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明治時代の邪馬台国研究



	明治時代に入ると,社会のあらゆる面で近代化が押し進められるようになった。政治,経済,生活,文化,そして,学問の
	世界も西欧諸国に倣って近代的な研究機関や体制が作られ始めた。歴史学の分野に置いてもその波は同じであった。欧州か
	ら来日した学者達も多数おり,建築,機械,土木といったいわゆる実学以外にも,大森貝塚を発見したモースのような,人
	文系の学者達も日本の学問の近代化に大きな貢献をしたのである。近代史学の上で,邪馬台国研究はどのような展開をみせ
	たのだろうか。

	明治時代の前半は,日本古代史研究においては邪馬台国問題よりも,古代の紀年すなわち年代の研究の方に人々の関心は集
	まったと言える。明治十一年に,那珂道世(1851〜1908)の著した『上古年代考』がその端緒であろう。彼は,古代史におい
	ては年代が定まらない限り,いかに詳細な記録があったとしても,それを外国の歴史と対比させて研究したりする事はでき
	ない。まず我が国上古の年代をはっきり定めるべきであると述べている。そして,神功皇后の年代は卑弥呼の年代とは異な
	り,従来言われてきた卑弥呼=神功皇后説は誤りであると説き,これに対し各方面から異論が巻き起こった。ウイリアム・
	ジョージ・アストン(1841〜1911),バーシル・ホール・チェンバレン(1850〜1935)と那珂道世の間で一大論争が行われ,以
	後多くの学者が論争に加わった。後世これを「紀年論争」と呼んでいる。

	那珂道世は,明治二十一年更に詳細な論文『日本上古年代考』を著したが,この紀年論争に関係して,明治二十年代は邪馬
	台国論争が華々しく展開された。特に卑弥呼は神功皇后であるや否やを巡って大論争が巻起こったと言ってよい。論争には
	中村正直,久米邦武,阿部弘蔵,橘良平,津田真道,吉田東伍他数十名の学者達が参加している。
	折から日本は,富国強兵の気運真っ直中である。神功皇后の征韓説は事実ではないという論文が出るとすぐさま,国体を無
	視するものであると反論が起き,三宅米吉が

	「或一部ノ先生達ハ,年代ノ捜索ナドヲ好マレズ・・・・・・其ノ量見ノ甚狭キヲ惜シムナリ。・・・・・」

	などと反論している。今日の視点に立って見れば,これらの論争は滑稽に見えなくもない。しかしそれは我々が,これらの
	先人達の研究の成果の上に築かれたその後の膨大な事実を既に知っているからであって,当時の論争の中にあっては知的最
	高水準での論争だったのである。

一連の論争の中で,邪馬台国問題研究は発展のきざしをみせていた。
久米邦武は卑弥呼を委奴国王であるとし、星野恒は筑後山門にいた田油津媛の先祖であると説いた。菅政友は「漢籍倭人考」で,本居宣長が邪馬台国を筑紫とした事を批判し邪馬台国を薩摩大隅と比定している。琉球から見れば薩摩もヤマトであるから等と述べているが,少々無理があろう。彼は,倭人伝に現れる大人を酋長,下戸をその家来と初めて断じた事で知られる。 吉田東伍は,菅政友の後を受け「日韓古史断」という大作を著し微細に邪馬台国問題を研究したが,結論は,邪馬台国は熊襲の國都噌於城(今の宮崎県都城)であり,卑弥呼は其の辺りの「日の御子」が大和の倭王と偽ったものである,というものだった。これに影響を受け,那珂通世は『外交繹史』のなかで噌於郡は女王の都スル所であると強調した。 これは,神武東遷後大和には皇朝が成立していたがその力はまだ九州には及んでおらず,神武天皇のふるさと高千穂の峰あたりの熊襲が魏と交流していたというものであり,『古事記』『日本書紀』の内容を全面的に信用する立場からくる解釈であった。
この時期は,断片的には取り上げられたりもしたが,本格的には邪馬台国への行程記事に言及したり,風俗習慣をとりあげて多角的に邪馬台国を捉えようとする試みはまだ少なかった。学者達の脳裏でも,「皇国」が第一義にあったのだろうと推察される。


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