Sound: End of the world

日本人の源流を探る旅 第二弾! −百済の旅−

国立公州博物館 2002.10.2



 


		百済は、扶餘族の一つとして高句麗から分かれ、紀元前後に漢江一帯で小さな国をつくり、周辺の馬韓諸国を征服して大きな国とな
		った。その後、3世紀の古爾王代にいたって古代国家の姿を整え、4世紀の近肖古王代には、平壌一帯から全羅南道海岸地域にいた
		るまで領土が広がり、国力が大きく伸長した。しかし、4世紀末頃から始まった高句麗の南進政策で領土が縮小して国力がかなり弱
		まり、475年に高句麗・長壽王の進入によって蓋歯王が戦死して王都が陥落すると、文周王が熊津(公州)に王都を移し、漢城都邑
		期は幕を下ろした。
		高句麗の侵略と遷都により、国力が非常に弱化した状態からはじまった熊津都邑期には、文周・東城王代を通して国家の安定に力が
		尽くされ、武寧王代になると、高句麗の侵略をよく防ぎ、22櫨魯制を実施して中央集権的な支配体制が強化され、安定するように
		なった。このような安定を土台として、聖王は新たな国家発展のかなめを作り上げようとして、538年により広い泗比(扶余:比はほ
		んとはさんずいが左に付いてます。以下同じ。)に王都をうつすこととなり、65年間の熊津都邑期(475〜538)は幕を下ろし、泗
		比都邑期がはじまった。

		泗比遷都直後、聖王は国名を南扶余と変え、国を中興しようと多くの努力をした。内部では、16官等制と、中央と地方とを分けて
		支配する五部五方の行政制度をもって効率的な支配を行い、外部では中国南朝としばしば交流して先進文物を受け取り、独自的な百
		済文化を花咲かしたのと同時に、これを日本に伝えて日本の古代文化の基礎をうち立てもした。このように安定した国力を基礎とし
		て、新羅と連合し一時漢江流域を回復したが、新羅の逆襲によって中興は挫折してしまった。
		その後、武王代に国力が回復したが、義慈王末期にいたり、長年の戦争と国政の混乱により、660年に、唐・新羅によって滅亡し
		た。このように、百済の歴史は都邑(王都)を基準として3時期に区分され、各時期ごとに国家体制や社会組織、文化に違いがあっ
		た。(下右の像は、公州博物館にある百済武寧王の復元像)

 


		国立公州博物館は、1935年に設立された公州古蹟保存会を母胎として、1940年の公州史蹟顕彰会、1946年の国立博物館公州分館を
		経て1975年に国立公州博物館へ昇格、現在の姿となった。
		国立公州博物館には、百済が公州に都をおいた時期の遺物を主に展示しており、特に1971年に劇的に発掘された、百済文化の粋と
		言われる武寧王陵から出土された遺物約2,000点と、その他500点あまりの遺物が1,2階の展示室に並んでいる。
		展示室は2室から構成されていて、第一展示室(2階)では武寧王陵出土品を展示しており、第二展示室(1階)では忠南地方の
		出土品を時代順に展示している。現在常設展示している遺物は、国宝14件19点、宝物4件4点など重要遺物1000点余りである。

		現在の博物館の建物は1971年に武寧王陵が発見された後、遺物を展示するより広い空間が必要となり、新築されたもので、武寧王
		陵のイメージを生かして建てられている。 

		・場  所 : 公州市中洞 
		・交  通 : 公州市外バスターミナル前から市内バスで15分 
		・入場料  : 300 ウォン 
		・時  間 : 09:00〜19:00(11〜2月は16:00まで/3,4,9,10月は18:00まで) 

 


