Sound: Mr. lonely

日本人の源流を探る旅 第二弾! −百済の旅−

昌徳宮 2002.10.27(日)


		ここは他の宮殿と違って、韓国語・英語・日本語のガイドが付く、時間の決まった見学ツアーに参加しないと見学できない。日本語
		のツアーもあるが、案内掛のおばさんの日本語は韓国語風イントネーションでよく聞き取れない日本語もあるようだ。我々の回はな
		んとか理解できたが時々訳のわからない単語を連発していた。なぜここだけ見学ツアーなん?と金さんに聞いたが、彼女もさぁーと
		言うだけであった。昌徳宮前の敦化門には観光客をよぶためか、李朝の衛兵の格好をした門番が立っていて、観光客の記念撮影に一
		緒に収まってくれる。橋本さんが並んで記念写真を撮ったが、無表情でニコリともしない。そう言えば、この周りで衛兵交代もやっ
		ていた。

 
		【昌徳宮(チャンドクン:Ch'angdokkung Palace Complex 史蹟第122号)】
		1405年に、朝鮮3代目国王・太宗が建てた宮殿で、朝鮮王朝500年の5大宮の中で最も原形をとどめていると言われる。正宮
		である景福宮の離宮として造営された宮殿で、韓国唯一の宮の後園の秘苑とともに、最も重要な古宮の中の一つである。1412年、
		正門である敦化門が建てられ宮殿としての面目を整えてあり、1459年、世祖が規模を拡大し延べ面積15万坪にわたる。壬辰倭
		乱(イムジンウェラン、秀吉の朝鮮征伐)の時に景福宮と共に消失した。その後も、破壊、火災等のたびに修復を重ね現在にいたって
		いる。壬辰の乱を免れた木造建築物の敦化門、正殿の仁政殿、また、王妃の寝室として利用されていた大造殿など、昌徳宮の敷地内
		に13棟、秘苑内に28棟の全41棟の建物が現存し、王宮の荘重さがよく保存されている。宮殿内の「楽善斎」は1847年後宮の
		処所として建てられたが、1989年4月まで徳恵翁主と李方子女史が生活していたところでもあり、特に日本人観光客の興味を引
		いている。大造殿の奥には、朝鮮時代の造園芸術の粋といわれる秘苑がある。地形や自然環境を活かして建築物を配置する韓国の代
		表的な建造物として有名。 



 

上右が案内してくれた韓国人のガイドのおばさん。黒づくめだ。「はい、いいですかぁー。ここがチンセイテン(仁政殿)、チンセイテンですよぉー。」

 

 



仁政殿


 
		* 仁政殿
		1405年〜。昌徳宮の政殿 (朝鮮末期の建築様式)。王の即位式、臣下の朝礼式、外国大使の接見等、国の重要行事が執り行われた建
		物である。 仁政殿は、堂々たる風格の瓦ぶきの2階建ての楼閣である。朱色の柱が建物をしっかりと支え、外壁には見事なモザイク
		模様が描かれ、朝鮮王朝の宮廷美を今日にしっかりと伝えている。ここで外国使節の謁見や朝賀の礼などが行われた。広場には、正
		二位など官位の書かれた小さな石柱が立っている。家臣たちが王様の前に勢ぞろいする時は、官位によって立つ位置が決まっており、
		当然高い地位の者ほど王様の座る仁政殿に近いところに立つ。



 


		==========================================================================================================
		[毎日新聞12月9日] ( 2001-12-09-09:40 )

