国立中央博物館
ソウル
2002.10.27(日)
ホテルをチェック・アウトして本日の見学コースへ向かう。3泊4日の「百済の旅」も今日で終わりである。
【国立中央博物館】
国立中央博物館は、ソウルの中心部の鍾路区世宗路1街に位置し、敷地は100、612uで、所蔵遺物は13万余点にのぼる。18ケ所
の常設展示室で、5、000余点の遺物が展示されている。
1908年9月、純宗(スンジョン)皇帝の時、朝鮮皇室博物館としてスタートし、1909年11月から一般人に公開された。その後、
1938年3月、徳寿宮の石造殿周辺に李王家の美術館を建立し、1945年に韓国の主権が回復された以後、徳寿宮の美術館として存続
されていたが、1969年5月に国立中央博物館に統合された。
1950年の韓国戦争の時には、釜山に避難したが、1953年にソウルに還都してから、景福宮に移された。その後、1953年11月に徳
寿宮の石造殿に再び移転したが、1972年、再度景福宮内に移転して、1996年に現在の場所に移転し、開館するようになった。だ
がここも手狭になった為、2003年開館をめざし、現在ソウル市竜山家族公園の近くに世界的なレベルの大規模博物館を新築中で
あり、2003年には完工される計画である。
国立中央博物館は、考古学・美術史学・歴史学および人類学の分野に属する文化財と資料を収集・保存および展示すると共に、そ
れに関する研究・調査と伝統文化の啓蒙・広報・普及および交流のために設立された。ただ昔の遺物を展示する所であるだけでは
なく、遺物の保存・管理、展示、発掘調査、研究など基本的な業務以外に、文化を継承・享有し、新しい文化の暢達に寄与するた
め、子供から老人に至るまで、生涯教育と体験の場になるよう、各種の教育と行事を行っている。また、この博物館には、韓国の
伝統文化に対する多様なジャンルの映像資料と専門図書を所有している。映像資料は韓国の土器、旧石器遺跡発掘、サムルノリな
ど、全145種、各種伝統文化に対する専門図書26,000余冊を所蔵している。
この博物館は、戦前に朝鮮総督府(上)として使われていた建物を利用していたが、1996年に,戦後50年(韓国では光復50年)
を機に取り壊された。写真で見る限り、建物自体は大理石と花崗岩の巨石を使用した荘厳・重厚な建物で威厳に満ちているが、建
てられた場所が問題である。朝鮮王朝時代の王宮である景福宮の中に建てられていた。しかも全く不自然・理不尽に建てられてい
る。光化門(景福宮の正門)と景福宮の中心勤政殿の間に、王宮を遮断するかたちで横たわるように建てられていたのである。門
を入るとすぐに宮殿や広場を隠すように旧朝鮮総督府は建てられていたのだ。こういった建て方をする人間の感性というものは一
体どのようなものであろうか?
常識程度の教育しか受けていない私のつたない頭で考えても、まったく馬鹿げているとしか思えない。韓国の人々にとっては最大
限の侮辱で、解体論が絶えなかったのも当然である。皇居の中に、進駐軍がもしどでかい同様なビルを建てていたら、いったい日
本人はどう思うか考えて見ればよい。
この博物館は、構造が変わっている。エントランスは2Fで、2Fから1F、B1Fと地下へ潜って見学する形式である。各フロ
アは時代区分で分かれていて、おもしろい。1Fのフロアに、日韓併合前と朝鮮総督府があったころの景福宮のジオラマが展示さ
れている。日本が、壊滅的に景福宮を痛めつけた記録として保存されているのだが、それを行った世代の子供としては、何とも複
雑な心境だ。
国立民俗博物館をカットして、この中央博物館を3時間見たのに、見れたのは、「先史室」「元三国室」「高句麗室」の3つだけ
だった。昨年行った、加耶・新羅に、勿論百済室もあったのだけれど、「もう時間ですよー」と言われて大急ぎで回ったので、ろ
くろく見学できなかった。しかし松菊里遺跡の出土物や、元三国(馬韓・弁韓・辰韓)時代、高句麗の資料をじっくり見れただけ
でも楽しかった。ここにはもう一度来たい。朝から晩まで一日じっくりと見学してみたい所だ。