		<武寧王陵の発掘>
		1971年7月6日、宋里山古墳群の5,6号墳の排水路工事中に、偶然に磚(せん:レンガ:磚はほんとは土へんですが、PCでは表示
		されません。以下同じ。)築墳1基が発見された。墓の入り口は磚と漆喰によって隙間なく密封されており、盗掘の被害を受けてい
		ない処女墳のまま調査された。
		墳墓の入り口を開けたとき、王と王妃の誌石2枚が整然とおかれていた。誌石には、百済の武寧王と王妃がなくなって、この大墓
		に安置された、という内容が秀麗な南朝風楷書体で刻まれていた。1442年間という長い歴史の中で静かに沈黙してきた武寧王と王
		妃が、再び歴史の前面に浮上し、百済史と百済考古学研究が一歩前進した瞬間であった。


		<遺物の出土状況>
		武王陵から出土した遺物は計108種類2,906点である。羨道には王と王妃の誌石2枚が整然とおかれており、その上に五銖銭が一束
		置かれていた。誌石のうしろには石獣が南側を向いて立っていた。
		玄室の棺台上には、王と王妃の木棺材がぎっしりと並んでいた。木棺の板材の下からは、王と王妃が装着した装身具類と、数点の
		副葬遺物が出土した。
		重要な装身具類としては、金製冠飾・金製耳飾・金銀製帯金具・金銅製飾履・金釧などがあり、王の腰部からは王の権威を象徴す
		る龍鳳文太刀が出土した。


		<王陵発掘調査の意義>
		武寧王陵は、韓国三国時代の中でだれがこの中に埋葬されたか、そして、いつどのような過程でこの墓をつくったかについて細部に
		わたって判った唯一の古墳である。この古墳の入り口より発見された銘文を刻んだ誌石2枚で百済の歴史と文化、ひいては三国時代
		の歴史についての研究に新しい展望を開くことができた。すなわち三国時代各国の古都では王陵に推定される大きな墓が多く残って
		いる。しかし古墳の被葬者を確定する確実な資料発見されたことがなかった。ただ考古学的な証拠、文献史料をつなぎあわせて推定
		する確実な史料は発見されたことがなかった。そのためにその墓からの出土遺物についてはいつ作られ、また、いつ使用されたかを
		知ることができなかった。
		しかし、武寧王陵からは「寧東大将軍百済斯麻王」という被葬者の名前を刻んだ誌石の出土したことによって王陵内出土遺物の年代
		を知ることができただけではなく、武寧王の時代の葬制(墓制)をはじめとして、信仰・国際関係などについて多くの端緒を発見す
		る事ができた。
		そして埋葬年代・出土品などの学術的な点において新羅・伽耶および日本での出土遺物と比較できることが多くある。また三国及び
		日本古墳での編年上主要な基準にされている事と、同時に各国間の政治的、文化的関係を把握するうえに於いてきわめて重要な基準
		史料とされている。また誌石に現れた「葵卯年五月丙戌朔」という王の崩御した年は「三国史記」の「二十三年夏五月王薨」という
		記録と年月まで一致している。これによって「三国史記」の信憑性論争について、5〜6世紀代の記録に信憑性のあることが裏付け
		られた。

 


		<帯金具>
		王の腰部から2組の金属製帯金具が出土した。1組は、ホ具と帯端金具・鍔板・腰佩などで構成されており、もう1組はホ具と鍔板
		だけで構成されている。すべて金と銀を用いてつくられた。鍔腰佩をもった帯金具:ホ具はキノコ形をなし、ホ具と帯を連結する金
		具は七葉形で、ハート形装飾が浮彫されている。力板は表面がくぼんだ楕円形金具で、大きさにより大小の2種類があり、交互に配
		列された。帯端金具は、全形が五角形に近い。
		腰佩は、金製五角形板と金製および銀製の楕円形金具、金製四角形板、銀製長方形から構成されている。2枚の金板には鬼面と蟾文
		を浮彫し、長方形銀盤には白虎・朱雀図を鑿で彫っている。鬼面は僻邪の意味を持っており、蟾文は月の象徴であり、白虎と朱雀の
		表現は四神図の一部分と思われる。
		腰佩と帯端金具がない帯金具:金と銀を用いてつくり、ホ具と帯を連結する金具に残っている紫色の革からみて、全体を革でつくり、
		その上に金属製ホ具と?板を連結したようである。具はキノコ形で、鍔板には逆心葉形装飾に物をぶらさげることができる円環がつけ
		られた。逆心葉形装飾は金板を叩いてつくり、4個の金釘で革帯に固定するようにした。



