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邪馬台国東遷説の登場



	神武東征と言っても,今の若い世代の人は何の事か解らないかもしれない。私も四十代後半に差し掛かったが,
	私と同年代の友人達の中にも,この事跡をキチンと説明出来る者は少ない。
	それは,第二次大戦後の歴史教育が,日本の歴史の中から神話・伝承の類を一切排除したからである。古事記や
	日本書紀は,存在自体は教わってもその内容を検討するようなカリキュラムは学校教育から姿を消してしまった
	のだ。
	しかし,これは当時としてはもっともな事であった。即ち戦前の皇国教育があの第二次世界大戦を引き起こしそ
	して破れたのであるから,同じ教育を繰り返すまいとした教育界の姿勢として,しごく当然のなりゆきであった。
	角川書店を起こした角川源義も,角川文庫のあとがきの中でこう述べている。「第二次大戦の敗北は,軍事力の
	敗北であると同時に,若い私たちの文化力の敗北であった。」と。これが戦後の文化陣を包んでいた当時の空気
	であった。
	神話に書かれた歴史をそのまま史実として国民に教え込み,天皇家の絶対性・優位性を示して国民を鼓舞してい
	た当時の軍部や内閣は,とんでもない悪党共であった、と戦後あらゆる方面から糾弾されたのだ。そして天皇の
	神格化に繋がる材料はすべて教育の現場から消滅させられた。
	私が実に不思議に思うのは,そのどちら側に居たのも同じ人達である点なのだが,それについてはここでは触れ
	ない事にしよう。
	ともかくそう言う事情で,戦後の教育を受けた人達が神話に詳しくないという今の現状が出来上がった。
	そこで,若干その辺りの解説をしておきたいと思う。お断りしておくが,私は戦後教育が正しいとか正しくない
	と言った議論には,ここでは一切興味がない。全て歴史を学問としてその対象を吟味する,という立場から我が
	国古代の神話を取り上げているにすぎないのであって,政治的な意図は全然無い。




	我が国古代の伝承を今日に伝えている書物は,古事記と日本書紀の二つだけである。七百十二年太安万侶(おおの
	やすまろ)は,天武天皇の命を受け編纂していた国史を『古事記』三巻として元明女帝に献上した。我が国初の歴
	史書である。古事記の序文には,編集にあたっての事情が記載されている。それによれば,六百七十三年「現在散
	乱する我が国の歴史書は虚実入り乱れている,と聞く。そこで稗田阿礼(ひえだのあれ)が詠むところの歴史を記
	録し,我が国の正しい歴史として長く後世に伝えようと思う。」という天武帝の詔(みことのり)で編纂が開始さ
	れた。
	しかし,天武帝は完成を待たず崩御し,持統,文武の時代を経てやっと元明女帝に献上された。               
	それから八年後(720年)元明女帝の皇女元正女帝の時代に,『日本書紀』三十巻が舎人親王等によって完成した。
	日本書紀が,我が国における初の官選歴史書である。
	古事記も日本書紀もいわゆる神代時代から始まって,古事記は第三十三代推古天皇まで,日本書紀は第四十一代持
	統天皇までの事跡を扱っている。
	古事記は前半部分の方が詳しく,日本書紀は後半部分の方が記事が詳しくなる。又,古事記の方が古くからの言葉
	をそのまま残そうとしている。現在では母音はあいうえお の五つしかないが,古事記は当時八つあった母音を異 
	なる漢字で書き分けている。
	ともかく,それぞれ研究の対象に選べば,それだけで一生費やせそうな内容を持った重要な文献である事は間違い
	ない。この二つの書物の初めの内容はいずれも神話であり,古事記の上巻は大きく五つの部分に分かれている。 


	1.國生み神話.....天地開闢(かいびゃく)から,イザナギ,イザナミの話が中心。       
	2.高天原神話.....アマテラスとスサノオを中心とした,神の國高天原での話。         
	3.出雲神話.......高天原を追放されたスサノオが出雲で退治する八俣のオロチや因幡の白兎の話。
	4.日向神話.......天孫降臨から,海幸彦・山幸彦等の物語。                 
	5.神武東征神話...日向の高千穂から東を目指して遠征する神武天皇の東征記。         


	二番目の神話の主人公は天照大神(あまてらすおおみかみ)と呼ばれる女性である。天照大神は高天原(たかまが 
	はら)に住み,八百万の神々と高天原を治めていた。彼女の弟素戔嗚尊(すさのおのみこと)とのけんかや,天の 
	岩戸事件はご存じの方も多いだろう。天照大神の孫,邇邇芸の命(ににぎのみこと)は,天照大神の命令で日向  
	(今の宮崎県)の高千穂の峰に降臨した。その子,火遠理の命(ほをりのみこと),その又子,鵜茸草茸不合の命 
	(うがやふきあえずのみこと),そしてその子,神倭伊波礼毘古の命(かんやまといわれびこのみこと=神武天皇)
	と,以後三代に渡って日向に住んだとされている。神武天皇は,「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを 
	討たん。」と東国への遠征を実施する。日向を発し,大分県の宇佐や福岡県の遠賀郡芦屋に寄り豊後水道を東進し,
	吉備,難波,熊野と経由して大和に入る。大和を平定して,畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築 
	く。こうして神武天皇は我が国最初の天皇となり,大和朝廷がここからスタートした。以後天皇家は平成の現在ま 
	で続いている,という事になっている。
	この,神武天皇が日向を立って橿原に都を定めるまでの色んなエピソードが,古事記と日本書紀にほぼ同じ内容で 
	記録されているのである。そして,これを『神武東征』と呼ぶ。戦前は史実として教育にも取り入れられていた。 






	前項で述べたように,明治期に,学問的にこの神武東征が何らかの史実を反映しているのではないか,と示唆したの 
	は,東京大学の白鳥庫吉である。彼の見解は,同じく東京大学の哲学者和辻哲郎(1889〜1960)によって受け継がれた。
	大正9年に著した『日本古代文化』の中で,彼は邪馬台国九州説を唱え,古事記・日本書紀と魏志倭人伝の記述の一致 
	を指摘している。白鳥が述べた論旨とほぼ同じである。
	更に和辻は,大和朝廷は邪馬台国の後継者であり,日本を統一する勢力が九州から来たのであり,その伝承が大和朝廷
	に残っていたのだと主張した。彼は伝承のみでなく,邪馬台国の突然の消滅と大和朝廷の突然の出現,銅矛銅剣文化圏
	と神話との一致,即ち古事記日本書紀に銅鐸文化について全く記事がない事,などにも言及し,神武東征を史実あるい
	は史実に近いものと考えたのである。
	戦後は,歴史教育の場からこれらの日本神話は全く姿を消してしまったのであるが,この説は,主に東京大学の学者を
	中心に支持され発展し続けた。その後も東大教授のみならず,栗山周一,黒板勝美,林家友次郎,飯島忠夫,和田清,
	榎一雄,橋本増吉,植村清二,市村其三郎,坂本太郎,井上光貞,森浩一,中川成夫,金子武雄,布目順郎,安本美典
	,奥野正男といった幅広い分野の学者達がこの立場に立っている。
	私自身も目下の所,この説が一番説得力があり客観性に富むものだと考えている。


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