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日本人の源流を探る旅 第二弾! −百済の旅−

百済古墳群 2002.10.26(土)










		【石村洞(セキソンドン)古墳群: 史跡第243号】
		夢村土城の南西、ソウル市松坡区石村洞に位置する石村洞古墳群は、墳丘を石で作った「積石塚」と「封土墳」の古墳からなる。
		百済初期の古墳といわれているが、高句麗が南下した時に作った可能性もあると言う。百済の建国者達は元々高句麗と同族と
		いわれ、北朝鮮にはこのような方形積石塚が多数見られるらしい。中でも将軍塚は規模が大きく、教科書でも有名な好太王(広開
		土王)の墓の候補の一つといわれているが、ここにある 3号墳の場合、大きさが東西49.6m 、南北43.7m 、高さ 4mで、満洲にある広開
		土大王の墓である将軍塚よりも大きい。小高い地形をふさいで平坦に整地作業をした後、下部には大きく長い石を入れ、自然石で段を
		作りながら積み上げて作ったようだ。




		石村洞百濟初期積石塚は、百濟が漢江下流の流域に都を定め、その後の中期以後の都である熊津(現在の公州)に遷都する以前に
		築造された前期古墳群を言い、石村洞、可樂洞、芳夷洞一帯の古墳から構成されている。王の陵級の古墳や一般官僚又は平民の
		小型土壙墓がある。その中でも石村洞には陵級の王の墓から一般官僚や平民のものと見られる小型土壙墓が一緒に散在しているので、
		この一帯はかなりの長い間、階級や身分が異なる人々が共用していた墓域と言えるだろう。 
		石村洞百濟初期積石塚は史跡第243号に指定され、1987年までに3回の発掘調査が行われ、この一帯延べ面積15,126坪が文化財保護
		区域として指定され、延べ6基の古墳が復元された。そして、第3号古墳と第4号古墳を通過するトンネルが1990年に完工された。 

 

 


		石村洞4号墳は、基礎に山石を敷いて方形に石壁を積みあげ、内部は粘土でかためた上に石を敷いた3段の基壇式積石塚であることが
		明らかとなった。粘土部の頂上には4.8×4.6m規模の槨がもうけられており、その南には形式的な羨道施設が付属している。
		最大規模の3号墳は純粋な積石塚で、3段まで残っているが、第3段の床面から石棺の副槨が調査された。ここからは中国製の黄褐色
		釉瓶が出土しており、築造年代が5世紀前半であることをしめしている。



 


		3号墳東の発掘調査から、8個の棺をそなえた大形土壙墓と茸石封土墳を含め、13基の土壙墓が調査され、4号墳と5号墳の周辺の
		発掘調査でも3基の土壙墓が調査された。大形土壙墓は、長さ10m、幅6×3.2m、深さ0.8mの大きな墓壙を南北方向にもうけ、その
		なかに8基の棺を安置した後に各棺のあいだを粘性の強い土で充填し、全体の土壙墓の上を土で覆い、さらに1〜2重の割石で覆って
		墓域をなす特異な構造となっている。 

 

 





芳夷洞百済古墳群

		【芳夷洞(パンイドン)百済古墳群: 史跡第270号】 
		松坡区芳夷洞に位置する百済時代の支配階級の古墳墓。可楽洞、石村洞の遺跡とともに漢江下流に百済の都城があったことを
		裏づける遺跡である 。古墳は合わせて8基で、この地域一帯の先史時代の住居跡で見ることのできる爐址が出土し、石の矢じり、
		石剣などの破片とともに百済時代の土器も発見された。先史時代から三国時代につながる文化の場であったことがわかる。
		西北部に4基(横穴式石郭墳)と東南部に4基(竪穴式石郭墳)が保存されている。周辺には美しい散歩コースがある. 