 



 



 


		<冠飾> (下左)
		王の頭部でほとんど重なった状態で発見された。薄い金板に忍冬唐草文と火焔文装飾を浮彫し、左右非対称である。枝と花の部分に径
		5mm程度の歩揺をつけている。歩揺は丸くて小さな円板で、小さな穴をあけ金糸を通して4〜6回ねじってぶらさげており、計127個
		である。「旧唐書」に「(王)は黒い錦でできた冠に金花を装飾し・・・」という記録がある。この記録から見ると、王陵出土の冠飾
		は、王が平素使用していた錦でつくられた帽の左右、あるいは前後に差した装飾品と考えられる。

 
		<三足釵> (上右)
		王の頭部にある獣帯鏡の上で出土した。全体的な形は、羽根を広げて飛ぶ鳥の姿に似ている。鳥の羽に似た逆三角形部の上端には、花
		文と忍舟唐草文が打ち出されている。下端には3本の櫛がつくられた。この釵(さい)は、金板を下端側から上端側に向かって薄く叩
		き延ばしてから鑿を用いて切断し、輪郭に沿って打ち出しの細線をめぐらして完成した。



 


		<耳飾>
		王の耳飾は、1つの主環に小さな輪2つを連結しており、2条の垂飾をぶらさげた。大きな垂飾の中間飾は、2つの筒形装飾を対称に
		連結して、筒形装飾の端には金糸と金粒で飾られた心葉形装飾がついている。垂下飾は、大きな心葉形の母葉を中心として小さな子葉
		2枚を対称につけた。小さな垂飾の中間飾は、金粒をつけてつくられた籠形装飾5つを両端に輪のついた金糸で連結した。垂下飾は、
		淡緑色の勾玉に鏤金手法の装飾がなされた金帽をかぶせたもので、金帽にも左右対称に2個の心葉形装飾がついている。
		これと比較できる耳飾は、慶州の金鈴塚と日本・熊本県の江田船山古墳で出土したことがある。







 


		<首飾>
		王陵内からはいろいろな首飾りが出土しており、それらは多様な材料を用い、各種の技法を駆使してつくられた。王妃が着用していた
		9節と7節の首飾のように、金棒を削ったり曲げてつくったものがあり、籠形装飾や金箔ガラス玉と玉を連ねてつくったものもある。
		そして、炭化木を円盤状に加工して、その周囲を金板で巻いて装飾品をつくり、それを数10点連ねてつくった例もある。
		

 



 

 



 


		<頭枕と足座> 武寧王陵出土木製「枕(上左)」と[足座(上右)」
		王の頭枕と足座は、いずれも大きな丸太を逆台形に加工し、その中間部分を「U」字型「W」字形にくりぬいて、それぞれ頭と両足
		を乗せることができるようにつくられた。表面には黒漆を厚く塗った後、亀甲文と金花で装飾して華麗さを加えている。
		足座の亀甲紋は中央 に六花紋を配し、六角形の交点にも同じ花紋が飾ってある。この花紋は、山口県塔ノ尾古墳、奈良県出土の金銅
		沓にもあるので、大刀装具と同じように日本出土品と緊密な関係がある。 
		王妃の枕(下左)は、亀甲紋の中に飛天、鳥、魚、蓮花などが描かれている。 王の足座と共に布製のものが木に替えられたのであろ
		う。高句麓天王地神塚の玄室壁画の亀甲紋は、点線で描かれており梁職や刺繍の状態を伝えている。だから足座や枕だけでなく、金銅
		の沓も実際には布、革などが素材だったと思われる。

