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日本人の源流を探る旅 第二弾! −百済の旅−

宗廟 2002.10.27(日)




		【宗廟(ジョンミョ/チョンミョ、Chongmyo Shrine 史跡第125号)】
		高麗時代は、宗廟を「太廟」とも呼んだ。李氏朝鮮時代の27代の歴代の王と王妃が葬られている所である。
		といっても実際にここに遺骸があるわけではない。ここには神位(位牌)があるだけで、実際の古墳は扶余の町の周囲に点在してい
		る。ソウルの中心部である鍾路区梭苴エ一帯に位置している。日本ではこの王朝期間を「李氏朝鮮時代」と呼び、多くの書物もそう
		表現してあるが、今の韓国では「朝鮮王朝時代」と呼ぶ。李氏王朝という呼び方は韓国では嫌われるという事だが、ガイドの金さん
		はその理由については歯切れが悪かった。

 


		間口の広い建物は李王朝の古さを誇っていて、これらの場所は世が世ならば一般人が入れる場所ではないのだが,日本が占領時代に
		すべてを破壊し尽くして、建物すべてが復元されたため、現在は観光地として一般に開放されている。

 




		朝鮮を建国した太祖李成桂(1392〜1398)が、首都を開城から漢陽(現在のソウル)に移しながら、先に王宮の位置を決め、その東側に
		は「宗廟」を、西側には国土の神と穀物の神をまつる「社稷壇」を建てるようにした。 宗廟は、朝鮮王朝の歴代の王と王妃をまつる
		所で、社稷壇は、国土の神をまつる所で、この2ヶ所は、国を象徴する重要な意味を持つ建物と言える。 それで、国の基礎を意味す
		る言葉として、「宗廟・社稷」という言葉が使われるようになった。

 

 




		現在は、宗廟が史跡125号、宗廟正殿が国宝第227号、永寧殿が宝物第821号、宗廟祭礼が重要無形文化財第56号、宗廟祭礼楽が重要無
		形文化財第1号に指定されている。 また、1995年12月に人類文化有産としてその価値を認められ、「世界文化および自然有産の保護
		に関する協約」に基づき、ユネスコに世界有産として登録されている。



 


		宗廟祭礼とは、宗廟で行われる王朝の先祖に対する祭祀儀式を言う。 朝鮮王朝で取り行なう様々な祭祀のうち、規模が大きくて大事
		な祭祀であったので、「宗廟大祭」とも言う。 宗廟祭礼は、もともと四孟朔と言って春夏秋冬のそれぞれの季節の初めの月と、その
		年の12月に1回取り行なった。永寧殿の祭礼(御霊祭)は、春と秋に、年に2回行ったが、今は陽暦5月の一番目の日曜日に、王の末
		裔にあたる一族で全州李氏の人々が集まり、伝統的衣装をまとって祭礼楽、楽章など、当時さながらの大祭を行っており、その模様
		は一般に公開されている。




 


		7世紀の後半に、唐(618〜907)と新羅の連合軍が百済を、続いて高句麗を滅ぼしたが、まもなく新羅は唐の勢力を排除し、676年には
		朝鮮半島の大部分を支配した。新羅は唐の文化を移入する政策をとり、仏教文化を中心にして唐の文化が花開いた。新羅では骨品制
		と呼ばれる氏族制的な身分制度が採用され貴族の力が強かったが、やがて王室内の争いがたびたび勃発し、国力は衰えた。
		高句麗の一族「大祚栄」は、東北地方に698年、「震国」(後に渤海と改称:〜926)を建国した。10世紀になると「王権」が「高麗」
		(918〜1392)を建国して半島を統一し、「開城」を都とした。高麗では唐の制度を採用して栄えたが、1259年には中国大陸を中心に
		覇権を著しく拡大した「元」に征服される。高麗では仏教が国家の保護により盛んになり、製陶の技術がすすんで高麗青磁が作られ、
		世界最古の金属活字による活版印刷も行われた。


宗廟正殿(チョンミョ・チョンジョン)。広場の石畳が開放感を与える。後ろの柱と柱の間に、1組の王と王妃が祀られている。



太祖 李成桂。
		14世紀になると元の勢力は衰え、次第に明に北方へ追いやられる。1392年、「李成桂」は、高麗を倒し「李氏朝鮮」(1392〜1910)
		を建国し、李朝の太祖となって都を漢陽(現ソウル)においた。李氏朝鮮では朱子学を国学とし、明の制度を取り入れて官僚国家の
		体制を整えた。また銅活字による印刷が普及し多くの書物が印刷された。世宗は1446年に朝鮮固有の文字である訓民正音を公布し、
		文化の発達と普及に役立った。これは後にハングル文字として流布し、現在でも使われている。以後李氏朝鮮王朝は、儒教をベース
		にした文治国家として500年以上にわたる長期政権をしくことになる。		

 

王たちは、正殿と永寧殿に分けて祀られている。功績のあった王と、大したこと無かった王とで別れているようだ。




		李朝政治を動かしていたのは、両班(ヤンパン)という特権身分の官僚であるが、この両班は、王位を巡る争いにも加わるようにな
		り、儒学上の学派の争いとも結びついて党争を繰り返し、必然的に政治の乱れを引き起こした。 しかも16世紀後半には豊臣秀吉の朝
		鮮出兵(壬辰・丁酉の倭乱)を受けて国土の大部分は荒れ果てた。このとき日本軍は、当時世界最高水準にあった種子島銃を使用し、
		圧倒的優勢に戦闘を進めるが、大砲をともなった明の参戦、朝鮮半島の在地領主の蜂起、海上での敗戦などによって敗退していくこ
		とになる。




		このとき、亀甲船を率いて活躍したのが「李舜臣」である。彼自身は、撤退する日本軍を追撃する最中に、流れ弾に当たって絶命する
		が、秀吉の攻撃ははねのけた。日本を退けた李氏朝鮮だが、その後も国内の混乱は続き、北方の女真族が建国した清に苦しみ、結局、
		1637年に「清」の攻撃を受けてこれに服属した。

 


		李氏朝鮮王朝時代は、時期的には大部分徳川幕府の時代と重なっている。西暦では、1392(1393)年から、1910年の日韓併合までを朝
		鮮王朝の時代と呼ぶようで、朝鮮王朝末期の1897年からは国名が大韓帝国となるが、この時の皇帝も朝鮮王が引き続き継承し、最後
		の27代まで続いた事から、この大韓帝国時代も、朝鮮王朝の時代と見ていいようだ。


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