Sound: Boxer

日本人の源流を探る旅 第二弾! 百済の旅 2002.10.25(金)





	扶餘から一般道を東へ2,30分走る。ずいぶんと田舎町へ入っていく。途中運転手さんとガイドの金(キム)さんは、付
	近の人に尋ねながら遺跡を探す。道の左側に大きな看板が立っていて、内容はハングルなのでわからないが、書かれている
	絵を見てみんな「ここだ、ここだ。」と叫ぶ。今回は、参加メンバーは7人だが、マイクロバスは15人乗りくらいのもの
	を用意してくれていたのでずいぶん楽をしたのだが、この遺跡へ入っていく時には心底心配した。看板の脇を入っていくと
	次第に道は細くなっていく。小さな牧場を過ぎたあたりから、バスがやっと1台通るくらいの道幅しかない。
	「すれ違ごうたらどうすんねやろ。」「これ、行くんはえぇけど、Uターンできるんか?」みんなが口々に心配するのをよ
	そ目に、運転手さんはかまわずぐんぐん松林の中へ入っていく。バスの両側の窓を松の葉がこする。



 


	途中小さな石碑と説明版のようなものが見えたが、その手前に墓があったので、墓の付属品かなと思って黙っていた。バス
	はもうこれ以上は進めないという所まで来たが遺跡らしきものはない。「まさか歩いて行くんじゃなかろうな。」「途中に
	あったんちゃうか?」とみんなが騒ぎ出すが、結局引き返してみようと言うことになり、運ちゃんがうまいことUターンし
	て、来た道を引き返す。程なく左側に小さな石碑があるのを私と錦織さんが見つける。「松・・」と見えたので「ちょっと
	止めて!」とバスを降りる。「ここだ、ここだ。」


	ガイドの金さんは。「えぇー、これ。この石碑だけぇ。」と驚く。遺跡をさんざん見てきた我々は、発掘現場が既に埋め戻
	されて、ただの畑や原っぱになっているのはやまほど見てきたので、石碑が建っているだけでもめっけもんなのだが、ちゃ
	んとした復元遺跡をイメージしていたのか金さんは、喜ぶ我々を見て信じられないという顔をしている。「よかった。よか
	った。」と喜ぶ栗本さんに金さんが「ほんとにこれを見て楽しいんですか?」と聞く。「楽しいよぉ−」と言う返事にケラ
	ケラと笑い出す。「変な日本人。こんなの初めてですよぉ。」


	「歴史はイメージだよ、イメージ。」「ここに2000年前壮大な集落があった所を想像してごらん。楽しいやろ。」「ほ
	んとの遺跡巡りというのはこんなもんやで。想像力や。」とみんなで、遺跡巡りの醍醐味を金さんと運転手さんに説明する
	が、金さんは笑い、運ちゃんはあきれたやつらじゃ、という顔をしたままだ。おそらくこんな所へ来たいといった観光客は
	我々がはじめてなのだろう。


	しばらく行くと、さっき墓の後ろに見えた石碑と看板もやはり、松菊里遺跡の記念碑だった。韓国では今でも土葬なので、
	こうやって土饅頭を作って遺体を埋めるのだが、それにしてもこんな著名な遺跡群の中に、と思ってしまう。日本で言えば
	吉野ヶ里に匹敵するような遺跡なのだが、ここでは国のものにもなっていないし、遺跡はもとの畑へ逆戻りしている。韓国
	では遺跡に指定されると地価が下がる事から、皆指定されるのをいやがるのだそうだ。それにしてもなぁ、と思う。

 



	【松菊里(ソングンリ)遺跡】

	忠清南道(チュンチョンナムド)の扶餘(プヨ)で発見された青銅器時代の、日本の時代区分で言えば縄文末期から弥生時
	代にかけての大規模集落遺跡で、その発生は紀元前5〜4世紀頃と推定される。朝鮮における水田稲作遺跡として、平壌市
	南京遺跡などとともに有名になり、多くの住居址が発見され、米をはじめ多くの穀類や生産道具がみつかるとともに、青銅
	器には東北アジアとの繋がりが見られるものがあるなど、穀物栽培の研究に重要な遺跡となった。




