SOUND:Hey Jude







大正時代の邪馬台国研究



		白鳥・内藤論争の後を受け盛んに論評されるようになった邪馬台国問題だが,明治から大正にかけては
		志賀島で発見された金印を巡っての論争が再発した。稲葉岩吉(1876〜1940)は明治四十四年に著した論
		文の中で,落合直澄が唱え三宅米吉が広めた「漢の委の奴の国王」という金印の呼び方が誤りであると
		した。この年内藤虎次郎が発表した,倭面土=委奴=邪馬台=大和(これは全てヤマトと呼ぶ。)説に
		基づいて,委奴をヤマトと呼ぶべきだと主張した。大和説の援護射撃のようなものだろう。これに対し
		て喜田貞吉(1871〜1939)は,倭面土国は倭奴国と同じものであるという考えは,ただ発音が似ていると
		いうだけで何の歴史的な証明もない,と反論した。                       
		二人は,	「稲葉君に質(ただ)す。」「喜田博士に答ふ。」「稲葉君の反問に答ふ。」と論戦を繰り返 
		した。これとは別に,中山平次郎(1871〜1956)は,金印が倭国の大乱のあおりを受けて隠されたもので
		あるという説を発表した。






		大正時代の邪馬台国研究の特徴は,次項で述べる「邪馬台国東遷説」の出現と,考古学者のこの問題へ
		の参加であろう。喜田貞吉も,大正五年「遺物遺跡上より見たる九州古代の民族に就いて」の中で考古
		学的遺物について言及しており,卑弥呼の墓を北九州の円墳ではないかと述べているが,大正十年考古
		学会の例会で高橋健自(1871〜1929)は次のように語って,考古学者も邪馬台国問題に大いに発言すべき
		であると主張した。即ち,「邪馬台国問題のようなものは,文献だけでいくら研究しても解決しない。
		当然我々考古学者が手を着けなければいけない問題であって,考古学的に考えないと到底解決には至ら
		ない。」と。そして,古屋清と富岡謙蔵(1871〜1918)の論文に触れている。富岡の弟子であった梅原末
		治は,大正十年,十一年と発表した論文において,師富岡の説を発展させ,九州北部の甕棺や銅剣・銅
		鉾文化と,畿内の銅鐸文化の違いについて述べ,考古学的には邪馬台国は畿内の大和にあったとした。


邪馬台国大研究・ホームページ / INOUES.NET / 研究史5