訪れた日は、「日本の美術展」という特別展が開催されていたが、もちろんそんなところを見て歩く時間はなかった。
2階
1.先史室 ― 旧石器、新石器、青銅器、初期鉄器時代の遺物
2.原三国室 ― 紀元前後から西紀300年までの遺物
3.高句麗室 ― 太王陵、双楹塚かた出土した遺物等、高句麗の遺物
4.百済室 ― 夢村土城、武寧王陵、扶蘇山城などから出土した百済遺物
5.伽耶室 ― 池山洞、福泉洞、玉田古墳から出土した伽耶遺物
6.新羅室 ― 皇南大塚、金鈴塚から出土した金冠等三国時代の新羅遺物
7.統一新羅室 ― 雁鴨池から出土した遺物及び統一新羅時代の遺物
8.企画展示室T ― 国内及び国外文化財の特別企画展示
1階
1.高麗磁器室 ― 高麗時代の代表的な磁器である象嵌青磁等
2.粉青沙器室 ― 朝鮮時代初期の代表的な陶磁器である粉青沙器
3.朝鮮白磁室 ― 朝鮮時代の陶磁器の主流を成している白磁
4.舎廊房 ― 朝鮮時代の家父長の居室である舎廊房の模型及び文房具類等
5.景福宮の模型 ― 朝鮮時代の景福宮の原形模型と旧朝鮮総督府の建物がある当時の景福宮及びその周辺
地下1階
1.仏教彫刻室 ― 金銅弥勒菩薩半跏像のほか、三国時代から朝鮮時代に至るまでの仏教彫刻品
2.金属工芸室 ― 仏教用品及び装身具等金属工芸品
3.絵画室 ― 朝鮮時代の絵画と書芸展示
4.歴史資料室 ― 書籍、文書、地図、貨幣等、韓国の歴史研究に必要である遺物
5.水晶記念室 ― 水晶 朴秉来先生の寄贈遺物として青華白磁が主流をなしている
6.東垣記念室 ― 東垣 李洪根先生の寄贈遺物として高麗磁器、仏教工芸品、絵画等が展示されている
7.井内 功寄贈瓦摶室 ― 日本人井内功先生の寄贈遺物として、瓦摶類が展示されている
8.企画展示室U ― 国内及び国外文化財の特別企画展示
先史室
河原さんが見ている視線の先あたりが、松菊里遺跡出土の土器である。
上記の青銅器は、日本には伝わって来なかったものが多い。
<大阪府弥生文化博物館のパネル>
原三国室
高句麗室
広開土王碑のある場所は、現在は中華人民共和国の山東省である。
上左の将軍塚が、広開土王の墓ではないかと推測されている。
東江さんと高句麗室を見学していたら、日本語を使ってみたいという、ボランティアとおぼしきおばさんが寄ってきて、「ご案内
しましょう。」と言う。高句麗の有名な壁画古墳「長州1号墳」の復元模型が作ってある部屋に、立ち入り禁止のロープが掛かっ
ていたが、それをはずして中へ入れてくれた。おばさんが古墳について説明してくれる。公式には写真撮影禁止だが、「撮っても
いいですよ」とこのレプリカの中を撮影させてくれた。途中から「私より日本語のうまい人と交代します。」と言って、ちょっと
艶めかしいおばさんと交代したが、このおばさんがまた付きっきりで案内してくれた。ちょっと時間が足らなかったのはそのせい
もある。しかし善意で案内してくれるものを拒むわけにも行かず、とうとうおばさんは、出口の集合場所まで付いてきた。
【南大門(ナンデムン) 】
韓国国宝第1号。南大門はソウルの城郭の正面にあり、正式な名前は崇礼門(スンエムン)。朝鮮太祖7年(1398)に創建された後、
世宗30年(1448)に大改築された。都城の南側にあったということで南大門と呼ばれたと言う。堅固で堂々とした構造で威厳にあ
ふれた建物である。韓国に現存する木造建築物の中で最古という。
【百済の古都「漢城」(ソウル)】
百済という漢字は、現代はもとより、古代の日本語で解析してもクダラとは発音しない。ヒャクサイなどとしか読めないと思う。
一体どうして百済をクダラと呼ぶようになったのだろうか。語源についてガイドの金(キム)さんが話してくれる。韓国語でナラと
言えば国という意味がある。日本の奈良の語源はこの韓国語だという説もある。強調の言葉であるクンを頭につけるとクンナラとな
り、これがなまって百済になったという説、日本でも白村江で有名な錦江下流(白馬江)に船着き場があり、この船着き場のことを
