城郭ではなく、鉄砲の攻撃に備えた近代的城郭になっている。
		城壁の東西南北には長安門、八達門、華西門、蒼竜門があり、ほかに戦闘に備えた砲楼、将台など48カ所の施設を城壁の各所に配
		置している。

 



 
上右の砲身に触ってみたらペンキが塗り立てで手が黒くなってしまった。「塗り立て注意」の看板はなかった。


		華城は都を守る城郭としての機能を備えるとともに、城郭の建造物には芸術的な美しさがある。また、築城の工程や日程などの記録
		が完全な形で残っている面でも建築学、建築史学的にも大きな価値を持っている。

 




		日本で城と言えば戦いに重きをおいた山城、後には平地に堀をめぐらせ天守閣をそびえさせた城をイメージするが、韓国の城は人々
		が住む街全体を守るために城壁で取り囲む形式になっている。水原(スウォン)市は華城(ファソン)の周囲約5.7km、高さ約
		7mの石造りの城壁で取り囲まれた広さ130haの城塞都市である。

 

 








		城壁の中の宮殿には王が住み、一般の人々も城壁の中で生活し、日用品や食料を売る市場や食堂などの商店街もある。城壁の上を歩
		いて各所にある門や楼閣を見物しながら水原市の市街地を眺めたり、城壁に沿って歩く城壁めぐりをして、日本の城郭には無いもの
		を求める日本からの観光客も多い。
 

上右は、観光客を乗せて水原市内を走る龍車。

 

上左のアーチの中を普段は水が流れていて、その水蒸気で上部の門の辺りに虹が出ることから華虹門と名付けられた。なんてロマンチック!

 





今回の「百済の旅」参加者全員。左から、東江、井上、錦織、栗本、河原、橋本、服部の各氏。
早くも「来年は済州島にするかそれとも中国?」ともめている。


		水原市を取り囲む華城の城壁には長安門など東西南北の四カ所に城門があるほか、戦いに備えて砲楼、大きな弓を放つ弩台、攻め来
		る敵を監視する楼閣、軍事指揮所の将台、のろしであげて通信するのろし台などがある。また、水原川の水門を兼ねた珍しい華虹門
		は、7つの水門から流れ出る水があげるしぶきが虹を作り、石造りの門を幻想的な美しさに変え、水原八景の中のトップにあげられ
		ている。水原の北はソウルで、華城の正門はソウルに向かっている北の長安門である。

 



 


		世界文化遺産に登録されている華城は、城郭建築、建築学的にも素晴らしいもので、華麗で荘厳な華城は長々と見物しても全然飽き
		ない。日本にはない大陸的な城郭の造りを見て、あらためて民族とその成り立ちについて深く考えさせられた。

		戦争記念館も確かに忘れては行けない出来事を記念した、特に朝鮮の人々は日本人に見て貰いたい場所かもしれないが、我々の正直
		な気持ちとしては、「もう謝っているのに、まだこれでもか、これでもかと謝罪を要求される。もう、いいかげんにして欲しい。」
		という所ではないだろうか。我々の世代は、過去日本が朝鮮半島に対して行った行為を知っているし、秀吉と伊藤博文は今でも韓国
		における極悪人とされているのも知っている。
		しかしそれを知らない世代に対しては、ちゃんと歴史の足跡を教えるべきであろう。修学旅行で戦争記念館を訪ねる学校が多いとい
		う事だが、いいことではないかと思う。それを見た若い世代がどう思うかはもう若い世代にまかせたほうがいいだろう。今後日本と
		韓国がどうやって付き合っていくかは、彼らの感性と品性と良識に委ねるほかない。

		我々のようなロートル組は、こうして歴史の足跡を訪ねながら、壮大なそのうねりを思い、悠々たる天穣、稜々たる古今に想いをは
		せるのみだ。





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