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古墳(王陵)公園・天馬塚 −伽耶・新羅の旅− 2001.10.13











		古墳公園(コブンコンウォン)・天馬塚
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		慶州は古墳の中に街がある、とよく形容される。釜山から高速道路を経由して慶州へ入ると、街の入り口でまさに
		その感を強くするが、町中へ入っていくと反対である。慶州は街の中に古墳がある。いたる所に、丸いオッパイ型
		の古墳が見えている。直径10m前後の円墳が、車の窓を通して家々の間から見え隠れしている。特にミチュ(味雛)
		王陵と伝えられる古墳がある一帯は大小さまざまな古墳が密集しており、現在「古墳公園」として整備・管理され
		ている。市内にある200基ほどの古墳のうち、保存状態の良い20基ほどの古墳が公園として整備された15万坪の敷
		地内にある。殆どは未発掘だが、1973年から75年にかけて「天馬塚」と「皇南大塚」と呼ばれる2つの古墳が発掘
		されて、はじめて5世紀から6世紀にかけての新羅の大型封土墳の内部が明らかになった。





 





 


		復元された天馬塚内部をジオラマでみると、被葬者を入れた木棺を真ん中に置き、それを木郭で囲み、更に其の周
		囲に人の頭ほどの大きさの石をうず高く積み上げている。天馬塚の場合は4,5mほどもある。更にその上に粘土を貼
		り付け土砂で覆っている。新羅の古墳が殆ど盗掘されていない理由はこの古墳の構造にある。こんな石の層を取り
		除くには一体何日かかる事か。たちまち御用となるだろう。
		副葬品は日本の古墳同様、装飾品、武具、馬具、土器等々である。ここの被葬者は華麗な金冠をまとっていたので、
		新羅王もしくはその縁者と考えられるが、これまた日本同様表記はないので確定は出来ない。












		残念ながらと言うか、やっぱりと言うか天馬塚の内部は撮影禁止である。古墳内部の石棺埋葬状態がジオラマで復
		元してある。でかい。また遺物の一部が復元品で展示してあるが、その一部はこのHPの巻末に写真を掲示してい
		る。





		一般に新羅の古墳は3世紀末から4世紀にかけて出現したと考えられているが、天馬塚のような「積石木郭墳」と
		呼ばれる構造を持って、騎馬人物型の形象土器や土偶を伴った古墳の最盛期は5−6世紀の築造と考えられている。
		7世紀になると、場所も市街の盆地から周辺丘陵地帯へと移動し、構造も横穴式石室をもったものへと変化する。
		統一新羅時代(6世紀半ば〜)の造営と考えられる大型円墳のなかには、墳墓の周囲に十二支像を石に彫って立て
		ているものや、石板に十二支像をレリーフにしたものも発見されている。	
		十二支そのものは中国から移入されたものだが、古墳の廻りにこれらの像を巡らせるというのは新羅独特の発想の
		ようだ。日本の古墳の廻りに立つ、円筒埴輪や形象埴輪の類と似通っている。





 

上右はリスを写したつもりだったが全然わからない。ふつうのリスに加えて
真っ黒いリスもいた。チョンさんは、「あ、悪いリス」と呼んでいた。







天馬塚からの出土品の一部





古墳の名前の由来となった「天馬」図。











 




		ここに掲示した埋葬品はこの古墳から出土した遺物のごくごく一部である。「金海博物館目録」「慶州博物館目録」
		および、その他出版物を見ると、実におびただしい数の副葬品が出土している。しかもその大半が掲げたような実
		に絢爛豪華な品々ばかりだ。韓国人の「金」に対する執着は、日本人とは明らかに違うモノがあるという説がある
		が、これらの金製品を見ているとわからないでもない。そのあまり、名前にも「金」を付けてしまった、という説
		まであるのだ。

		これらの遺物の中には、日本の古墳から出土した副葬品とほとんど同じ形態のものが数多く存在するのも、古墳の
		造営者達がこの地方から日本へ渡っていった可能性を示唆しているが、伽耶・新羅と北九州。山陰地方は、もとも
		と同じ民族であった可能性もあるのだ。






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