		清水谷遺跡:国内最古のオンドル遺構見つかる 奈良 

		 奈良県高取町清水谷で、渡来系の建築技術とされる5世紀後半の「大壁建物」跡5棟と、建物に付属する国内最古のオンドル(床
		暖房)遺構が見つかった。7日発表した町教委は清水谷遺跡と命名。この地域に拠点をおいて技術者集団を率い、大和政権で大きな
		勢力を有した朝鮮系渡来氏族の東漢(やまとのあや)氏がいた“異人館街”と推定され、朝鮮半島との交流史を解明する貴重な資料
		になりそう。
		 工場建設に伴い今年9月から約900平方メートルを調査。狭い間隔で柱を立てて横木を渡し、土を塗りこむ大壁建物の特徴を示
		す柱穴と地盤改良跡を確認。最大の建物は約11メートル四方あった。1棟の建物跡から、かまどのたき口と床面に煙道(幅約80
		センチ)らしき石組み溝を検出。国内では極めて珍しいオンドル跡で、2基あった。渡来人と関係の深い陶質土器や韓式土器も出土。
		土器などから5世紀後半の遺構と判断した。
		 調査区域では5世紀前半ごろの竪穴住居跡4棟と6世紀前半の掘っ立て柱建物跡2棟が見つかった。このため、大壁建物群は突然
		現れ、定着しなかったとみられる。この地域は、日本書紀の記述などから東漢氏の拠点と考えられてきたが、集落跡を確認したのは
		初めて。現地説明会はない。 【花岡洋二】
		===========================================================================================================

		オンドルの炊き口(下)とその煙突(上右)

 





楽善斎




		* 楽善斎(ナクソンジェ)
		ここは朝鮮王朝最後の皇太子、李垠(イ・ギン)殿下の妃、李方子(イバンジャ)が晩年を過ごした所である。

 

		
		【李 方子(り まさこ:イ・パンジャ】
		皇族で梨本宮家出身の梨本宮方子(なしもとのみや・まさこ)。朝鮮李王朝最後の皇太子李垠(イ・ギン)の妻。
		皇太子垠は明治40(1907)年、幼くして両親から引き離され、11歳にして日本に留学するため、伊藤博文に手を引かれて日本に
		上陸した。大韓帝国側から見れば、垠は人質だったが、わが国は朝野をあげて歓迎し、全て日本の皇太子と同等の扱いをした。特
		に明治天皇、皇后は、垠をよく御所に召して可愛がった。皇太子の主任教師であった伊藤博文が、「垠のためにならないから」と
		断っても、両陛下は溺愛をやめなかったと言われる。

 

上下数枚の写真が、日本から戻った「李方子」が数年を過ごした部屋。

		
		1910年、日本軍部は大韓帝国を日本の植民地とし、その支配を強めるために、李王朝皇太子李垠と梨本宮方子との政略結婚を企む。
		大正5年(1916)8月3日朝、大磯の別邸で方子は、新聞の「李王世子の御慶事−梨本宮方子女王とご婚約」という記事で自分の婚
		約を知る。東京へ戻った方子は、父守正王から正式に婚約を告げられ、次のように返答した。「よくわかりました。大変なお役だ
		とは思いますが、ご両親様のお考えのように努力してみます。」母・伊都子は、わずか15歳の娘の毅然たる態度に、言葉もなく
		ただ涙した。この時から、方子の日韓の狭間で波乱の人生が始まるのだが、方子はまさにこの毅然たる覚悟通りに、日韓の架け橋
		としての役目を果たし続ける。
		日本軍部は、この結婚を機に李王朝の撲滅と、それに代わる傀儡政権の樹立を目論んでいたとも言われる。それ故夫婦に跡継ぎが
		できないようにあらゆる手を打ってきたと書いてある書物もある。


		
		軍部の思惑とは別に、垠皇太子と方子は終生仲むつまじく生きた。方子は結婚後、日本人であることを止め、夫と同じ朝鮮人にな
		ろうとして彼を理解し、支え続けた。しかし念願の朝鮮王朝の跡継ぎが生まれても病魔に奪われ(暗殺とも言う)、戦火の泥沼の
		後、臣民降下で一般人として生きることを余儀なくされ、経済的にも困窮した苦しい生活を送る。

		戦後、朝鮮は日本の支配から解放され独立を果たしたが、国は三十八度線で南北2国に分断された。しかし2人は皇太子の母国の
		土を再び踏むことを切に願う。しかし、やっと悲願が叶い韓国へ渡った時、皇太子は脳血栓と脳軟化症に倒れ、すでに意識は無く
		7年後、方子を残して李垠は苦難に満ちた生涯を終える。夫の死後も方子は韓国の地に留まり、残りの人生を恵まれぬ人々の為の
		福祉と慈善活動に費やした。初め韓国人達は、そんな方子を笑い迫害したが、死にもの狂いで恵まれない人々に尽くす姿に態度を
		軟化させ、それまでかえりみられる事の無かった障害者のための学園を完成させた方子のことを、いつしか人々は尊敬と愛情の眼
		差しで見るようになった。方子が日本への募金旅行から帰った時、風呂場を覗くと石鹸の泡をつけた子供達が抱きついてくる。
		方子は外出着の洋服が泡だらけになるのもかまわず子供達を抱き寄せ、「ただいま」と一人一人の顔を覗き込んだ。一緒に訪れた
		在日韓国人の権炳裕は、この光景を見て胸がつまり、この方の為ならどんな応援もしようと心に誓ったという。現在、韓国で一番
		尊敬され、深い愛情をもって記憶されている日本人は、おそらく彼女くらいではないだろうか。