 

 


		以下は「邪馬台国大研究・遺跡めぐり」の「高井田横穴古墳群」に記載した文章である。参考のため再掲する。

		【ここを調査した柏原市立歴史資料館の桑野一幸さんの話によれば、「ここで見つかった横穴式石室は、出土した須恵器から判断する
		と、5世紀末のもの。しかも、百済の影響を直接受けている。つまり、最古級の畿内型横穴式石室なんです。」と言う。
		桑野さんによれば、畿内の横穴式石室には2種類あって、朝鮮半島からいったん九州を経て伝わったもの(5世紀半ばころから)と、
		直接畿内へ来たもの(6世紀頃から)とに分けられると言う。百済との関係を裏付けるのは、石室の形態と副葬品である。石室を上か
		ら見た形は九州のものと違って「韓国のソウルに、可楽洞、芳夷洞という百済の古墳がありますが、ここの横穴式石室と似ています。」
		という事になる。また、資料館に行けば見れる古代のアイロン、火熨斗(ひのし)の出土は、国内では2例目であるが、中国・朝鮮で
		は多く出土している。百済の武寧王陵では、王妃(526年没)の副葬品として出土している。高井田山古墳でも、玄室には副葬品から見
		て二人埋葬されていた可能性が高く、火熨斗が出た方の棺からは中国産の鏡も見つかっている事から、こちらも女性の可能性が高い。
		王に殉死する王妃という風習も、そのまま百済から移ってきたのかもしれない。火熨斗のもう一つの出土地である奈良県橿原市の新沢
		千塚126号墳は、こちらも渡来系の墓ではないかと言われている。】

 

 

 


		日本列島に、いつ頃「横穴式石室墳」の様式が到達したかを考える時、その起源としてまず考えられるのがこの百済地域における
		横穴式石室墳である。しかし、王都が熊津(公州)に遷都する以前においては、百済地域において横穴式石室墳を用いた集団や階
		層はかなり限られている。特にソウルの可楽洞・芳夷(くさがんむりに「夷」)洞古墳群における横穴式石室墳群に関して、韓国
		の考古学界では、これを漢城時代の百済古墳とみることに対しては否定的な意見が強いそうだ。
		ところが最近、公州市と扶余郡の境に位置する汾江・楮石里古墳群が発見され、これは5世紀代の漢城時代の横穴式石室墳とみて
		間違いないと言うことになったらしい。石室の構造は他地域からもたらされたものだが、副葬品の内容とその組み合わせは、従来
		から在地にみられるものであり、在地勢力が、伝統的な葬送儀礼を残しながら、埋葬施設の構造のみに渡来要素を受け入れた例と
		いう事のようだが、そもそもその渡来要素はどこから来たのかについては、今後の検討課題になっている。



 


		熊津(公州)時代に入り、宋山里型横穴式石室墳が築造されることで、百済における横穴式石室墳はその広がりと性格を変えてい
		く。さらに6世紀前葉には、武寧王陵をはじめとする横穴式磚(セン:左はつちへん)室墳という、これまでとは大きく異なる埋
		葬施設が百済中央勢力に広まっていくが、これらの古墳には中国南朝の影響が強くみられる。磚室を築く技術をもった技術者が、
		百済に「渡来」した可能性も高い。黒褐釉四耳瓶・青磁六耳壷・白磁燈盞などの中国陶磁器をはじめ、鉄製五銖銭・金層ガラス玉
		などは、中国からの渡来品である可能性が高い。武寧王陵には百済土器が1点も副葬されていないことが指摘されているが、この
		点もこの墓の様式全体が「渡来系」であることを示唆している。

 




		今回は訪問していないのだが、「百済古墳群」の中には以下の陵山里古墳群を初めとしてまだいくつかの古墳群がある。
		しかし、規模や方角(風水による)によって、王陵だろうとされるものはそう多くはない。武寧王陵のある「宗山里」、ここに見る
		「芳夷洞」、それに「陵山里」あたりが王族の墓だろうとされている。


