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日本人の源流を探る旅 第二弾! −百済の旅−

屯山先史遺跡 2002.10.25(金)




		昨夜、大田(デジョン)広域市の近くにある儒城温泉のホテルに泊まって、翌朝一番でこの遺跡を見学に来た。儒城温泉は、昔から
		韓国でも有名な温泉で、怪我をした鶴と百済の兵士がこの温泉で傷を治したという伝説がある。 

 


		<屯山(グンサン)先史遺跡> (記念物第28号)
		大田広域市屯山洞にある遺跡で、旧石器・新石器・青銅器時代の遺跡が発掘調査され、大田の先史文化の系統を確認できる重要な遺
		跡と評価されている。ここでは、旧石器時代の遺物である両刃掻器、石棒や、新石器時代の遺物である櫛目文土器片、紡錘や、青銅
		器時代の遺物である尖低土器片、両刃石斧、石鏃などが同時に発掘され、住居跡も発見された。 
		現在、新石器及び青銅器時代の竪穴住居と、当時の墓である支石墓を復元し、公園化されている。ビルの谷間にぽっかりと残された
		先人達の生活の址である。

 

 

 

 


		炉跡は日本とよく似ている。しかし建物の様式はだいぶ様子が異なる。ほんとにこんな柱をまっすぐに建てていたのだろうか?
		金(キム)さんが説明版を読んでくれるが、発掘跡の図を見る限り、確かに家の中にも柱坑が残っている。という事は先史人たちも
		半島の方が進んだ住居を持っていた事になる。



 

 

 


		土器も縄文土器とよく似ているし、日本の竪穴式住居と似た住居もあったらしい。説明板によれば、ここに住んだ人々は漢江の支流
		・甲川が近くを流れており、その川に沿って住居を造っていった、という事のようだ。
		旧石器時代、新石器時代、青銅器時代にわたって住み続けたという事は、生活の恵みが相当豊富にあったという事になる。

 


		屯山洞遺跡の青銅器時代住居跡は、錦江支流である甲川沿いの旧領にあり、住居址は全て方形なのが特徴である。この遺跡の出土遺物
		としては、変形コマ型土器と石斧・石鏃・石剣および土製の紡錘車・管玉などがある。この内変形コマ型土器は、口縁が広くて相対的
		に底がすぼまり韓国のコマのような形をした土器で、平安道など韓半島の西北部で多く発見されており、忠南地方の早い時期の青銅器
		文化が、西北韓地方と強い関係があった事を明らかにした。遺跡と遺物の年代は今から約2700年前である。



 

 

 


		上下の墓制は支石墓と言われる葬送の様式である。朝鮮半島では、紀元前1000年から紀元前後くらいまで続いた無文土器時代に盛んに
		営まれたようだ。支石墓は、単独ではなく、数基から数百基が群をなして一つの墓域を形成している事が多い。朝鮮半島全体では2000
		基くらい存在しているが、その半数が朝鮮半島南部の全羅南道、慶尚南道に集中しており、ほかにソウル周辺にも少しはある。
		朝鮮半島では、この頃青銅器文化がようやく流入し、後期無文土器時代には鉄器も使用され始める。日本では縄文後期から弥生中期に
		かけてである。

		ちなみに、この公園に置かれている支石墓はこの遺跡にあったものではない。著名な(名前を忘れてしまった)支石墓群から移築して
		きたものだという。学習用のようだ。

 


		朝鮮半島では、支石墓は3通りに分類され、(1).石棺式支石墓、(2).卓子式支石墓、(3).碁盤式支石墓である。石棺式支石墓は石棺を
		地中に埋葬し、石棺の周りは積石で満たし、石棺の蓋の代わりに大きな上石をかぶせるもので、朝鮮半島全域から中国東北部に多い。
		卓子式支石墓は平安南北道、黄海南北道に多く集中するタイプで、二枚の板石の大きな平たい石を置いてテーブルのようにする支石墓
		である。この支石墓の特徴は、朝鮮の古代の墓に多く見られる積石がほとんど無い、もしくは全く無いことである。
		碁盤式支石墓は別名南方式支石墓ともいい、高敞に代表されるような全羅南道、慶尚南道のものはほとんどこのタイプである。碁盤の
		ような厚い上石を数個の支石で支え、上石の下に積石を設け、そこに埋葬する。
		支石墓は鉄器の流入によって衰退し、それはやがて囲石木棺墓に変遷していく。鉄器の使用が本格化するのは、その後の原三国時代に
		なってからである。全羅北道の高敞の支石墓群は世界遺産にもなっている。

 


		我が国にこの墓制がいつ頃から普及したかについては諸説あるが、朝鮮半島とそんなに時期的なズレはないようだ。福岡県前原市大字
		志登にある志登支石墓群(しとしせきぼぐん:国指定史跡)や、同じく前原市大字曽根石ヶ崎支石墓(いしがさきしせきぼ)などは、
		弥生早期から中期(約2500〜2100年前)に築造されたと考えられ、佐賀県・福岡県を中心とした北九州地域に支石墓は広く分
		布している。熊本県でも、合志川と米井川に挟まれた位置にある藤尾支石墓群(ふじおしせきぼぐん)を最上流とした菊池川流域に多
		く分布している。長崎県には、壱岐・対馬を除けば、原山史跡墓群(はるやましせきぼぐん:島原)、大野台支石墓(おおのだいしせ
		きぼ:北松浦郡鹿町町)など10数ケ所である。
		我が国における支石墓の様式は(1).石棺式支石墓が多く、大きな上石を用いる支石墓は、縄文時代の終わりから弥生時代にかけて朝鮮
		半島からもたらされたものと思われるが、糸島半島の新町遺跡ではその支石墓の下から、縄文人的な形態と抜歯風習をもった弥生前期
		初頭の人骨が出土した。いわば渡来系の墓に縄文系が埋葬されていたわけで、その解釈を巡っても論議を呼んでいる。

 		前原市大字志登の志登支石墓群では、支石墓10基、甕棺墓8基などが発見されており、上石は花崗岩や玄武岩を使用し、大きいもの
		は長さ約200cm、幅約150cm、厚さ約60cmにも及ぶ。埋葬施設は素掘りの穴(土壙)や木棺、甕棺墓(かめかんぼ)であっ
		たと考えられている。副葬品として6号支石墓から打製石鏃6点、8号支石墓から柳葉形磨製石鏃(ませいせきぞく)4点が出土して
		いるが、特に柳葉形磨製石鏃の出土は、朝鮮半島との交流を物語り、この地に葬られたのは、朝鮮半島からの渡来人か、あるいは彼ら
		との融合した人たちであったことが推測される。




大韓民国国立金海博物館発行「同館案内目録−日本語版−」より転載。



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