 


		平成元(1989)年、方子は87歳で逝去した。古式に則って千人の従者を伴った葬礼の行列が、旧朝鮮王朝王宮から王家の墓までの
		2kmの道を進んだ。墓には既に19年前に亡くなった垠殿下が待っている。韓国からは姜英勲首相、日本からは三笠宮同妃両殿
		下が参列し、多くの韓国国民が見送った。日本の皇族として生まれ、朝鮮王朝最後の皇太子妃となり、さらに、「韓国障害児の母」
		と讃えられる数奇な運命を辿った方子は、「一人の女性として、妻として、私は決して不幸ではなかった」と述べている。日韓の
		架け橋になろうとの15歳の時の決意のままに、その後の72年間を生き抜いたのである。波乱と茨の道を歩き続けた彼女は、い
		ま韓国の土となって夫の側で安らかに眠っている。









秘苑


		* 秘苑 (ピウォン)
		秘苑は1405年の昌徳宮創建当時造営されたところで、昌徳宮北方に広がる庭園である。壬辰倭乱の際、大半の庭亭が消失し、今残っ
		ている桜亭は仁祖以後、歴代の王によって改修増築された。王宮がこの地に立てられる前からあった原生林や湧水を活かし、ここが
		ソウル都心にあるとは思えないような緑あふれる空間となっている。原生林に囲まれた緩い坂道を下ると、芙蓉池(プヤンチ)と呼ば
		れる小さな石造りの池が広がり、周りに芙蓉亭(プヤンジョン)、宇合楼(ウハムヌ)といったこじんまりとした建物が建っている。
		ここは大きく分けて芙蓉池を中心とする空間と、愛蓮池と演慶を中心とする空間、そして半島池と玉流川の地域になっている。
		この秘苑は韓国の伝統的な造苑で地形に合わせて桜閣を建て、花と木を植え、池を掘って、その美しい調和の美をかもしだしている。
		ここで10分ほど休憩した。

 


かささぎは、ここ以外でもあちこちで見かけた。さすがに本場であるが、秀吉が持ち帰ったというのはホントだろうか?









演慶堂


 
		* 演慶堂(ヨンギョンダン)
		この建物は、質素でひなびた作りであり、宮殿の建物というにはみすぼらしい気さえする。まるで田舎屋敷のようだが、それも道理、
		ガイドさんの説明によれば、ここは王が一般の人々の生活を知るためにわざわざ世間並に建てたものだそうだ。しかし貧農ではなく、
		どちらかと言えば裕福な村の豪農クラスの家だという。周りを木々に囲まれており、女中部屋、庭番小屋などが長屋風に母屋の脇に
		ある。いったいここで生活して王は何を思ったのであろうか。

 

上は女中部屋。庭番小屋だったかな?

 

上はこの家への入り口だが、主人用の入り口(上右)とそれ以外の者の入り口(同左)と分かれている。

 






		煕政堂内部にランプなどの西洋式な調度品が見られた。これは朝鮮王朝最後の皇帝、純宗(スンジョン)が1926年に亡くなるまで煕政
		堂で晩年を過ごしていたためである。朝鮮王朝は1894年の日露戦争後、中国清王朝の属国状態から脱したため、名を大韓帝国と改め
		国王は皇帝と名乗った。



お昼頃、バスが止まって小さな「博物館」と書いた所で降りたので、ここは何じゃろか? と思っていたら昼飯だった! 食堂だった。



邪馬台国大研究・ホームページ/ 歴史倶楽部 −韓国の旅・百済の旅−/chikuzen@inoues.net