		【陵山里古墳群】
		扶余から論山方面3kmの地点には、百済陵と伝えられる古墳7基が現存している。外形は封土墳(土が高く積み上げられた形の墓)
		で直径は20〜30m。下の方が護石で囲まれたものもある。内部構造は、石の部屋を築き、正面に出入口を作った洞窟式石部屋の墓で、
		他の百済時代の墓と同じように、すでに盗掘され副葬品はほとんど無く、いくつかの破片のみが残っていたという。   
		1号墳の中には四神図壁画が描かれていて、高句麗の影響を受けた事が分かるが、高句麗の四神図に比べ白虎と青虎が優しい面持ち
		である。 この古墳群が位置しているところの地形は、東に青竜、西に白虎に当たる稜線がそれぞれ突き出し、前方には川が東から西
		へと流れ、南の前方には朱雀に該当する案山がそびえ、さらにその向こうに白馬江が見える風水地理学的な立地条件がよく揃ったと
		ころであるといわれる。     
		古墳群入口に設けられている百済古墳模型展示館には百済時代古墳の移り変わりや墓制が分かりやすいように、代表的な墳墓の模型
		や実物が時代別・地域別に展示されている。 

		・場  所 : 扶余郡扶余邑陵山里 
		・交  通 : 扶余市外バスターミナルから徒歩で20分/市内バスで5分 
		・入場料  : 600 ウォン 
		・時  間 : 6:00〜19:00(11〜2月までは7:00〜18:00) 

		泗砒(扶余)を取り巻く外郭城の東側に接してある陵山里古墳群は泗砒時代の百済王陵群とみられている。最近の発掘で、隣接地か
		ら王陵をまつる陵寺が発掘され、豪華で精巧な香炉が出土して話題を呼んだ。扶余博物館のシンボルにもなっている。
		河原さんはどっかの博物館でこの香炉のレプリカを買っていた。王陵群の西側一帯からも、多くの王や貴族の墓が発掘されている。

【参考資料・百済王の系譜】
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王 名 在位期間 姓名・出自  事     績 
温祚王 前18?〜28? 姓は余。名は温祚。高句麗初代・
朱蒙の息子。伝説上の初代百済王。
架空の人物。百済王族が高句麗から派生した事を窺わせる神話。
邑君 臣智 245頃 百済の前身・馬韓の有力族長。
三国志などに登場。
魏により高句麗が壊滅。魏と馬韓の戦いで、馬韓各国も魏の領土なる。
近肖古王 345〜375 姓は余。名は句。日本書紀では
速古王。初代百済王。(*1)
日本と手を結び新羅に対抗。謝礼に日本へ七支刀を贈ったとされる。(*2)
近仇首王 375〜384 姓は余。名は須。日本書紀には
貴首王と表記される。2代百済王
近肖古王の息子。
枕流王 384〜385 姓は余。3代百済王。 近仇首王の息子。東晋から来た僧侶が仏教を伝えた。
辰斯王 385〜392 姓は余。名は暉。しんしおう。
4代百済王。
