Sound: Yellow submarine

文武大王・海中陵 −伽耶・新羅の旅− 2001.10.13







	文武王 (ムンムワン:?−681) 名前:金法敏
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	在位661−681。668年に唐の武力を利用して高句麗を滅ぼすが,その後唐の勢力を排除し韓半島三国を統一する。以後王朝は
	「統一新羅」と呼ばれる。文化的には唐の暦法を導入するなど、中国の影響下にあった。死に際して、「東海岸から龍とな
	って国を守るため、遺骸は海に葬れ」と命じたが、1967年になって、慶尚北道月城郡沖で水没された王の墓が発見された。
	海中に墓を持つ王というのは、世界の王の中でもこの大王ただ一人である。

 





	【文武王海中陵】

	文武王は自らの死後も、倭国の新羅への侵入を一番怖れていた。そのため群臣達に、東海(日本海:韓国側では日本海をこ
	う呼ぶ。)の大岩の中に自らの遺骸を葬るように言い残して死去した。臣下は遺言通り、大王の墓を東海の海中に葬ったと
	「三国史記」には書かれている。なぜ東海中なのか。それは「三国史記」全編を通じて貫かれている「龍神信仰」に基づい
	ている。文武大王は、「死して龍神となりて故国を守らん」と欲し、東海中から海岸を通って新羅の都「慶州」まで「龍の
	道」を建設する事を計画した。

 



 


	事あらば、これを通って海中から慶州の都へ馳せ参じるつもりだったのだ。学問的には、「三国史記」にかかれたこの記事
	は、例によって、単なる説話との考えが支配的だったが、1959年、海岸から2kmの所にある感恩寺址の発掘で基壇の下に特殊
	な遺構が発見され、これが「龍穴遺構」と決定されるに至って、文武王の計画が実在のものだったことが明らかになった。
	実際には、感恩寺址の龍道は、文武の息子の神文王の時代に完成したものだが、計画・着工は文武大王が行ったことが判明
	した。そしてその龍道の延長に、1967年、文武王の海中陵が発見されたのである。

 




	ホテルを出て朝一番でここへ来た。朝だというのに、照り付くような日の光が眩しく、海中の大王陵を取り囲む大岩群は海
	岸からすぐの所に見えている。泳げばすぐ着きそうな位置にあるが、実際泳いだら案外遠いのかもしれない。海岸の様子は
	日本の海岸と同じである。船や網が置かれ、小さな魚やイカが干してある。土産物屋や食堂も並んでいて、文武王観光地だ
	からだろう、広い駐車場も完備されている。
	土産物屋は未だ開店していなかった。大王陵まで船で渡ってみたい気もしたが、時間と金がかかりそうな気がしてガイドの
	チョンさんに言うのがためらわれた。この海の向こうが日本である。今立っている所から大王岩まで直線を引けば、その延
	長線上にあるのはちょうど「出雲」あたりではなかろうか。



 


	文武王は663年に、唐と図って百済・日本の連合軍を錦江下流の白村江で壊滅させ、百済を滅亡させる。ついで668年には、
	高句麗の都の平壌城を攻めて高句麗も滅ぼす。そして韓半島の統一を果たすのである。今でも韓国では「文武王」とその父
	である「武烈王」は、史上初めて朝鮮の統一を果たした偉大な大王として人々の尊敬を集めている。南北に別れてしまって
	久しい現状を考えると、その偉大さがことさら韓国の人達には身にしみるのかもしれない。文武大王が在位した時代は、日
	本ではちょうど天智天皇・天武天皇の時代と重なっている。







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