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東京大学と京都大学のバトル



		東京帝国大学の白鳥庫吉(1865〜1942)は,明治時代における我が国史学界の第一人者であったが,明治四十三年
		『倭女王卑弥呼考』を著し,邪馬台国九州説を唱えた。倭人伝に記されている里数・日数を検証し,具体的な比
		定地は筑後の国山門郡あたりを考えたようである。又卑弥呼についても言及し,神功皇后である可能性よりは,
		むしろ神話上の天照大御神(アミテラスオオミカミ)に近い存在である,と述べている。
		更に,天照大御神と素戔嗚尊(スサノオノミコト)の関係,高天原における天の安河(アマノヤスノカワ)等についても考察し,
		倭國の大乱等倭人伝の記述と神話上の出来事がよく似通っていることを指摘し,古事記、日本書紀が,太古から
		の何らかの史実を伝えたものであるとすれば,卑弥呼はまさしく天照大御神として後世に残った可能性があると
		する。近年,とみに合理性を増してきたと思われる「邪馬台国東遷説」の萌芽と見ても良い。

		同時期,即ち明治四十三年の,『倭女王卑弥呼考』が発表されたのと全く同じ月(6・7月)に,京都帝国大学の
		内藤虎次郎1866〜1934)は,雑誌文芸に『卑弥呼考』を発表し,邪馬台国大和(奈良県)説を唱えた。白鳥は陸行
		一月を一日の誤りとしたが,内藤はこの点を「・・・・・軽々シク古書ヲ改メンコトハ従ヒ難キ所ナリ。」と述
		べ白鳥説を批判している。魏志より後の『随書』『北史』に出てくる邪摩堆(ヤマト)とは,魏志で言うところ
		の邪馬台であるという記述を受け,随も今の大和が邪馬台國と看破した証拠であるとし,当時の人口七万戸を擁
		する程の地域は大和地方以外に考えられない,とした。内藤は,卑弥呼を「倭姫命」(ヤマトミメノミコト)に初めて比定
		した事で知られるが,白鳥に対して加えた数々の批判の方がむしろ有名である。

		二人は,当時きっての歴史家であり,後の史学界にも大きな影響を与えた史家であるが,この時の二人の論争が,
		九州説と大和説という,今日でも延々と続いている学問上の論争の発端となった。
		二人の説の発表後,直ちに邪馬台国問題について論陣がはられた。著名な歴史家,気鋭の研究者達が,それぞれ
		白鳥説,内藤説に共鳴したり批判を加えたりしたが,その論調には一つの特徴があった。
		それは,白鳥説,内藤説の論者達が,完全に東大と京大に色分けされた事であった。つまり,東大の学者達は白
		鳥説を支持し邪馬台国=九州説を叫び,京大は内藤説の大和説(畿内説)を擁護した。  ここに至って,邪馬
		台国問題は東大と京大の戦いの様相を呈したのである。このバトルはその後長きに渡って影響を及ぼし,東大の
		学者には九州説論者が多く京大には畿内説論者が多いという,今日でも見られる一つの傾向を生み出す事となっ
		た。

		この潮流については理解出来無くもない。学派の御大,或いは自分の恩師に反対する説を唱えるには,現在でも
		相当勇気が必要である。又,史学もやっと近代学問の仲間入りを始めた明治期の頃,師の説を分析批判できる程
		の学問的キャリアを積んだ連中は,そう多くは無かった事も容易に想像できる。しかし、その後も多くの学者達
		がこの世襲を守っているように思えるのはうがった見方なのだろうか。それともやはり巷間囁かれるように,邪
		馬台国問題も学閥の大きな系脈から外れる事ができないでいるのだろうか。そう言えば,最近の新しい見方や発
		想で邪馬台国問題に取り組んでいる研究者というのは,東大,京大といった権威ある研究部署ではなく,小さな
		私立大学や地方の研究機関にいる人達ばかりのような気がしないでもない。
		しかし,この日本史上有名なバトル(論争)も,邪馬台国問題に対する人々の関心を引きつけ,学問的にも多く
		の解釈を生み出した事で意味があったと言える。




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