	周囲を濠と柵で廻らされた環濠集落はその後日本でも多くの類似遺跡が出土し、ここで出土した土器や発掘された住居跡な
	どは、松菊里式土器、松菊里型住居と呼ばれ、その後の我が国の稲作の起源や考古学の研究の基礎ともなっている。
	また、埋葬施設である石棺墓なども、その後我が国の北九州地方をはじめとして多くの遺跡に類似のものが見られ、副葬品
	に納められている石鏃や石剣なども北九州から出土しているものと殆ど同じである。
	日本最古の稲作遺跡とされる佐賀県唐津市菜畑遺跡、福岡県板付遺跡等を中心とした、西北九州地域の遺構から出土する水
	稲耕作にともなう石器は、松菊里遺跡から出土するものと形状等が酷似している。それ故、我が国ではこれらの石器を大陸
	系磨製石器と呼ぶ事もある。
	住居は竪穴住居で、住居の中央部に、両側に2本の柱穴が付随した楕円形の土壙があり、松菊里遺跡で同じ構造の竪穴住居
	が多数発掘されたことで「松菊里型住居」と呼ばれ、弥生前期〜中期にかけて北部九州を中心として西日本に散見される。
	岡山県の南溝手遺跡、愛知県・朝日遺跡、神奈川県の大塚・歳勝土遺跡などにも類似のものが見られる。
	松菊里遺跡では底部穿孔の甕棺が3基検出されているが、いずれも直立埋置されており,土器底部が棺底に当たるので,水
	抜き孔と考えられ、すべて焼成後に穿孔を施している。(姜仁求ほか1979:國立中央博物館1978)。しかし、直立埋置され
	ているが底部穿孔のない甕棺墓もあり、必ずしも統一されているわけではなく、また松菊里遺跡に近い公州南山里遺跡・松
	鶴里遺跡でも同様の甕棺がみられる。

 


	錦江の支流である石城川に沿って広がる平野地帯に低く突出した丘陵地帯で発見された。韓国最大の青銅器時代の集落遺跡
	で、面積は数万坪に達する。木柵を巡らした集落址には、数百基を越える住居があったようだが、これまで竪穴住居址約60
	基と石棺墓・甕棺墓・木棺墓など墳墓が約10基確認された。


	


	<住居址>
	方形住居址は主に54地区に密集して分布し、屋根の構造と材料が確認されたものもある。円形住居址は主に55地区に多
	く、床面中央に楕円形の穴を掘り両端に2個の柱を立てるのが特徴で、松菊里型住居址とも呼ばれ、韓国の西南部と東南部、
	および日本にまで影響を与えた。住居址から出土して展示されている遺物のうち、石鎌・石包丁・三角形石包丁・袂入石斧
	・柱状石斧など農耕具類と、非常に小さい石剣および口縁がやや広がり胴部がふくらんだ松菊里型土器と丹塗磨研土器が特
	徴的である。銅斧鋳型と多量の炭化米・籾痕土器片は、当時の松菊里で生活した人々が、青銅器を作り稲作を行った事を示
	している。遺物は紀元前5〜4世紀頃のものと思われる。	扶余博物館の先史室には、発掘資料の成果を元に、松菊里遺
	跡54・55地区を中心とする集落の構造・住居の形態・生産活動・墳墓など青銅器時代の生活様相を復元した模型(縮尺
	約1/35)と、松菊里型円形住居内での生活風景の一部を復元した模型が展示されている。


	


	



	<石棺墓>
	松菊里遺跡石棺墓のうち青銅器が発見された墳墓は、複数の板石で棺をつくり、頭側が足側よりややひろく、蓋石には1枚
	の大きな石を用いた。遺物としては、遼寧式銅剣・銅鑿・石鏃・磨製石器・菅玉・曲玉などがある。遺物から見て紀元前5
	世紀頃の墓と思われ、松菊里遺跡住居址と同じ文化段階の墳墓であると思われる。

	長方形に深く掘った穴の中に板石を組み立てた、長さ205cm・最大幅100cm・高さ80〜90cmの石棺墓である。出土遺物には、
	遼寧式銅剣・破損した銅剣を再加工した鑿・磨製石剣・石鏃と玉類がある。松菊里55−8号住居址から出土した鋳型で確
	認される扇形銅斧は、中国遼寧地方で遼寧式銅剣と共伴する例が多く、松菊里石棺墓は松菊里型住居と同じ文化の所産と思
	われる。年代は紀元前5世紀頃と思われる。