近仇首王の息子。日本書紀には、仁徳王朝より攻撃され殺害されたとある。
阿華王 392〜405 姓は余。名は阿芳。5代百済王。
枕流王の息子。
高句麗・好太王の圧迫に、日本と同盟する為息子(のちの腆支王)を人質に送る。
同盟成立。
腆支王 405〜 姓は余。名は腆。6代百済王。
阿華王の息子。直支王とも。
高句麗に対抗する為人質として日本へ。日本の援軍と高句麗との決戦中王が死去。
帰国して即位。
久爾辛王 420〜427 7代百済王。腆支王の息子。 日本書紀によると幼少だったため権臣・木満致が権力をふるったという。
斐有王 427〜455 姓は余。名は斐。8代百済王。
久爾辛王の息子。
眉目秀麗。弁が立つ王であったと言われる。
蓋鹵王 455〜475 姓は余。名は慶。9代百済王。
斐有王の息子。近蓋鹵王ともいう。
高句麗による圧迫のなか、人質として弟・昆支が日本へ渡る。高句麗により百済は
一時滅亡。(*3)
昆支王  ? 姓は余。名は昆支。斐有王の
息子。蓋鹵王の弟。
461年人質として日本へ渡る。462年息子の武寧王が日本で誕生。故国へ帰り文周王の
重臣として活躍。
文周王 475〜478 姓は余。名は牟キ。あるいはキ。
10代百済王。蓋鹵王の息子。
百済滅亡時、新羅へ援軍要請に出たが到着時には王は捕縛殺害されていた。やむなく
木満致らと共に逃亡して半島南部に新たな地盤を堅め、百済を再興した。
重臣・昆支の死後、解仇により殺害された。
三斤王 478〜480 姓は余。名は壬乞。11代百済王。
文周王の息子。
父を殺した解仇の傀儡として即位した。466年、反乱をおこした解仇を倒す。
東城王 480〜501 姓は余。名は牟大。12代百済王。
昆支の息子。末多王とも。
幼少時より優秀で雄略天皇に寵愛される。三斤王急死により、日本から帰国し即位。
中国・南斉や新羅との同盟政策で安定をはかった。臣下の恨みを買い、暗殺された。
武寧王
(462〜523)
501〜523 姓は余。名は隆。13代百済王。
蓋鹵王の息子。
日本生まれのため斯麻(しま)王とも呼ばれる。書紀では「嶋王」と表記。
東城王を殺した臣下を斬る。中国南朝・梁の武帝や日本・継体天皇と友好関係を維持。
高句麗と戦い、また南方にも勢力を広げた。
聖王 523〜554 姓は余。名は明。14代百済王。
聖明王ともいう。武寧王の息子。
日本の欽明天皇と同盟。高句麗からの攻撃を新羅と共同で撃退。一時は百済の旧領地
・漢江流域を回復。日本に仏教を伝えたことで有名。(*4)
威徳王 554〜598 姓は余。名は昌。15代百済王。
聖王の息子。
戦死した聖王のあとをうけ即位。王子(恵王)を日本に派遣し同盟を強化した。
恵王 598〜599 姓は余。名は季。16代百済王。
聖王の息子。
554年、聖王が戦死。555年、援軍要請のため日本へ渡る。556年、帰国(562年日本、
高句麗へ出兵)。
法王 599〜600 姓は余。名は宣。孝順ともいう。
17代百済王。恵王の息子。
 