 





 






		<飾履>
		王の飾履は、内側板・外側板と底板の3枚の板を互いにつなげてつくられた。各板は内側が銀板で、その外に金銅板を重ねたもの
		である。飾履の中には3重の布が張られ、薄い木片が一緒に出土し、底に敷いたものと思われる。底はつま先側がそりあがってい
		て10本のスパイクがつけられ、その断面は正四角形に近い四角形である。内側板の表面は全面を亀甲文で区画して、その中に花弁
		文を装飾した。外側板も、やはり亀甲文が打ち出され、内部に花弁文に加えて鳳凰が表現されている。

		沓の甲や底板に亀甲の透かし紋様、打ち出し紋様があり、前面に歩揺を綴じつけたり、底に突起の付くものがあって飾履とも呼ば
		れている。新羅の飾履塚からは大変豪華な沓が出土し、この名がある。藤ノ木古墳からは二足の沓が出土し、前面に亀甲紋が打ち
		出されている。朝鮮では三十例近い金鋼製沓があるが、亀甲紋のあるのは飾履塚と武寧王陵の王妃の沓の二例である。
 



		<環頭太刀>
		王の左側で発見された。環頭の中には龍文が、柄の上下には亀甲文と鳳凰文、忍冬文が配置されている。柄の昼間部は、蛇腹文が刻
		まれた金糸と銀糸を交互に密に巻いて装飾した。鞘は木に漆塗りで作った。龍と鳳凰で装飾された環頭太刀は、5世紀後半以後の三
		国時代の王陵級墳墓に限って出土し、王の権威を象徴する。武寧王が佩用したこの太刀の龍文は、一緒に出土した「多利作」銘銀釧
		の精巧な龍文と比較する事ができ、国内出土龍文太刀のうち最も写実的に表現されたものである。
		百済武寧王陵から発掘された金製の大刀装具には亀甲紋の中に鳳風が飾られ、縁金の周りにも三ツ葉紋が入れられている。鳳風の体
		には植物 のパルメットが付いている。六世紀後半の藤ノ木古墳の鞍金具にも亀甲紋の中に鳳風を配し、その体部にパルメットを飾り、
		金具全体の隙間にも植物紋が充填されており、両者はよく似た施紋方である。武寧王陵のほか、六世紀の大刀装具の亀甲紋が百済、
		伽耶、日本に多い。 









博物館庭園


博物館前方の庭園には公州付近で出土された統一新羅時代や高麗時代の石仏像、石灯台座、石亀などが展示されている。


 

 



		
		公州市班竹洞の大通寺址にあったものを、1940年に博物館庭園に移して展示されている。支柱石は円形で12葉の蓮弁が彫刻され、
		その技法は、公州地域出土の百済蓮華文瓦当と通ずる様式である。
		支柱石の上に乗っている丸い石槽は、大きな石の内部を彫り込んで作り、内面には何も彫刻はない。底も平らで、槽の外面は中央に
		2条の太い突帯を彫刻して巡らし、等間隔で4ケ所に蓮華円座が配置してあるが、相当風化が進みだいぶかすれている。
		この石槽は、日帝時代には日本憲兵隊が飼い葉桶として用いており一部破損していたが、修復の上ここに安置された。
		もともと初めから、2つの石槽で1対となるように作られたらしい。2つとも宝物指定(日本で言う重要文化財)を受けている。

 



 
 



		このHPの解説の大部分、並びに写真の一部は、国立公州博物館・編著、通川文化社発行の「博物館物語」(初版発行:1999年2月25日)
		から転載した。記して謝意を表明したい。



邪馬台国大研究・ホームページ/ 歴史倶楽部 −韓国の旅・百済の旅−/chikuzen@inoues.net