	 
	

<甕棺墓> 甕棺墓は、土器をまっすぐ、あるいはやや傾けながら立てて埋め、上は平らな石で蓋をした墓で、扶餘松菊里を中心とした 錦江流域における青銅器時代文化の特徴の1つである。甕棺は、日常生活につかわれた大きな松菊里型土器をそのまま利用 した。土器の底に穴(排水用と思われる。)を開けたのが目を引く。甕棺は、大きさから見て乳幼児の墓と思われるが、主 に住居址の付近で発見される事が多く、副葬品として菅玉を納めたものもある。 扶餘松菊里、公州南山里、公州松鶴里・益山石泉里など中西部地方で発見されており、いわゆる松菊里型土器を利用した甕 棺墓であるという共通性をもっている。甕棺よりやや大きな穴を上下二段に堀り、甕棺を立てて埋め、石で蓋をした墓であ る。   <松菊里型文化> 扶餘松菊里遺跡と出土遺物は、韓国の青銅器文化の中で独特な特徴を持っており、松菊里型文化と呼ばれる事がある。主な 特徴としては、床面中央に楕円形の作業穴が設置された松菊里型円形住居と、それに伴う貯蔵用の小さな土壙・無文土器を 立てて埋めた乳幼児用甕棺墓・松菊里型土器・袂入石斧・三角形石包丁・小さな磨製石剣の出現、そして稲作により定着し た農業社会の形成などをあげることができる。 こうした松菊里型文化の内容を持った遺跡は、錦江流域で発生し南部地方へ次第に広がって、一部は日本の九州地方にまで その影響を及ぼした。 松菊里(ソングンニ)遺跡は、朝鮮半島に稲作農耕が定着した青銅器時代の代表的な遺跡として知られる。紀元前4,5世 紀。日本の時代編年では縄文時代晩期にあたる。少し遅れて、日本列島でも水田稲作が始まった。唐津市の菜畑遺跡や福岡 市の板付遺跡で見つかった 縄文晩期の水田跡は「水田耕作の始まりも弥生時代」という定説を見直すきっかけとなった。その菜畑で見つかった炭化米 と松菊里遺跡で見つかった炭化米の形状が酷似していると、佐賀大学教授の和佐野喜久生(わさのきくお)氏は指摘してい る。松菊里遺跡は、日本の稲作の「母」なのかもしれないのである。   丘全体が松菊里遺跡で、広く見れば69ヘクタールあると言う。百済最後の都だった扶餘(fuyo、phuyo)から東へ車で30 分ほど行った所にあり、現在は松林に囲まれた畑になっている。畑にはじゃがいもや里芋が植わっていた。もう収穫は済ん だのか、枯れた葉っぱが多かった。数年前、十何次かにわたる発掘が済んだ後、遺跡はすべて埋め戻されている。松林が切 り開かれているその道路に沿ったようにして柵列跡が見つかっている。物見やぐららしい柱跡もあった。   日本の縄文末期から弥生時代にかけてを、韓国では「青銅器時代」と呼ぶ。その時代編年の決め手ともなるコンパスが「無 文土器」である。表面に何も模様のないツルツルした土器で、その編年は学者によって違いはあるが、紀元前7世紀頃から 紀元前後とされている。 稲作による農耕社会が発展し、富の蓄積や階級差も発生して、権力者による政治的な支配が始まった時代である。 その時代にあって、「松菊里遺跡は、今の扶餘郡くらいを支配するクニの中心集落だっただろう。」と、九州大学の西谷正 (にしたにただし)教授は言う。「奈良時代の神埼郡・三根郡規模のクニとその中心集落である、吉野ヶ里。それと同じ関 係がここ(松菊里)では少し早くできていたと思います。」 【「倭人伝を掘る」 平成10年12月20日 長崎新聞社発行】   昭和50年(1975)から始まった発掘調査で、松菊里遺跡では60あまりの竪穴式住居跡のほか、10数基の石棺墓、かめ 棺墓が確認され、石棺墓からは琵琶形銅剣や菅玉、磨製石剣などが出土した。「遼寧式(りょうねいしき)銅剣は、その名 の通り中国東北地方の遼寧省一帯にルーツを持つ銅剣で、韓国式銅剣や日本の細型銅剣の原型でもある。そういう意味でも 弥生文化の源流がここにある。」と西谷教授。 ------------------------------------------------------------------------------------------ 愛知県朝日遺跡の松菊里型住居(61H・SB45)愛知県教育委員会・(財)愛知県埋蔵文化財センター ------------------------------------------------------------------------------------------ 千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で発行している、館内パンフレットの『稲作の系譜』に以下のような説明がある。 