武王 600〜641 姓は余。名は璋。18代百済王。
法王の息子。
隋・唐に対し高句麗征討の要請を続けた。
義慈王 641〜660 19代百済王。武王の息子。 唐の侵攻に備え非主流派の貴族や王族を追放。追放された貴族や王族は日本に亡命
した。この時代、新羅に金春秋や金捨信が現れ、新羅と盛んに戦う。最終的に唐と新羅
に両面攻撃を受け滅亡。王族のほとんどが唐に連れ去られた。
豊璋王 姓は余。名は豊璋。20代百済王。
百済王義慈王の子。
唐の圧迫が強まる情勢の中、631年、人質として日本へ行く。以後30年間日本で生活。
660年、唐の攻撃により百済降伏。義慈王は捕虜となる。亡国の王子となった彼は亡命
政府の主となるが、白村江で戦い敗北、豊璋は高句麗に逃亡。百済は完全に消滅した。
(*5)
鬼室福信   武王の甥。 百済滅亡後、唐への反乱軍を組織し再興を目指す。日本にいた豊璋王子を呼び寄せ
王朝を再建し日本の朝廷からの援軍も取り付けたが、内部対立によるものか、
彼は豊璋王に殺害された。
		(*1)
		三国史記によると、百済の5代王は「肖古王」、6代目が「仇首王」だという。しかし13代目の王も「肖古王」、14代目も
		「仇首王」なのだ。区別するため、13代・14代のほうを近肖古王・近仇首王と呼んでいる。しかし、これは日本の「欠史八
		代」のように、国の歴史を古く見せかけるために設定したが年代が狂い、記述上ふたりになってしまった現象だという説が有力。
		4代と21代も同じ「がいろおう(蓋鹵王)」とされるが、ここでは神話時代は無視して、近肖古王を初代とした。
		(*2)
		奈良県天理市・石上(いそのかみ)神宮に伝えられる七支刀は百済から倭王に送られたものであり、369年や480年に比定する説
		がある。また、仏教も後の14代聖王(聖明王)によって日本に伝えられたとされている。しかし、「日本書紀」などに倭と百
		済との親密な関係が記述されているにもかかわらず、日本出土の考古資料に百済との関係を窺わせるものあまり多くない。むし
		ろ、「日本書紀」の場合、白村江の戦い(663年)以後の百済系渡来人の日本での活躍から遡上(さかのぼ)って語られているふ
		しがある。書紀の編纂にはこれらの渡来人系宮廷人たちが多く関わっている可能性が高い。
		(*3)
		472年、北魏に援軍を要請するが拒否される。475年、長寿王自身が参加した総攻撃の前に首都は陥落。百済は一時滅亡した。
		逃亡した息子・文周王が南方で新しく国を再興した。
		(*4)
		日本の欽明天皇と同盟。高句麗からの攻撃を新羅と共同で撃退。一時は百済の旧領地・漢江流域を回復。百済の勢力を大きく広
		げた。しかし直後に漢江流域を新羅に奪われる。新羅への反撃中に突出しすぎた王子(威徳王)を救うため前線に出て戦死した。
		善光寺縁起には、「インドから渡ってきた仏像「善光寺如来」は一度聖明王の百済に滞在した。聖明王はインドの月蓋長者の生
		まれ変わり」とあり、「如来は、百済から次は「日本へ行く」とのお告げを出す。お告げに従い聖明王は豪華船をしたてて如来
		を日本の欽明天皇のもとに送り出す。その際、仏を追って海に飛び込み多くの百済宮廷の人々が死んだ。」とある。
		「船は難波に到着。初めて見る仏像に、仏教導入派の蘇我稲目と仏教反対派の物部尾輿が対立。尾輿は如来を難波の堀江に投げ
		捨て、仏罰により滅亡。仏は宮廷に帰ってくる。その後尾輿の息子物部守屋が仏像を壊そうとするが壊れず、やはり難波の堀江
		に投棄。守屋は仏の使いである聖徳太子と蘇我馬子により滅ぼされる。堀江に沈む如来像を信州から上京してきた本田善光(よ
		しみつ)という男が発見し、故郷信州に持ち帰り祭ったのが「善光寺」である。」という
		(*5)
		強力な唐帝国の成立により圧迫の強まる国際情勢のなか、631年、人質として日本へ行く。以後30年間日本で生活。その間、日
		本では中大兄皇子(天智天皇)が「大化の改新」を断行。同時期、のちの新羅王・武烈王となる金春秋が来日した。660年、唐の
		攻撃により百済降伏。義慈王は捕虜となる。亡国の王子となった豊璋は、662年天智天皇の支援を受け帰国すべく出撃。斉明天皇
		も同行するが、遠征途上、彼女は筑紫の朝倉で死去。豊璋王は海峡を渡り鬼室福信と合流し反撃の準備を進めるが、鬼室福信と
		の確執の故か、彼を殺害してしまう。豊璋は翌年、百済再興を賭け白村江で戦い完全な敗北をきす。豊璋は高句麗に逃亡、百済
		は完全消滅した。敗残した日本水軍は帰国し、百済王族などの生き残りの多くは日本へ亡命し、そのまま日本に同化していった。
		天智天皇は主として近江近辺に彼らの故地を与えたと言われるが、義慈王の息子「禅広」らは難波に住んでいたとも伝えられる。
		禅広の子孫は大和朝廷において百済王と尊称され、曾孫の百済王「敬福」は、河内国交野郡にあった船氏の祖王辰爾の旧屋敷を
		賜り、ここを一族の本拠とした。光仁天皇はなんと49回も交野ヶ原へ行幸し、桓武天皇も17回行幸し、この一族を、「朕の
		外戚」と呼んだ。
		また天智天皇は、唐・新羅のさらなる日本への侵攻を恐れ、各地に防御の山城等を築かせ、太宰府近郊「水城」などに、一部は
		現存している。




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