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 大正時代後半の邪馬台国研究 



	大正時代の終わり頃に提起された考古学的見地から見た邪馬台国論は,その遺跡遺物の多さから邪馬台国=大和説
	を唱える者が多かった。邪馬台国東征説の和辻哲郎に対して,高橋健自は,前方後円墳は日本独自の墳墓であり広
	く畿内に分布している事から,邪馬台国も畿内であったと推論できる,と主張した。             
	これを契機に,考古学の成果を基にした研究があいついで発表される。坪井九馬三,中山太郎,笠井新也,山田孝
	男,三宅米吉,白鳥庫吉,豊田伊三美といった論者達が,考古学関係の雑誌を中心に次々と自説を発表した。中で
	も、最も論理的に大和説を説いたのは笠井新也であると言われる。
	笠井は、サカムク古墳群の中にある箸墓古墳を卑弥呼の墓であるとし、卑弥呼は倭トト日百襲姫の命(やまととと
	ひももそひめ)である、と主張した。これは、現在でも大和説論者に多くの継承者がいる事でその洞察力が窺える。
	笠井は、邪馬台国当時は大和朝廷がすでに日本を統一しており、その政治的な勢力・文化的な影響は九州勢力をも
	支配していた、とする。






	橋本増吉はこれらの大和説に対抗し、高橋健自の考古学重視を批判した。『歴史学者があまりに識見のみで発言する
	のも問題だが、考古学者が遺物に固執してその解釈に依存するのも事実を見えなくする。』などと言って、考古学的
	な見地の幾つかに疑問を提示した。即ち、前方後円墳の成立は考古学者の言うように製作年代が判明している訳では
	無い、畿内の銅鐸文化が九州文化よりも古いと言う確証など何もない、とかの批判を投げた。これに対し梅原末治が
	反論したが、さらに橋本の反撃を受け沈黙した。橋本は、本来邪馬台国問題は魏志に記された記録上の問題であって、
	現在の考古学者は記録など無視し考古学の成果しか見ていない、もし考古学の成果を歴史解釈に用いるのであれば、
	それはその成果が確立不動のもので、何処にも異論のないもので無ければならない。又、考古学者も、社会学・民族
	心理学・人類学・土俗学・言語学・史学等の諸科学と相協力して真理に到達すべきである、と説いた。      

	この橋本の反撃は、考古学者達に遺跡遺物のみで判断していた態度を反省させたと、後に井上光貞も指摘している。


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