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日本人の源流を探る旅 第二弾! −百済の旅−

百済最後の都・扶餘 2002.10.25(金)




		韓国中西部の忠清南道(チュンチョンナムド)の郡庁所在地扶餘(プヨ)は、白馬江(ペンマガン:錦江(クムガン)のこのあたりの
		呼び名)に臨む百済の古都である。聖王(ソンワン)が西暦538年にソウル近郊・公州(コンジュ)の「熊津城」から扶余「泗砒城」
		へ遷都して百済文化が花開くが、やがて660年、唐と新羅連合軍に滅ぼされる。このとき日本から斉明天皇・中大兄皇子配下の軍隊
		が応援に駆けつけるが、連合軍に破れて敗退する。錦江河口は「白村江」古戦場の候補地の一つである。

		扶餘邑の市街地には、扶蘇山のほかにも、百済時代の遺物である五層石塔と石仏が残る定林寺址(チョンリムサジ)や、百済の歴史を
		概観できる国立扶餘博物館などがある。 百済は、日本へ仏教などさまざまな文化を伝え、飛鳥時代に日本と深いつながりのあった国
		でもある。百済滅亡後街は衰退し、現在は人口約10万人の都市である。


World cupでイタリア戦が行われたスタジアムの横を行く。











		【宮南池】
		宮南池は、百済宮殿の別宮に属した宮室の苑池で、百済時代に王侯貴族が酒宴を繰り広げたとされる庭園を復元したものである。
		現在、池の周辺には別宮内にあったと思われる井戸といくつかの礎石が残っており、池の周りにしだれ柳や草花が植えられ、池の中
		央にある築山の上には東屋と木造の橋が当時のように再建されている。 
		百済滅亡後この池は荒れ果てて、今日ささやかに整備されているが、百済の庭園造りの高い水準をかいま見ることができる史蹟で、
		慶州の雁鴨池より40年も前に作られたもので、そのモデルになったとも言われている。 

 

 

 













白馬江








		白馬江(ペンマガン)一帯は、538年(聖王16年)に百済の首都を熊津(現在の公州)からサビ城である扶余に移してから660年(義慈王20年)
		に百済が滅びるまで百済の中心部であった。白馬江は錦江の下流に当たり、川幅が広く、扶蘇山や水北亭と調和しつつ悠々と流れる百済
		の興亡盛衰を見守った、まさに歴史の川である。 遊覧船は、乗船場からは目と鼻の先の、落花岩下の船着き場までをゆっくりと昇り下
		りしている。対岸の砂浜では、異様な集団がなにか踊りか祈りのような事をやっていたが、ガイドの金(キム)さんは、「新興宗教です
		かねぇ。」と言っていた。

 



上と下の写真は繋がっている。上から下へ、脳内でつなげてその宏大な白馬江をイメージしていただきたい。




落花岩




		【落花台(ナクファムアム)】
		韓国三大河川のひとつ、錦江(クンガン)の流れは、このあたりでは白馬江(ペンマガン)と呼ばれる。その流れを見下ろす断崖絶
		壁の岩山が落花岩(らっかがん)である。西暦660年に唐と新羅の連合軍により百済が滅亡した時、後宮にいた3千人の官女達が、
		断崖の上から白馬江へ次々と身を投げ、その落ちていく姿がまるで色鮮やかな花びらが落ちていくように見えた事から、落花岩の名
		がついたと言われる。白馬江から舟に乗る。通常は、時間があれば3,40分かけて扶蘇山へ登り、そこから川へ降りてきて白馬江
		を舟で下るというコースが一般的らしいが、我々は今日ハードスケジュールなので、行きも帰りも舟行という事になった。従って落
		花岩と皐蘭寺をみてまた川へ逆戻りである。

 

 


		舟を下りて急な坂道を上っていく。小学生の遠足とぶち当たってワイワイ、ギャアギャア大変な騒ぎである。程なく断崖の上に出た。
		岩の上に百花亭という楼閣が建っており、落花岩の由来を書いた(らしい)漢詩の額がかかっていた。眼下に白馬江(錦江)が見下
		ろせる。



 


		扶蘇山城は、海抜106mのなだらかな扶蘇山に築城された土城で、すばらしい自然景観とともに、場内にはサジャ楼や迎日楼、半
		月楼、皐蘭寺、落花岩、四方の門址、軍倉址などの遺跡が残っている。扶蘇山城は、地形上から軍事用の防御施設と思われ、扶蘇山
		南地域に王宮と官庁などが位置していたものと推定される。扶蘇山城直下から白馬江(漢江)を見下ろす岸壁は落花岩と呼ばれ、百
		済滅亡時にこの岩から官女3000人が身を投げたとされる場所である。



 




		ここから山上へ歩いていくと、三忠祠、迎日楼、送月台、などの百済の遺跡や寺院跡が残っているが、時間の関係でここからまた船
		着き場へ引き返した。落花岩の崖の下に張りつくようにして建っているのが皐蘭寺(コランサ)で、百済最後の王と錦江へ身投げし
		た3000人の官女の霊を慰めるために建てられたという。船着き場から、再び白馬江を船で下る。












皐蘭寺


		落花岩の崖の下に広がる絶景の中に位置する皐蘭寺は、高麗時代に創建されたといわれるが、百済末期に国に対する忠節を守り、
		落花岩から身を投げた女性達の魂を慰め、極楽に導くために建てられたと言う。また、この付近に自生する皐蘭草は、人の手が
		及ばないところにだけ少し残っているため簡単に目にすることはできないが、百済最後の王である義慈王が好んで飲んだと言わ
		れる有名な薬水(湧き水)場には多くの人々が今でも訪れ、喉をうるおしている。皐蘭寺の下には白馬江遊覧船船着場があり、ク
		ドウレナル(ナル:船着場)や百済大橋がある水北亭まで行くことができる。

 









3000人の官女達を飲み込んで、百済滅亡の一切を看取った白馬江は、1400年後の今日も、その穏やかな流れを続けている。嗚呼!



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