「朝鮮半島では無文土器・支石墓の遺跡から籾痕(もみこん)土器や炭化米が検出されるので、遅くとも紀元前6世紀ころ に稲作が存在したことは確実であるが、その実態については青銅器の絵画などから垣間見ているのが現状である。出土した 米は日本と同様に、すべて日本型(短粒種)に属し、また木製品をつくる石斧のセットも共通している。 中国での稲作は古く、紀元前約 5,000年前とされる逝江省河姆渡(かぼと)遺跡から、インド型(長粒種)の稲籾とともに 木や骨の鋤(すき)が出土している。しかし、日本型の米は長江以北の華中に分布しているので、長江下流から江蘇省の稲 作民の一部がまず西朝鮮に移動するという歴史があり、その後、朝鮮半島南部で土着化した文化が、また稲作民の移動とと もにそっくり九州に伝えられたと考えられる。」 ---------------------------------------------------------------------- 写真は、松菊里遺跡で発見された石棺墓副葬品と考えられる石鏃と石剣など ---------------------------------------------------------------------- これ(上記『稲作の系譜』)は、考古学会で現在一般的となっている見方であるが、移住民のオリジンや渡来経路とともに、 水田稲作の渡来経路も、長江下流−西朝鮮−北九州という流れになっている。 解説にある「西朝鮮」とは、具体的にはBC600年頃の松菊里遺跡をさしている。 一方、弥生時代の板付・有田などから出土した炭化米は、短粒のジャポニカ種に限られていることがDNA分析などで証明 されているし、また、松菊里遺跡の米と日本の出土炭化米は、形状その他を含め酷似する形質をもつことも指摘されている。 前述したように、松菊里遺跡から出ている稲の穂づみに使う石包丁や農具製作用の磨製石斧の形式が、日本最古の唐津市菜 畑遺跡のものとそっくりで、しかも菜畑遺跡の推定年代がBC500年ころなので、歴史博物館がいう「朝鮮半島南部で土 着化した文化がまた稲作民の移動とともに九州に伝えられた」という解説はほぼ妥当だろうと思われる。 ------------------------------------------------------------ 松菊里遺跡54−1号住居趾から発見された多量の炭化米(上) 松菊里遺跡無文土器(下) ------------------------------------------------------------ 土器については、三日月遺跡や佐賀の土生遺跡で弥生中期後半のものと同時に出土したものに、従来の赤い肌の弥生式土器 には見られない、黒い肌のものが発見された。これには牛の角のような二つの突起が土器の側面みられることから「牛角土 器」と名づけられ、朝鮮にも酷似したものが出土していることから、朝鮮系土器と分類されている。松菊里遺跡では同時に びわ型銅剣も出土したが、これは別名、「遼寧式銅剣」ともよばれ、中国東北部から朝鮮半島にかけてひろく分布していた。 この銅剣文化圏と古朝鮮との関係は前段の水田稲作の渡来経路とも符合し、縄文時代末期に稲作・青銅器・支石墓を伴う朝 鮮文化が玄界灘沿岸の佐賀唐津市付近に上陸し、ここから北九州一円に拡散したものと考えられる。 弥生時代の移住民のオリジンと渡来経路については、従来、固有日本人説を唱えた鳥居龍蔵をはじめとし、彼らが北東アジ アから朝鮮半島を経由して西日本に到着したとみる意見が圧倒的に強かった。その後東シナ海を横切ってきたという説も出 現し、現在有力な説としては、「稲の起源地に近い江南地方、もしくは山東半島から東シナ海を渡って直接、あるいは朝鮮 半島経由で北部九州へ到来したルート」、もう一つは、「早生品種の稲や畑作用の雑穀類・金属器の伝来コースとして有力 視されている中国東北部から朝鮮半島を南下するルート」の2つである。 紀元前5世紀頃の中国は春秋の戦国時代であり、隣接する地続きの国に大きな影響がでたであろうことは容易に想像がつく。 中国の春秋戦国時代は、日本への朝鮮文化流入となんらかの関係があると思われる。
大韓民国国立金海博物館発行「同館案内目録−日本語版−」より転載。



