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金海貝塚 (きめかいづか) −伽耶・新羅の旅− 2001.10.11




 


	【金海貝塚】

	この貝塚は戦前日本人が発掘調査を行った(*)遺跡で、弥生時代の日本との交流を物語る「狗耶韓国」の遺跡として、日本
	でも古くから知られている。我々は日本を発つ前、旅行社におおまかな訪問要望しかだしておらず、さすがにこれではガイド
	・運転手は困るだろうなと言う気がして、飛行機の中で行きたいところを手書きでリストにして、空港に着くなりガイドのチ
	ョンさんに提示した。彼女は「えぇー、こんなの聞いてませんよぉ」とたちまち気色ばみ、「こんな、こんな、」とうろたえ
	ていた。旅行社からは、「ガイドは遺跡とか詳しくありませんからね」と言われてはいたが、彼女も見たこともない遺跡の名
	前が並んでいるので、さすがに「どうしよう」と思ったようだが、気を取り直して運転手と相談し、廻れる所と無理な所を分
	けてくれた。金海貝塚は有名らしく、韓国ツアー第一号として訪問する事になった。「こんなとこに来たがる観光客なんてい
	ませんよ。」




	丘陵へは、階段を登って、ぐるりと遺跡を一周して頂へたどり着くようになっているが、そこへ行く道々にも細かい貝殻の破
	片が散らばっている。発掘からもう何十年も経つというのにと驚いてしまったが、この状態ではこの丘陵全体が膨大な貝塚の
	ようだ。




	金海貝塚は、海抜50m程の鳳凰台という丘陵に位置し、墳墓や住居跡が発掘されている。このうち青銅器時代の大型かめ棺は、
	弥生時代前期末に北九州で製作されたものとされており、「金海式」と呼ばれる類似のかめ棺は、玄界灘沿岸や筑紫平野で数
	多く見つかっている。この貝塚から東に4kmほど行ったところの「池内洞遺跡」からは、壱岐の「原の辻遺跡」や対馬の「小
	姓島遺跡」、佐賀の「吉野ヶ里遺跡」、福岡朝倉の「東小田遺跡」などから出土した弥生中期の「丹塗磨研土器」と呼ばれる、
	赤く塗った土器と同種のものが多く出土している。
	また、南西諸島のボホウラ貝で造られた貝輪なども出土し、日本列島との交流を伺わせる。こうした交流は、単なる交易以上
	のものを極めて強く示唆しており、作家の松本清張なども「この地方と北九州は同じ倭種であって、全く同じ民族だった。」
	(『邪馬台国』)と述べているし、大阪教育大学名誉教授の鳥越憲三郎氏はこの同じ民族を「倭族」とよび、長江下流域に発
	生した民族がその源だとする。

















 

 
上、背後の小高い山が「亀旨峰(クジボン)」




	頂上には「賀洛国」の石碑が建っている。裏手は高層マンション群である。ここから見える北方の小高い山が「亀旨峰(クジ
	ボン)」と言い、日本の天孫降臨のモデルともされる神話の舞台となった山である。「三国遺事」という書物にその神話は書
	かれている。
	伽耶国は六つの国々からなっているとされ、その最初の国「賀洛国」(金官伽耶)を建国した首露王がこの山に降りてきたと
	いうものだ。日本の高天原からの天孫降臨神話とそっくりである。
	この付近には、金官伽耶に関係すると思われる古墳が多く知られており、首露王の王妃許氏の墓とされる古墳のほか,大成洞
	古墳群,亀山洞古墳群等がある。この貝塚と亀旨峯との間に「首露王陵」とされる古墳も存在している。





	(*):1907年に今西龍により発見・調査(第1次調査)されて以来,柴田常恵の第2次調査(1907),鳥居龍蔵の第3次・第
	5次調査(1914,1917),黒板勝美の第4次調査(1915),濱田耕作らの第6次調査(1920),藤田亮策らの第7次調査(1922),
	榧本杜人の第8次調査(1934)が,解放(1945)以前に実施されている〔濱田・梅原1923;榧本1957〕。旧制・九州帝國大學
	國史學研究室も、1931年(昭和6年)に調査を行い、無紋土器・陶質土器を採集しており、今も九州大学に所蔵されている。





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