韓国語でクドゥレといい、これが百済になったという説、などがあるが、いずれも定説とはなっていない。それにしても、クダラと
いう読み方をどうして百済という漢字に当てるのかはどこにも書いてない。
百済は、もともとは高句麗の王族の一派から派生した民族で、漢江下流域のソウル東南部を中心に栄え、4世紀頃に台頭し、京畿道
・忠清南道にその勢力を伸ばす一方、近肖古王のときに北方の高句麗を撃退し、中国・東晋に使いを送るなど、国際社会に登場した。
5世紀には王の墓所としてソウル市・石村洞古墳群に巨大な積石塚を造営するが、高句麗・長寿王の攻撃を受けて475年に王都漢
城は陥落し、百済は錦江流域の熊津(忠清南道公州市)、続いて泗砒(忠清南道扶余郡)に遷都した。南遷した百済は全羅南道の馬
韓を制圧し、王都では仏教文化が栄えた。
【李舜臣(イ・スンシン)将軍像】
景福宮をバックに、大きな刀剣を握って仁王立ちで構えているのが李舜臣(イ・スンシン)将軍の銅像である。李舜臣将軍は、韓国
人で知らない人はいない有名な英雄である。秀吉の文禄・慶長の役(韓国では壬申倭乱:1592-1598)で亀甲船を建造し、日本水軍を
撃破して、ついに朝鮮から撤退させた、百戦錬磨の将軍だった人物。世宗大路とよばれているソウルでも屈指のストリートの真ん
中に建てられている。世宗大路は朝鮮時代のメインストリートだった通りで現在は片道8車線、合計16車線もある巨大な通りであ
る。李舜臣将軍像は、王が居城する景福宮を背にして、遠く遙かな日本の方角を睨んでいると言われる。
【63 ビル】(上右方向)
漢江の南、汝矣島に位地した韓国で一番高いビルである。63ビルは地下3階、地上60階となるビルで海抜264m地上高249mに至る。
この63ビルの頂上60階に位地した展望台は時計半径がおよそ50km以上でここからソウル都心はもちろん晴れた日には遠く 仁川まで
見ることが出来るという。
【ブルゴギ・ カルビ】
韓国料理で焼き肉と言った場合、ブルコギとカルビの2種類がある。ブルゴギは韓国で最も好まれている料理の一つで、日本でこれ
に近い物と言えばジンギスカンだろうか。テーブルの上にバナーを置き、丸いグリルを乗せて焼く。薄く切った柔らかい牛肉を醤油、
ごま油、玉ねぎやその他のヤンニョムで作ったソースでしみこませておいてから食卓で熱い炭火で焼く。 もう一つのカルビも、牛肉
・豚肉を焼いて食べるのは同じだが、韓国でカルビと言うと必ず骨が付いた肉で、ついていないのはカルビではない。カルビもとて
も人気のある食べ物であり、食卓で焼いて食べる。料理屋では焼けた肉をハサミで切ってくれるので、初めて見る日本人はびっくり
して、年輩者ほど「ハサミで食べ物を切るなんて。」と顔をしかめるそうだ。
【韓国語の挨拶】
アンニョンハシムニカというのは固い言い方だそうで、主に書き言葉に用いるそうである。普通の会話ではアンニョンハセヨを使う
らしい。アンニョンは「安寧」と言う意味で、絶えず戦火の中にあった朝鮮半島で、会う度に相手が無事かどうかを確かめたのがこ
の挨拶の始まりという。ちなみに、今回の旅で私が覚えてきた韓国語は「グディオプシン・モッサラ」だ。グディオプシン(生きて
いけない)・モッサラ(あなたがいないと)。
全ての日程を消化して、空港へ向かう途中で見た韓国平野の夕陽。何となく飛鳥の夕陽を思い浮かべたのは私だけだっただろうか?
昨年の「加耶・新羅の旅」に引き続いて、今年は「百済の旅」。たった3泊4日の旅だったが古(いにしえ)の百済を十分満喫した
旅だったように思う。韓半島南西部(百済南部)をまだ見ていないし、来年は済州島へいう声もある。中国の西安で始皇帝の兵馬庸
を見たいという声もあがっている。「日本人はどこから来たのか?」 我が倶楽部のメイン・テーマであるこの主題を追って、我々
の旅はまだまだ当分続きそうである。
邪馬台国大研究・ホームページ/ 歴史倶楽部 −韓国の旅・百済の旅−/chikuzen@inoues.net