	
	 弥生時代遡る? asahi.com 記事
	

	弥生時代の始まり、500年早まる 歴博発表  平成15(2003)年5月20日
	-------------------------------------------------------------------------------- 
	 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)は19日、水田稲作が日本に伝わり弥生時代が幕を開けたのは定説より約500年
	早い紀元前1000年ころ、と特定する研究を発表した。北部九州から出土した土器などから採取した試料を最新の放射性
	炭素(C14)年代測定法で分析し、結論づけた。この結果に基づくと、日本の古代史は大幅な修正を迫られる。考古学界
	には慎重論もあり、教科書の書き換えなどをめぐって論議が起こるのは必至だ。 

	 

	 調査したのは同博物館の春成秀爾(はるなり・ひでじ)教授(考古学)と今村峯雄教授(歴史資料科学)を中心とする研
	究グループ。01年度から、90年代以降急速に整備されたC14測定法を使って縄文・弥生時代の年代測定を進めている。 

	 試料は福岡市の雀居(ささい)遺跡や橋本一丁田遺跡、佐賀県唐津市の梅白遺跡など弥生文化が上陸したとされる玄界灘
	沿岸部と、東北地方や韓国・松竹里(ソンジュンニ)遺跡の出土品で、土器に付着した炭化物や、くいなど32点。
	同博物館で試料の前処理を行い、米国の測定機関を通して加速器質量分析計(AMS)で分析、さらに実年代に直す補正を
	した。 

	その結果、弥生早期後半の夜臼(ゆうす)2式土器と前期前半の板付(いたづけ)1式土器、計11点のうち10点が紀元
	前800年から前900年ころに集中することが判明。水田稲作が伝来した弥生早期前半は前1000年ころと判断し、弥
	生の幕開けは前1000年前後と導き出した。 

	  

	 これまで稲作技術は、紀元前5〜同4世紀ころ、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡った人たち
	がもたらした、とされてきた。春成教授は「弥生の始まりを考えるには、殷(商)が滅亡し西周が成立するころ(紀元前11
	世紀)の時代背景を検討しなければならなくなった」と、東アジア全体の古代像を再検証する必要を指摘した。 

	<金関恕(ひろし)・大阪府立弥生文化博物館長の話> この測定結果自体は興味深く、尊重したい。ただ、C14年代測
	定法の信頼性をめぐっては、学界にはなお論議がある。より説得力を持つためには、年輪年代測定法など他の技法による検
	証をさらに進めることが必要だろう。 
	     		     ◆          ◆          ◆ 

	<C14年代測定法> 
	 生物が大気から取り込んだ放射性炭素C14の濃度は、死後、次第に低下する。その減り具合を測定し経過時間を割り出
	す。近年は加速器を使い微量でも分析可能になった。ただ、大気中のC14濃度は微変動するため、直接の測定結果は実年
	代とずれる。それを補正するため、世界的規模で巨木の年輪測定などのデータベースが整備されてきた。 (05/20 12:27) 


	
	さぁ、それでどうなる、どうなる、と言った感じである。確かに稲作の、日本中に蔓延していく速度はあまりにも速く、ま
	だ東北は縄文時代のまっただ中にあった時、松竹里で稲作を行っていた連中の仲間が、すでに北九州に渡って来ていた事は
	容易に想像できる。
	これまで言われてきたような、弥生時代600年という期間では、菜畑から青森まで稲作が伝播するにはあまりにも短いし、
	紀元前十世紀頃に弥生時代が始まったとすれば、全国にある弥生時代の遺跡に見られる画一性にも説明がつく。これからの
	研究次第では弥生時代はもっと遡る可能性もあるが、私見では、たとえば3世紀前半から中頃辺りをとらえてみると、北九
	州は古墳時代の幕開け、近畿から関東は弥生時代、東北地方は縄文時代という、複合的な時代様相が当時の日本列島を覆っ
	ていたのではないかと言う気がしている。



邪馬台国大研究・ホームページ/ 歴史倶楽部 −韓国の旅・百済の旅−/ 百済の旅